前回の東京裁判関係文献の読書感想文に引き続いて、関連した文献の読書感想文である。
その気になったところと言うのは、
引用《
P.332 6行目
…滝川は東京法廷であきらかになった南京事件については、日本軍による大規模な暴虐があったことをみずからの現場検証とも照らしあわせて事実として認めており、東京裁判の史実確定の機能をある程度は評価していた。
》
上記の中の【現場検証とも照らしあわせて】というところである。因みにその【現場検証】についての説明として、滝川政次郎弁護人(旧海軍大臣の島田繁太郎被告の補佐弁護人)が1953年に出版した東京裁判の回想録兼概説書『東京裁判を裁く』からの引用である。
引用《
当時私は北京に住んでいたが、南京虐殺の噂があまりに高いので、昭和十三年の夏、津浦線を通って南京に旅行した。南京市街の民家が概ね焼けているので、私は日本軍の爆撃によって焼かれたものと考え、空爆の威力に驚いていたが、よく訊いてみると、それらの民家は、いずれも南京陥落後、日本兵の放火によって焼かれたものであった。南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半年を経た当時においても尚冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語ったところによると、現在南京市内にいる姑娘で日本兵の暴行を受けなかった者はひとりもいないという(『東京裁判を裁く』下巻 P.114)。
》
この引用文から判ることは、
①彼が弁護人としての調査、警察及び検察の捜査として南京に赴いたのではなかった。
②単に興味本位のきらくな【旅行】だった。
③市街地を巡ったコースが不明。
④日本兵の放火と証言した人物が不明な事。又日本兵の放火が断定できる物証があったとしても理由が不明。
⑤南京の婦女子に声を掛けたエリアが不明な事。又状況が不明。
⑥南京市内の女子が全て日本軍の暴行を受けたとの洋車夫の証言があった。ならば、混血児の調査と産婦人科での堕胎処置の件数の調査していない。
①〜⑥のことを考えれば、【現場検証】となどと呼べるかどうかは、一顧だにもできないはずである。
法学関係の人間ならば、この辺ぐらいは【疑問】を持つはずであるが、この戸谷氏は【絶対に証拠は調査しない主義】全開なので滝川政次郎の【回想】を【事実】として認識し拡散しようとしてる。
むしろ、このような【印象】を持つ人物が、弁護団に加わっているし、又戒能通孝氏のように【共産主義・社会主義】へのどちらかというと傾倒が見られる人物が【南京暴虐事件】自体への反論を【妨害・阻害】したとも想像は可能である。
また、菅原裕弁護人(旧陸軍大臣の荒木貞夫被告の主任弁護人)も引き合いに出しているが、その菅原氏の回想『東京裁判の正体』(1961年出版)で【他方では、しかしそのうち二割方は真実だと考えないわけにはいかなかった】との記述を事実の証明としていることについても、頭からの【事案係争】を【投げ捨てて】いる弁護団ならば、そう【思う】のはあり得る話だとうなずけても、その感想が【事実】又は【真実】とは又【別】である。
まして【二割方】とは、何に対して二割方なのかも明記がない。【殺害人数か】それとも【残虐性】か、【殺害・強姦・放火・略奪】のパーセンテイジかも提示していない。この菅原氏の記述は、東京裁判における【証言者の証言】【口供述書】からの、検証を放棄した上での単なる【想像】による【感想】に過ぎない。
厳しいことを言えば、現地での【現場検証】や被告人に相当する将校・兵士を証人を召喚したりする必要があったのにもかかわらず、事実係争を放棄した人物達の単なる言い訳に過ぎないだろう。(ただし、予算・人員・時間とも厳しい制限のあった弁護団には不可能だったことは承知の上である。)
