秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその2

2017年06月10日 16時43分16秒 | 1937年 南京攻略...

その1に挙げた情報を見てみると秦氏の(1)〜(5)のうち、(1)(2)(5)について、おかしいことに気がつくのではないだろうか。

(1)と(5)は、【便衣兵】であった可能性もあり、またはその疑いが持たれたものへの誤殺によるものかも知れない。【便衣兵】とは、軍服及び腕章等戦闘員であるという表示が成されていない戦闘員のことで【ゲリラ】のことである。当時の国際法や慣例から、極めて悪質な戦争犯罪として、直ぐさま射殺及び処刑の対象である。便衣兵は市街戦などの状況によっては一般市民と即時に判別が出来ないことから誤って一般市民を誤殺してしまう恐れがあり、そして事実として少年兵がいることは子供ですら掃蕩せざるを得ない状況にあると言うことを支那政府と支那軍が作り出したと言うことである。

当時の法的認識はどうであったかというと、『上海戦と国際法』 信夫淳平著 昭和7年(1932年)という書籍があり(国立国会図書館アーカイブでネット閲覧出来る)、第一次上海事変の後に書かれたものの様であるが、当時も支那の便衣隊によってかなりの被害を受けたようすである。その中から便衣隊についてその法的身分と処遇法を引用する。


【第三章 敵の兵種及び兵器】
P.114 7行目 − P.115 後列3行目まで
便衣隊の抗戦法規上の性質 交戦者の三種
抑も便衣隊は、抗戦法規の眼から見ていかなる性質のものであるか。
便衣隊は勿論好戦者たる資格を有するものではない。現抗戦法規の上に於て認めらるゝ抗戦者は、第一に正規兵、第二には民兵(Militia)及び義勇兵団(Volunteer Corps)にして(一)部下のために責任を負う者その頭に立ち、(二)遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有し、(三)公然と兵器を携帯し、(四)その動作に付戦争の法規慣例を遵守するという四条件を具備するもの(正規兵もこれ等の条件を具備すべきはもちろんである。)、第三には、未占領地方の人民で敵の接近するに方り右の四条件の下に民兵なり義勇兵団なりを編成するの遑なく、さりとて侵入軍隊に抗敵せずには居られぬから、敢て之を編成するを俟たず、公然兵器を携帯し且戦争の法規慣例を遵守して抗敵行動に出づるという謂ゆる民衆軍即ち Levee en masse (注:Leveeの後ろから二つ目は上に点が着く)で、以上の三者が交戦者としての有資格者となってある。
非戦闘員の語
因みに記す。交戦者の中には非戦闘員即ち non-combatants もある。元来非戦闘員なる語には二様の遣方がある。一は軍人以外の私人で、即ち直接戦闘に與からざる一般の男女老弱である。他の一は、戦線に立つも干戈を手にして敵と戦うに非ざる軍人軍属、即ち軍医官、主計官、法務官、通訳、軍隊付布教師等である。前者は古来今に至るまで世間普通の俗用語であり、且往昔に於ては公用語でもあったが、『陸戦の法規慣例に関する規則』(以略して陸戦法規慣例規則と称する)に於て『交戦当事者の兵力は戦闘員及非戦闘員を以て之を編成することを得』(第三条)と規定し、軍医官主計官等を非戦闘員たる交戦者と為すに至った以来、一般私人の意味に於ける非戦闘員のことは非交戦者(non-belligerents)と称するのがヨリ正しき用語法となったものである。私人非戦闘員という俗用としては勿論妨げないが、現行交戦法規の上では両者を殊別して見るのでなければ意義に混雑を生ずる
P.125 2行目 − 後列4行目まで
便衣隊の処分
陸戦法規に於て前に述べた三種に限られる交戦者は、非交戦者の有せざる特権を有する。例えば敵に捕らえられたる場合に於て捕虜としての取扱を受け、戦時重罪犯(War crimes)として処罰せらるるなき特権の如きである。戦時重犯罪とは、敵国の交戦者若しくは非戦闘者に依りて行われ我軍に有害なる結果を与うる所の重罪性の犯行で、例えば交戦者にありては、陸戦法規慣例規則の第二十三条に於て特に禁止してある害敵諸手段、第二十五条の無防守の土地建物に対する砲撃、その他陸海の交戦諸法規の禁ずる諸事項の無視等、要するに戦時法規違反の行為は勿論、或は間諜行為の如き、将た間諜ならざるも変装して我軍の作戦地、占領地、その他戦争関係地帯内に入り我軍に不利の行為に出づるが如きを言い、又非交戦者の行為としては、その資格なきに尚ほ且敵対行為を敢てするが如き、孰れも戦時重犯罪の下に概して死刑、若しくは死刑に近き重刑に処せらるるのが戦時公法の認むる一般慣例である


このように、南京戦より10年前の書籍ではあるが、当時の日本軍の指揮官クラスに於はこの様な認識であったことは確かであろう。尚、10〜12歳の少年兵を使うというのは、当時の国際法違反とはいえない。だたし、少年兵が存在すると言う事で正規戦闘員と民間人が益々希薄になった事が事実で、それが元となり市街部内での掃討戦に於いて誤認され殺害された時由があったとしてもやむを得ないことになる。事実上、少年兵も存在することで掃蕩の対象でもある訳である。
秦氏は略歴を見ると東京大学法学部のご出身である。法的な事については当然知っている筈にもかかわらず本書においては一切言及はしておられない。

