川崎塩浜の小島新田の石油化学コンビナート群がある湾内に、停泊している船などを修理する作業船である。川崎らしい少しスモッグの混じった曇り空で、修理作業から帰ってきた作業船が一服しているところである。工場従業員も、仕事が終わって工場から出た時、この船を眺めながら、ご苦労さんと言って、帰路につくのである。
御殿場にあるとらやの工房の庭園である。3月の新緑の庭園が、自然のままに管理されていて、癒される空間となっている。この建物の中では、とらやの料理やお菓子を食べることもできる。隣に、元総理の岸信介の別邸があり、内部を見学できるようになっている。
紀元前200年頃、中国から有明海経由で佐賀に上陸した徐福一団が吉野ケ里に集落を作った。それから100年後、大陸から渡来して来た物部族が九州の限界灘一帯に上陸し、その中の一つの物部族が大勢力に成長する。さらに、紀元前後に宗像族が天皇家の祖先天孫族を擁立して、博多湾の香椎から宗像の地にかけて上陸する。この物部族と宗像族が、天皇族を擁して、南の筑紫平野に移動を開始する。遠賀川を遡上し、稲作を普及しながら、その源流部の山を越え、小石原から、筑後平野、久留米、八女へと進出を図った。
中世の街並みがそのまま残ったブルージュには、町中に運河が巡らされているが、その一角を雨上がりに捉えた作品である。カレンダーにも採用された作品である。
ブルージュはヨーロッパの貿易の中心として、船による輸送が盛んに行われていた。その後、貿易の中心がハンブルグやアムステルダムに移ったため、衰退してしまった。見捨てられたことによって、その後の、幾度もの戦果を逃れ、中世の街並みがそのまま残ることとなった。そのことが幸いして、近代になって、観光都市として注目されることとなった。