《そうしたうわさがあったことからこと何千キロも離れた北京に住みながらも、滝川は現場にみずから向かって真実を確かめようとしたのだった。》と、滝川氏を持ち上げようとするのだが、滝川氏が【南京旅行】をおこなったのは、1938年11月で、すでに『日寇暴行実録』という中国国民党と中国共産党の制作した戦時宣伝書が既に出版されているし、7月には香港などでも、ティン・パーリーによる『外国人が見た日本人の暴行』というプロパガンダ書籍が世に出されている。LIFEやLookなどでも盛んに事実と異なる【日本軍の悪業】を煽っている。上海近辺からの情報(虚偽)は拡散している。東京大学教授の韓 燕麗(カン エンレイ/Yanli Han)論文『戦時中の重慶における官営撮影所の映画製作について―『東亜之光』を中心に』によると、1938年4月に香港で『戦時中国』(China at War)という英文月刊誌を出版などしているし、1938年に「日本侵略者の暴行」を写した写真および映画がアメリカの各地で展示・上映された。また、ロンドンにおいても、『中国反攻』『南京失陥』『中国為自由而戦』など6本のドキュメンタリー映画が、述べ400回も上映されている((18)劉景修「抗戦時期国民党的対外宣伝紀事」重慶市檔案局『檔案史料与研究』第5期、1990年3月。前掲謝儒弟主編『重慶抗戦文化史』163–164頁より転引)とある。これらは、蒋介石国民党麾下の共産党系である軍事委員会政治部の陳誠および中央宣伝部と外交部の要員の指令で行われている。
つまり、事実ではなく【虚構話】による情報である。当然ながら、南京では1937年12月15日以降、メディアの人間は南京には居ない。つまり拡散される情報は、それらしき情報か伝聞から想像したものにすぎない。それを滝川弁護人が聞いただけと推測が出来る。現場検証などではない単なる観光旅行中の南京市内での出来事が彼をそういう虚偽情報が事実であると思い込んでしまっただけと考えられる。
【南京事件と泰緬「死」の鉄道】のセクションで、もう一人に被告である武藤章をあげている。
引用《
中支那方面軍の参謀副長だった武藤章があげられる。かれは日本軍が残虐行為をおかしたことを法廷内外でいくども認めており、たとえば開廷以前の国際検察局による尋問では、「南京の場合は、二大隊か三大隊が市中に入ることになって居りました。ところが全軍入城してしまった結果、ついに南京略奪暴行事件となったのです」とのべている。つづけて武藤は、国際検察局の調査官とつぎのような問答をしている。
問 支那でも比律賓でも、非常に多くの罪のない婦人子供が殺害され又は強姦せられたことを知って、貴殿は良心の苦しみを感じませんでしたか。
答 南京及びマニラの残虐行為のあと、自分は両件に於ける参謀の一幕僚でしたので、日本の軍隊教育に何か欠陥があると感じました(15)。
右の発言から、南京のみならずマニラなどその他の地域でも自国軍による残虐行為があったことを武藤が認識していたことがわかる。また無党派、問題の根源が日本の軍隊教育にあるかもしれないとものべていることから、軍律問題の根がたいへんふかいと自覚していたこともわかる。公判中も武藤の証言はほぼ一貫しており、事件当時に塚田参謀長から「窃盗、殺人、殴打及び強姦事件のあったことを聞きました」とのべている。また、侵攻以前に選別隊のみ入城をさせる命令がなぜくだされたのかという質問に対し、「若し余り多数の軍隊を南京に留ることを許したならば、是等の軍隊が上海に於て艱難辛苦を嘗めた事に鑑み、扮擾が起ると感ぜられたのです」とも証言した(16)。武藤被告や日本人弁護人による証言は、ここ数十年にわたって保守層が主張してきた南京大虐殺まぼろし論に疑問を呈する内容であり、重要である。
》
【南京の場合は、二大隊か三大隊が市中に入ることになって居りました。ところが全軍入城してしまった結果、ついに南京略奪暴行事件となったのです】という下りだが、
偕行社『南京戦史』や冨澤繁信氏の『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』の序版で解説されている南京攻略軍の配置と城内掃蕩部隊を知るとこの武藤章の言質がおかしいことが判る。考えられるのは①参謀副長と言っても全軍行動の把握をしていなかった。②裁判時による虚偽を行っている。③忘却しているなどの3点である。
冨澤繁信氏の論文『原典による南京事件の解明』から地図を参照させて頂くと、各部隊の掃蕩エリアを区切って活動していることを考えれば、各師団司令部は城外に置いていたり、無軌道に【全軍】が城内に入ったという【事実】は窺えない。