(1)については、APのマクダニエル記者の記事では《中国警察の多くは制服を脱ぎ捨て、下着のまま古い平服を捜し回っていた。》とあり、記者同士の情報に矛盾が生じている。(4)(5)についても、法解釈等で解釈の意見が別れるところであるはずである。処刑された支那人兵卒が、国際安全委員会が示した安全区域内に逃走潜入し、そこで安全委員会メンバーの外国人に命乞いをしたとしても、引き渡された兵卒や、安全区域内で発見された兵卒が、陸戦法規慣例規則の第23条からの法的根拠からして【捕虜】となり得るかどうかは戦時公法の一般慣例として疑問である。なお、恐らくではあるが、新聞記者や諸外国人、一般兵卒、一般人が陸戦法規慣例規則を周知していたかどうかは分からない。何らかの形で投降したとしても【捕虜】となりえるかどうか捕らえた側の判断によるからである。
(2)は、将校がいるのであれば国際安全区委員会となのる外国人集団が難民の為にした【徴発】と同じように日本軍もまた【徴発(Take Over)】と捉えるのが正確と云えるはずである。なお、日本軍により【徴発】された物資についての利用法は、『南京市政概況』(南京特務機関発行 昭和17/国立国会図書館デジタル)のP.79 二、事變後(一)自治委員會當時ノ収支概要において、次のような文面がある。引用《自民國廿七年(1938年:当方補)一月一日至仝(同:当方補)年三月末日南京自治委員會当時ニ於イテハ糧食税、屠宰税ノ設定(二月)ヲ為シタルモ徴収額極メテ微小ニシテ、専ラ財源ヲ日本軍官憲方面ヨリノ寄附金及軍押収物資ノ売却代金ニ依存シ、正常ナラザル財政収支ノ狀況ヲ繼続シタ。》という報告がある。日本軍が【徴発】により押収した物資の売却金にて南京自治委員會の行政運営に還元されていたことが判明している。
(2)と(5)の例についても、《建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ》《一軒一軒しらみつぶしの捜索が行われ》という表現が使われているが、当時13日〜15日は、掃討戦の最中であり、《軒並み》《一軒一軒しらみつぶし》の【敗残兵ないしは便衣兵】の捜索が続いていたことをご承知の筈の秦氏はその点について何故か特に感想はないようである。
ダーディンの記事で(1)〜(5)は、ダーディンのその他の記事を含めて読むと場所や時間の不明確さからの矛盾やもあり、史料として疑問の余地がある点を無視し、AP通信などの記事を史料として使用していないなど、またその正確性の担保としたフィッチという人物像からも判るように、当時の支那YMCAという組織が反日・抗日に帯びていた人物が重役にいたという情報の信憑性を左右する可能性のある史料を無視している。
また、ダーティンの1937年12月18日の南京事件の第一報における冒頭文での、日本の虐殺があったとする記事は、本人が現場を見て居らず、外国人が見たと記述している。その目撃情報は、南京大学学長で、国際安全委員会メンバー マイナー・サール・ベイツ博士(キリスト教宣教師)が情報提供者であり、ベイツから渡されたメモの文面から幾らか文章を付けたり削ったりして作成された事は、以下に二つの文章を掲載したので確認すれば、引用部分からも理解出来る。だいたい英文が似通っている。

By F.Tillman Durdin NYT.
ABOARD THE U.S.S. OAHU at Shanghai, Dec. 17 --- Through wholesale atrocities and vandalism at Nanking the Japanese Army has thrown away a rare opportunity to gain the respect and confidence of the Chinese inhabitants and of foreign on opinion there.
The collapse of Chinese authority and the break-up of the Chinese Army left many Chinese in Nanking ready to respond to order and organization, which seemed in prospect with the entry of the Japanese troops. A tremendous sense of relief over the outlook for a cessation of the fearful bombardment and the elimination of the threat of serious disorders by the Chinese troops pervaded the Chinese populace when the Japanese took over control within the walls.
It was felt Japanese rule might be savers, at least until war conditions were over. Two days of Japanese occupation changed the whole outlook. wholesale looting, the violation of women, the murder of civilians, the eviction of Chinese from their homes, mass executions of war prisoners and impressing of able-bodied men turned Nanking into a city of terror.
Many Civilians Slain
The killing of civilians was widespread. Foreigners who traveled widely through the city Wednesday found civilian dead on every street. Some of the victims were aged men, women and children.
Policemen and firemen were speacial objects of attack. Many victims were bayoneted and some of the wounds were barbarously cruel.
Any person who ran because of fear or excitement was likely to be killed on the spot as was any one caught by roving patrols in streats or alleys after dusk. Many slayings were witnessed by foreingers.

当方約文:上海より 12月17日 オアフ砲艦船上より --- 南京での大規模の暴虐と暴力行為で日本軍はそこでの支那住民の信頼と尊敬と外国人の評価を得る滅多にない機会を投げ捨てた。
南京で支那政府の崩壊と支那軍の瓦解が多くの支那人に秩序と政府の対応する用意をまかされた、それは日本軍の侵入という見込みがあると思われているからだ。
日本軍が壁の中で統制をしてくれる場合、恐怖の砲弾攻撃の中止の展望による大きな安心の気持ちと支那軍による重大なの混乱の恐れの排除が支那民衆に広がった。それは日本軍の規則が保護してくれるかも知れないからだ。少なくとも戦争状態が終わるまでは。日本軍の占領の2日間で全体的な展望が変わった。大規模な略奪、女性への暴行、民間人の殺害、家から支那人を追い出し、捕虜や壮健な男性の大量の処刑が南京を恐怖の街に戻った。
[多くの民間人が殺される]
その民間人の殺害は広範囲に及んだ。水曜日(15日:当方補)に街を広く見回った外国人は、どの道でも民間人が死んでいるのを見つけた。犠牲者の何人かは老人や女性、そして子供であった。
警察官や消防隊員が特に攻撃の対象となった。多くの犠牲者は銃剣でいくつかの傷は野蛮で惨たらしいものであった。
恐怖と興奮で走ったりしたどんな人間でも対象され、同様に暗くなった道や小径でうろつく巡回兵に捕まった人間は誰でもその場で殺される恐れがあった。多くの殺害は外国人たちによって目撃されていた。

『Eyewitnesses to Massacre』M.E. Sharpe社
The Chapter of Miner Searle Bates
At Naking the Japanese Army has lost much of its reputaiton, and has thrown away a remarkable opportunity to gain the respect of the Chinese inhabitanats and foreign opinion. The disgraceful collapse of Chinese authority and the break-up of the Chinese armies in this region left vast nmbers of persons ready to respond to the order and organization of which Japan boasts. Many local people freely expressed their relief when the entry of Japanese troops apparently brought an end to the strains of war conditions and the immediate perils of bombardment. At least they were rid of their fears of disorderly Chinese troops, who indeed passed out without doing severe damage to most parts of the city. But in two days the whole outlook has been ruined by frequment murder, wholesale and semi-regular looting and uncontrolled disturbance of private homes including offenses against the security of women.
Foreigner who have traveled over the city report many civilians' bodies lying in the streets. In the central portion of Nanking they were counted yesterday as about one to the city block. A considerable percentage of the dead civilians were the victims of shooting or bayoneting in the afternoon and evening of the 13th, which was the time of Japanese entry into the city. Any person who ran in fear or excitement, and any one who was caught in streets or alleys after dusk by roving partrols was likely to be killed on the spot. Most of this severity was beyond even theoretical excuse. It proceeded in the Saftey Zone as well as elsewhere, and many cases are plainly witnessed by foreigners and by reputable Chinese.

当方約文:マイナー・サール・ベイツ博士 アメリカ 南京大教授のメモ
南京で日本軍はその評判の多くを落とし、そして中国人住民の尊敬と外国人の注目されるようなせっかくの機会までも投げ捨てた。この市内一帯での中国当局の不名誉な崩壊と中国軍の解体で、膨大な数の人々が、日本が誇りとする秩序と体制に応じる状況に置かれた。日本軍の入城と共に戦争状態による緊張感と砲撃の直撃による危険の終わりを意味していたので、多くの地域住民はホットして安堵の表情を浮かべた。少なくとも、乱暴な中国軍への恐怖はなくなった。大部分の市街に苛烈なダメージを与えることが無なかったのは確かである。しかし、2日間(13,14日)に於いてその全体的予想は、度重なる殺人、大規模な半恒常的な略奪や無秩序な騒乱、民家での女性への犯罪を含め、台無しになってしまった。街を行く外国人は道路に横たわっている多くの民間人の死体を報告している。南京の中央部では、昨日数えられた遺体は街の区画に約1体づつあった。
13日の午後と晩の民間人の死者の割合の相当数は銃撃と銃剣による刺殺であったが、そのどれもが日本人が市内に入ってから行われたものであった。
恐れと動揺から走り出したもの皆、そして暗くなった道路や路地で見つかった物は誰もが、歩き回る警らにその場で殺される恐れがあった。
このひどさと言ったら弁解の余地はない。
それは他の場所で更に進むにつれて安全地帯でも行われた、多くのケースに於いて外国人と世間に信用のある中国人によってまざまざと目撃された。


これを読んで頂ければ、ダーディン氏の記事の出所が、ベイツ博士の記事とお判りかと思うが、記事中の日本の虐殺行為を目的していた外国人はベイツの書いている外国人と同じであるはずである。では、一体誰が、日本軍城内占拠13日の後の14日、15日に虐殺を見ていたのか。これについては、松村俊夫氏の論文『アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった』(日本語版 hassin.org/01/wp-content/uploads/NO-AMERICAN-J.pdf、英語版 http://www.sdh-fact.com/CL02_1/85_S4.pdf)に詳述されているが、中でも、南京攻略戦後に事後の被害状況の統計調査を行った南京大学の社会学の教授であるスマイス博士(国際安全委員会のメンバーの一人)の手紙やその他外国人など手紙などが収録された『Eyewitness to massacare』(M.E. Sharpe社)を分析する事により、ダーディン記事中にあるような日本兵卒の虐殺行動を目撃した外国人は誰もいなかった事を論じておられる。その核心となる部分を抜粋すると