この主張をとっているのは秦郁彦氏を初めとする笠原十九司氏などの【南京大虐殺肯定派】の人々で、この根拠の無い想像による論旨に拘泥する理由は、どうしても【南京大虐殺】を肯定したい欲求があると透けて見える。(秦郁彦氏は中間派と呼ばれているが、偕行社の戦史研究から派生した中間派とは異なり、中国共産党への忖度と妥協の産物である【4万人説】を唱える【南京大虐殺肯定派】に属する人物。)
それと、開廷以前の国際検察局による尋問は、弁護人を同伴しない被告の人権を無視した尋問であることをこの戸谷という人物は無視して居る。人権を掲げて活動している人物が呆れ果てる知見である。
又この国際検察局の次の尋問【非常に多くの罪のない婦人子供が殺害され又は強姦せられたことを知って、貴殿は良心の苦しみを感じませんでしたか。】は、あきらかに誘導尋問だろう。
こういうことを【世界人権宣言】などからの人権的考え方を理解しているはずの戸谷氏が如何に人権など考慮もしていないことが判るのではないだろうか。
どのような悪人であれ、個人の人権は【法廷】で【罪】が判定されるまでは、その個人の人権は守られるのが【法廷の大原則】だろう。
呆れ果てた人権活動家である。
もう一つ、【パル判事の反対意見とその波紋】で
引用《
ただしパルの指摘する日本の直面した「脅威」とは、おもに経済的・政治的・思想的な脅威であって、軍事上のものではない。反対意見によると、中国における共産主義の伸張、中国における日本商品ボイコット運動、米国による蒋介石に指示される中立主義違反、西洋諸国による経済封鎖などの事象が、日本にとって自衛戦争を起こすためのじゅうぶんな根拠を為すという(3)。つまりパルが展開する自衛論とは、さしせまった軍事上の脅威があるかないかにかかわらず、自国が非友好的な国際環境におかれた(傍点付き)という「誠実な」認識をもったとき、その国家指導者が打開策として自由に軍事力を発動してよいというものだった。
》
この文章について、近年の研究では、(イ)【中国における共産主義の伸張】は、ソ連とその共産主義者のスパイによる【影響工作】による日米の政策を歪められてしまった。(ロ)【中国における日本商品ボイコット運動】は、単に平和的な活動ではなく【暴力を伴ったボイコット運動】だった。(ハ)英米による蒋介石への【戦時国際法違反】という【中立義務】を破って、軍事物資や戦闘員・顧問による支援を展開した(援蒋ルート、フライングタイガー、重慶での艦船派遣)。【戦時国際法違反】であり【戦争犯罪】では無かろうか。
【さしせまった軍事上の脅威があるかないかにかかわらず】は、(イ)は兎も角、(ロ)と(ハ)は差し迫った【軍事上の脅威】にあたる。
そして、現在でも【自衛】に関しては【明確な定義】が確立しているわけでもない。フランスとアメリカが作った【不戦条約】での【自衛権】の解釈も、明確であるわけではない。
【ケロッグ・ブリアン条約】を読んでも、何処にも【自衛】にかんする明確な定義もない。この【差し迫った軍事上の脅威】が【自衛権】という考え方は、戸谷氏が座学を怠ったか印象操作を行いたかったか不明ながら、何の根拠にもなって居無いのが現実である。
どうしても、日本は東京裁判で裁かれたとおりの【戦争犯罪者】達が政策を実行してきた【戦争犯罪国家】にしたいという【欲求】が強く、それに拘泥しているために、【史料】からの【事実】を判断することを怠っていると言わざるを得無い。戸谷氏の眼は、曇っているという感じである。
【参考図書】
戸谷由麻著『東京裁判―第二次大戦後の法と正義の追求』(2008年/みすず書房)
冨士信夫『私の見た東京裁判 上』
冨士信夫『「南京大虐殺」はこうして作られた』
偕行社『南京戦史・史料集Ⅰ』
偕行社『南京戦史・史料集Ⅱ』
偕行社『証言による「南京戦史」』
冨澤繁信『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』
藤田久一『戦争犯罪とは何か』
終戦後十周年国民委員会編『世界がさばく東京裁判』
多谷千香子『戦争犯罪と法』
信夫淳平『戦時国際法講義』
【参考サイト】
Wiki:不戦条約 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
外務省:不戦条約 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/s22-1.html