Sure enough we found a detachment of about 100 men sitting on the south side of the road, and a large group of Chinese civilians on the opposite side looking at them. We tried to explain to the officer the Zone and drew it on his map of Nanking, note it was not on his map. He said the Hospital would be all right if there was no one in there that shot at the Japanese. About the disarmed soldiers he could not say. (EM 256)

(12月13日、月曜朝)確かに、約百人の先遣隊が道路の南側に腰を下ろしており、その反対側では沢山の支那人の群集が彼等を眺めていた。私達は将校に対して安全区を説明し、彼の南京の地図にそれを書き入れた(彼の地図には安全区は示されていなかった)。彼は日本兵を攻撃する者がいない限り病院は大丈夫だと言った。武装解除された兵については、彼は何も言うことが出来なかった。(256頁)

Tuesday morning, the 14th : We all got up and felt the fighting was over.(EM257)

14日火曜日の朝、我々は目覚めて戦いは終わったと感じていた。(257頁)

Now the Japanese were here; would set up an orderly regime and things would be rosy.(EM 257)

今は日本軍がいる。秩序ある体制と順調な事態が作られて、状況はバラ色になるだろう。(257頁)

 


という、スマイス博士の家族への手紙の内容となる。では、その他の報告はなかったのかというと冨澤繁信氏の『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』展転社刊 1941年(昭和16年)に次のセクションのティンパーリーの書籍『戦争とは何か』と重複している「南京安全區档檔案(DOCUMENTS OF THE NANKING SAFETY ZONE)」ケーリィアンドウォルシュ社刊 1938年に「第八号 安全地帯における日本兵の不法行為の事例」の第一件 12月15日に、安全区内の鼓楼の家屋で道路清掃員6名が殺され、一名は銃剣で重傷を負った。彼らは私どもの従業員であって、殺傷の理由は一切不明。兵士たちはその家屋に侵入したのです。」とある。確かに犯行日時は15日であるが、提出の日付が1937年12月16日であり、ベイツ曰くの《動く者全てや暗がりの道や小径で殺されたおそれがあった》という事態から比べると、何故この第八号第一件が虐殺行為の代表事例であったのかおかしな話である。本来13日、14日、15日の占領当初の3日間で、有り余るほどの日本兵卒の暴行が目撃されて記憶と記録がなされていたはずである。何故ならダーディンやベイツは外国人たち《many cases are plainly witnessed by foreigners and by reputable Chinese.》に目撃されていたと言っているからである。しかしながら事実上、ほとんど日本兵が行った事例を存在がなく、そして目撃した例も見当たらず、むりやり犯人が不明瞭なこの事案を持ち出してきたというのが事実ではないかと考えられる。


 



まとめ

この様に、冒頭のセクションの外国人記者は実際に南京攻略戦中戦後の南京市街の様子を日本兵卒と南京に居た支那人以外に見た可能性のある人間であり、その記事は最も重要な当時を示す一次史料であり、記事全体における慎重な引用と分析が重要である筈ある。しかし記事内容の取捨・選択はそもそも史料を広範囲に集めた上で多角的に分析しとは全く言い難く、ダーディンの記事中の日本側の暴行面を抜き書きしただけで、史料批判の【検証の基準】には【虐殺有り】基準にテキストを【無批判・無検証】に引用して、【正確】な【事実】であるような印象を読者に与えようとしている感がある。

【ダーディン記者の第一報】セクションにおける秦郁彦氏の【史料の取捨・選択】の基準とは、【虐殺や不法・不当行為有き前提】が記述されたものだけであり、秦氏の姿勢における《筆者としては先入観や政治的配慮を排し、そのとき南京で何が起きたのかという観点から、事実関係を洗い直し復元することをめざし》とは明らかに異なっている。今回は【政治的配慮】は垣間見えないが、【南京で非道な虐殺や野蛮行為が有った】という【先入観】で情報を選択し、それ以外の情報は検討もせずに捨て去り【事実関係を洗い直す】という作業は、全く試みられてない事が判る


秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその1

2017年06月10日 16時36分55秒 | 1937年 南京攻略...

【前置き】

戦前日本の歴史を調べようとすると、2017年現在に於いてネット環境におけるSNS・ブログ・HPなどを検索サイトなどで探せば一次史料を目にするのが容易となった。それらを用いて様々な方の分析も掲載されている。未だ未だ少数なのはやむを得ないがネットが普及する前の1900年代と比べると随分容易になったのは確かである。過去、著名で有る無しにかかわらず歴史学者や歴史研究家が地道に長期間に亘って集めた貴重な史料や大学図書館などでネットで公開されている史料に関しては、数秒で閲覧することが出来たりする訳である。これは様々な史料を見ることが、いままで個人では収集閲覧しにくかった史料や学術書や文献をより多くの人が容易に閲覧し、検証出来ることが可能になったと言う事である。本当に素晴らしいことである。
この様な素晴らしい時代において、SNSなどで他の方と一度議論したことのある秦郁彦氏の『南京事件『虐殺』の構造』について改めて読み直して個人的見解ではあるが分析も試みることにした。
注意事項:英文の訳は当方によるものであるので、誤訳が散見するのでご注意下さるようお願い申し上げます。
や《》で括ったものは引用とする。

 

 


基本データ

『南京事件 「虐殺」の構造』 中央公論社刊 昭和61年(1986年)25日発行
1937年、日支事変または支那事変での南京攻略戦で日本軍が行った残虐事件について、いわゆる【南京事件】について、日本軍の行為を史的根拠を基に【残虐行為】が行われたと論じた所謂中間派の代表とされる秦郁彦氏の書籍。

 



秦氏の史実の探究についての姿勢は、次のように書かれている。


P107 後列から4行目
さて南京アトローシティのように、真偽とりまぜた情報が入り乱れ、政治的偏見が入り込んでいる事件の実態を解明するには、どんなアプローチが望ましいのだろうか。そのさい必要な情報の取捨や評価を、歴史学では「史料批判(テキスト・クリティーク/text critique)」と呼ぶ。
P.242 1行目
筆者としては先入観や政治的配慮を排し、そのとき南京で何が起きたのかという観点から、事実関係を洗い直し復元することをめざし、資料の収集と執筆に当たった。さりとて入手しえた範囲のデータを羅列しただけでは、単なる資料集になってしまうから、「史料批判」(テキスト・クリティーク)の手法に従って検証を加え、著者なりの解釈も示した。
P.243 後列4行目
いわゆる第一次史料を軸として構成し、日本側史料でも後になって書かれたり語られたいわゆる第二次史料は、原則として補足、参考の範囲で利用するにとどめた。

と書いておられる。つまり、テキスト・クリテークという史料や情報は評価して使用すべきと論じておられる。では、実際はどうか順次見ていくことにしよう。
備考)テキスト・クリテーク(text critique)という方法が、一般的でないような気がするため、松尾ミヨ子著の「文献検討と文献クリティーク」という医学書の販売サイト(http://www.pieronline.jp/content/article/1347-7285/6090/17)に要約があり、それを引用させていただき、説明とさせて頂く。
引用《文献検討では,報告された研究方法や結果をそのまま受け入れるのではなく,「クリティーク」という方法を用いて吟味していきます.クリティークは批判的思考,批判的評価とかかわるもので,研究の質や信用度を検討するプロセスといえます.》

今回、秦氏の書籍を読むに当たって、テキスト・クリテークという文献批判を用い、秦氏の史料を【取捨・選別】した【基準】を探っていきたいと思う。

〔1〕
第一章 ジャーナリストの見聞

P.3より秦氏は、まずニューヨーク・タイムズ社特派員で南京をレポートしたフランク・ティルマン・ダーディン氏の12月18日付けの記事の紹介で南京事件の論攷が開始される。

P.5「安全区の外国人たち」において

 

ダーディンの報道記事は二日半の見聞に限られた速報ながら、南京アトローシティにおける蛮行のほぼ全類型を網羅してた。

として次に挙げる5つの記事要点を挙げている。

P.4より引用(前の数字は当方振り当て)

(1)「一般市民の殺害が拡大された。警官と消防夫がとくに狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺された」
(2)「日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよいほどだった。建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ、それもしばしば将校の見ている前でおこなわれていたし、日本兵は中国人に略奪品を運ぶことを強要した」
(3)「多数の中国人が、妻や娘が誘拐されて強姦された、と外国人たちに報告した。これらの中国人は助けを求めたが外国人は助けようにも無力であった」
(4)「記者は上海行きの軍艦に乗船する直前、バンド(埠頭)で二百人の男子が処刑されるのを見た。男たちは壁の前に一列に並ばされて銃殺された。これを見物する陸兵の大群は軍艦から水兵を呼んでこの見ものに大いに興じている様子だった」
(5)「多数の捕虜が日本軍によって処刑された。安全区に収容された中国兵の大部分が集団銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、一軒一軒しらみつぶしの捜索が行われ、集められて処刑された」

NYTのダーディン氏について、1937年11月〜12月中の記事を読むと、自己が見たことについては“記者は見た”“この特派員は見た”と強調している。それ以外は信用のあるとダーディン個人が考えている人物からの伝聞と言う事になる。

そして、占領後滞在した期間には、後のインタビューなどで、下記に引用を示したように市内を自由に見回っていたと証言している。

松村俊夫氏の著書『南京虐殺への疑問』(平成10年1月13日 展転社刊)より引用。

(①とは、『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』のこと)

P.44 [ダーティンとスティールは何を見たのか]
『資料集(=『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』:当方補)』に収められているこの2人とのインタビューによって、有る程度のことが判明する、1986年(昭和61年)と1987年(昭和62年)、アメリカ国内で笠原十九司によって行われたインタビューの中から抜き書きすると次のようになる。
占領後の南京に3日ほど滞在した間は、市内を回ることができました。いたるところに日本軍を見ましたが、私を咎める者は誰もいませんでした〉(①560頁)
P.44 後列1行目
〈私が南京を離れる時は、日本軍部の圧力はありませんでした。〉
p.45 1行目
〈(南京では日本兵の略奪を)いくらか目撃しました。しかし、私がいた3日間はもっぱら中国兵の掃討に専念していました。略奪は私達が去った後激しくなったと聞いていました。〉(①564頁)
P.45 後列2行目
〈私たちは道路の近くで日本兵が中国兵を処刑しているところを車で通過したのですが、別段邪魔はされませんでした。〉(①582頁)
P.46 2行目
日本兵は自分たちのやっていることで手一杯だったようで、私たちに関心がなかったのか、うまくやればこうした写真(引用者註─支那兵が城外への逃亡のためにぶら下げた城壁のロープの写真)も少しは撮れました。〉(①583頁)

このインタビューで判る通り、第一章 ジャーナリストの見聞の内の、外国人ジャーナリストの検証を入る前に、入城間もない日本兵が、外国人ジャーナリストに対し、危害や妨害を加えていことは無く、むしろ自由な行動を日本が許していたという事であり、自由に何処へでも行けたと言う事をまず確認しておく。

ダーディン氏の記事の内、秦郁彦氏が何かしらの【基準】を用いて重要ではないとして捨てた情報を下記の【基準】にて抜粋した。(NYTの1937年11月22日、12月7日、8日、18日、翌年1938年1月9日の記事を使用。)
一、殺害されたのは本当に【民間人なのか】という基準。実は【民間人】と【支那兵士】が混同される事態が起こっていたこと。
二、日本軍だけが本当に【不法不当行為を行ったのか】という基準。【支那兵士】が私服で戦闘行為という【不法行為】を率先して行っていたと言う事。日本軍の不法行為の前に【支那軍】の支那の民間人及び財産に対する【非道行為】があったと言う事。
三、南京で住民対する【徴兵・徴用】があったこと、【民間人】は、安全区に集合すべく厳しい【命令】が出されていたこと。
四、日本軍の【略奪】とは何か。【略奪=徴発】という軍事制度ではないか、安全区委員会においても難民支援の為に【徴発】を行った。
五、【残虐な処刑】と【掃討戦】が、混同されいないか。

では、実際にダーディン氏の記事を引用してみる。


11月22日の記事中
The capital, which had a population of more than 1,000,000 last July is now estimated to have only 200,000. It is feared that if the Japanese advance continues at its present pace there will be 150,000 civilians here when the battle for possession of the city begins.

当方訳文:南京からの逃避に成功した人間は必死の努力にもかかわらず5万人だけであったという半公式的な見積もりが示されている。首都は昨年7月に人口が100万人以上であったものが今や20万人に過ぎないと推定されています。もし日本軍の進出が現状のペースで続くならば街の占領の為の戦闘が始まった時ここには15万人の民間人がいる恐れがある。

12月7日の記事中

...and nearer the capital there raged huge fires set by the Chinese in the course of clearing the countryside of buildings that might protect the invaders from gunfire.

当方訳文:そして首都に近付くほど、そこでは進路の中で銃撃から侵入軍を守りそうな里の建物を支那人によって清野にする過程でつけられた非常な大火が荒れ狂っていた。

These lads, 10 to 12 years old, are uniformed regulars serving as messengers, bearers and cooks, and sometimes in the very front lines they seem to enjoy the war as a game.

当方訳文:軍の随行している少年は、湯山エリアではおびただしい人数だった。それらの男児は、10から12才で、決まった制服を着て、通信、運搬や料理ような仕事をやっていた。

12月8日の記事中
The Nanking defense commander, Tang Sheng-chih, proclaimed the city within the zone of hostilites and decreed that all noncombatants must conecentrate in the internationally supervised safety zone. The movement of noncombatants elsewhere in the city will be banned, except for persons holding special permits to be indicated by a symbol specially stamped on yellow arm bands.

当方訳文:南京守備隊の司令官唐生智(Tang Sheng-chih)は、戦場は街へ突入したと重大な宣言をした。全ての非戦闘員は国際的に管轄された安全区に集まらなければならないと命令した。非戦闘員が市内のどこかへ移動する事は禁止された。特別なシンボルをスタンプされた下黄色い腕章を示せる特別に許可された人間を除いて。

12月8日の記事中
Public buildings, such as the Ministry of Justice, the War College and other schools, are being thrown open to the poor and vacant residences will be taken over, if necessary.

当方訳文:公共の建物、法務省、軍学校やたの学校などは貧しい者に開放され、そして必要があるなら空の邸宅も徴発するつもりだ。

12月18日の記事中
Driving through the city Sunday evening, I witnessed the wholesale undressing of an army that was almost comic. Many men shed their uniforms as they marched in formation toward Hsiakwan. Others ran into alleys to transform themselves into civilians. Some soldiers disrobed completely and then robbed civilians of their garments.

当方訳文:日曜日(12日:当方補)の夕方に街を車で通行していると、沢山のほとんど漫画のように軍人が服を脱いでいるのを目撃した。多くの男達は軍服を脱ぎ捨てた。下関(Hsiakwan)へ隊列を組んで行進していると同時にである。他の者は民間人に変装して小径の中に走っていった。数人の兵士たちは完全に軍服を脱ぎ捨てその後民間人から衣類を強奪した。

12月18日の記事中
When the first column of Japanese troops marched from the South Gate up Chungashan Road toward the city's Big Circle, small knots of Chinese civilians broke into scattering cheers, so great was their relief that the siege was over and so high were their hopes that the Japanese would restore peace and order. There are no cheers in Nanking now for the Japanese.

当方訳文:始めて日本軍の隊が南門(中華門)から中山路を北へ街のビックサークルへ向かって行進した時は、小さな集団にわかれた支那民間人があちらこちらからどっと喝采があがった。(その理由としては)とても大きな理由は砲撃が終わって安堵し、そしてとても気持ちが良い理由は日本人が平和と秩序を再建してくれるという希望があるからだ。今では(3日後の15日:当方補記)南京では日本人への喝采は存在しない。

12月18日の記事中
Because of the disorganization of the tinued fighting Tuesday noon, many of these not realizing the Japaneese had surrounded them and that their cause was hopeless. Japanese tank patrols systematically eliminated these.

当方訳文:火曜の午後(14日:当方補)も続けられた戦闘の混乱のために、多くのそれら(支那軍兵士:当方補)は日本軍が彼等を取り囲み彼等に希望は生じないと言う事を判っていなかった。日本軍の巡回中の戦車が整然とそれらを掃蕩した。

12月18日の記事中
Many were killed where they were found, including men innocent of any army connection and many wounded soldiers and civilians. I witnessed three mass executions of prisoners within a few hours Wednesday. In one slaugher a tank gun was turned on a group of more than 100 soldiers at a bomb shelter near the Ministry of Communications.

当方訳文:彼等は見つかった場所で多くが殺された。まるで軍とは関係者ではない者や多くの傷ついた兵士や民間の男性達を含んでいる。私は3度の水曜日(15日:当方補)の数時間の内に捕虜の処刑を目撃した。一つの殺戮に於いては戦車の大砲で交通省の近くの防空壕にいた100人以上のグループを襲撃したものだった。

12月18日の記事中
The Chinese burned nearly all suburbs, including fine buildings and homes in Mausoleum Park. Hsiakwan is a mass of charred ruins. The Japanese seemingly avoided wrecking good buildings. The scareity of air bombardments in the capture indicated their intention to avoid the destruction of buildings.
The Japanese even avoided bombing Chinese troop concentrations in built-up areas. apparently to preserve the buildings. The fine Minstry of Communications building was the only big government structure destroyed inside the city. It was fired by Chinese.

当方訳文:支那軍が近くの郊外全てを焼き払った、中山陵公園(Mausoleum Park)の立派な建物や家々を含む。下関(Hsiakwan)は、焼け焦げて多くが廃墟になっている。日本兵は見たところでは立派な建物は破壊せずにいた。空爆の少なさが建物の破壊を防ぐ意図を示していた。
日本軍は支那軍の集中する建物密集地帯ですら空爆を避けた。建物を保護したのは明白である。交通省の立派な建物は街の中で唯一破壊された大きな政府の建物であったが、それは支那軍が燃やしたものだった。

1938年1月9日の記事
The Cantones troops had been decimated by weeks of shelling as they retreated before the Japanese from around Shanghai.
The Thirty-sixth and Eighty-eighth Divisions, former crack troops of Generalissimo Chiang Kai-shek, had been badly shattered around Shanghai. Withdrawn to Nanking, they had been replenished with raw recrults.

当方訳文:広東軍は数週間の爆撃で多くが殺された。彼等は日本軍の前を上海周辺から撤退した時に。第66師と第88師は、蒋介石の精鋭部隊で、上海あたりで激しく粉砕された。南京に撤退すると彼等は徴兵して兵を補充した。

From Tangshan-China's "West Point," where are situated the artillery school, the infantry school and General Chiang's provisional Summer headwuarters -- on across fifteen miles of countryside into Nanking almost every building was set afire. Whole villages were burned. Barracks, mansions in Mausoleum Park, the modern chemical warfare school, the agricultural research experimental laboratories. the police training school and dozens of other instiutions were reduced to ruins. the torch was applied to districts around the South Gate and in Hsiakwan, which were in reality small cities in themselves.
Calculated Chinese military incendiarism accounted for destruction of property easily worth $20,000,000 to $30,000,000 more destruction than had been wrought by Japanses air bombardment of Nanking for the months of warfare preceding the Nanking siege, but equaled, probably, by the damage caused by Japanese explosives durning the actual siege and by Japanese troops after the occupation of the city.

当方訳文:支那の「東の拠点」である湯山(Tangshan)には、砲兵学校、陸軍学校や蒋介石総統の夏期暫定本部が置かれている、南京への校外の15マイル(約24キロ:当方補)に渡って、ほとんどのどの建物も皆火が付けられていた。村全体が居た燃えていた。中山陵公園の豪邸や兵舎、近代軍事化学学校、農業調査実験研究所、警察訓練学校そして他の多くの公共施設が廃墟にされてしまった。そのたいまつは実際はそれらは一つの小さな街のような南門(中華門:当方補)周りや、下関、区域にも使われた。
支那軍の放火の算定は財産の破壊は少なくて2千ドル、多くて3千ドルの価値と説明されその破壊は南京包囲より先立つ日本軍の数ヶ月におよぶ南京空爆で算出の方が少ないぐらいであった。しかし実際の包囲期間の日本軍の爆撃によるものや、日本軍の街の占領後によって引き起こされた損害とおそらく同等であった。

Thursday night the Japanese forces at Chenhuachen suddenly pushed in to the very walls of the city. Learning through spies that the Chinese garrison at the Tachiaochang military airdrome was being changed. the Japanese rushed up and captured the airfield and the surrounding barracks before midnight. They were even able to threaten entry of Kwanghua Men (Gate), outside of which the airdrome is situated, but Chinese defenders rallied in time and beat off attempt.
Later, Chinese plainclothes men set fire to the Tachisocheng barracks and the Japanese suffered a general repulse in the ensuing conflagration. but their advance was not to be denied and by mid-morning on Friday they were threatening not only Kwanghua Men but had also manoeuvred advance units to within striking distance of near-by Tungchi Men and the more distant South Gate, or Chunghua Men, which is the city's biggest gate.

当方訳文:木曜日(9日:当方補)の夜、淳化鎮(Chenhuachen)に日本軍が市の城壁ギリギリまで押し寄せた。大校場(Tachiaochang)の軍飛行場の支那軍守備隊が後退するとスパイにより知った、日本軍は真夜中より前に押し寄せ飛行場と周囲の兵舎を占拠した。彼等は飛行場の光華門(Kwanghua Men (Gate))の入り口まででさえ迫ることが出来た。しかし支那防衛軍はその時に集結しその試みをはじき返した。
その後、支那軍の私服の男が大校場(Tachisocheng)の兵舎に火を放ち日本軍は結果として起こる猛火の中で全般的に反撃を被った。しかし、彼等の進撃には無関係で金曜(10日:当方補)の明け方には彼等は光華門(Kwanghua Men)に迫っただけでなく、近くの通済門(Tungchi Men)やもっと離れている南門(中華門:当方補)、市で最も大きな門である中山門(Chunghua Men)を有効射程距離に入れるまで部隊をすすめさせた。



次に他の新聞記者や記事の状況はどうであるのかを見てみると、松村俊夫氏の著書『南京虐殺への疑問』(平成10年1月13日 展転社刊)より、AP通信社(Associated Press)のマクダニエルの記事とニューヨーク・タイムズの1938年1月4日の[支那便衣兵による略奪・強姦の犯行を日本兵へなすりつけることを自白したという]記事を参考までに引用しておく。

 

P.37 『南京虐殺への疑問』 後列2行目
第2章 南京陥落と外国人記者 混交する実見と伝聞記事
〈12月16日、南京発(米砲艦オアフ号より無線、AP)。かつてその繁華を謳われた中国の古都は、いまや町が被った砲爆撃により殺された防衛軍兵士および一般人の屍体が散乱するありさまだ。
町中に軍服が散らばる。潰走する中国兵が脱ぎ捨てて平服に着替え、日本軍の手による死を免れようとしたものだ。
日本軍の猛攻に中国軍の防衛が崩壊し、南京から退却する間、少数の中国兵による散発的略奪があったが、彼等が去った後は、少数の日本兵による略奪が行われた。
日本側は、在南京のアメリカ人、ドイツ人の主唱によって成立した安全区に砲爆撃をしないよう努めてきた。10万以上の中国人が地区内に避難した。
中国軍の安全区退却が遅々としていたにもかかわらず、日本軍は地区内を攻撃しなかった。迷い弾が少々落下し、数名が死んだだけであった。
中国警察の多くは制服を脱ぎ捨て、下着のまま古い平服を捜し回っていた。
アメリカ大使館の見張りが武器携帯のゆえに処刑されないように、AP記者のC・Y・マグダニエルは拳銃を取り上げ、彼を館に入れた。恐らくこれが見張りの命を救ったのであろう。〉(①416頁)

次はニューヨーク・タイムズ社の1938年1月4日の記事

Chinese Deserters found with refugees In U.S. Nanking Camp
[Copyright: 1938: By the New York Times.]
SHANGHAI, Jan. 3. --- American professors remaining at Ginling college in Nanking as foreign members of the refugee welfare committee were seriously embarrassed to discover that they had been harboring a deserting Chinese army colonel and six of his subordinate officers.
The Chinese officers, who had doffed their uniforms during the Chinese retreat from Nanking, were discovered living in one of the college buildings, They confessed their identity after Japanese army searchers found they had hidden six rifles, five revolvers and a dismounted machine gun and ammunition in the building.
The deserters confessed looting in Nanking and also that one night they dragged girls from the refugee camp into the darknesee and the next day blamed Japanese soldiers for the attacks. The ex-officers were arrested under martial law and probably will be excuted.

当方訳文:支那人脱走兵がアメリカの南京キャンプの難民の中で見つかる。
[著作権 1938年 ニューヨーク・タイムズ社]
上海、1月3日 --- 南京の金陵大学に残っているアメリカ人教授は、他の難民福祉委員会のメンバーとともに、便衣と成った支那軍大佐と6人の彼の部隊の所属兵が匿われていたという事が発見されたことに非常に当惑している。
支那人士官は、南京から支那軍の退却中に兵服を脱いだという、大学の建物の一つで生きて発見された。日本軍の捜索隊が彼等が隠していた6丁のライフル、5丁のリボルバーそして分解されたマシンガンと弾薬を建物内で見つけた後、彼等は正体を告白した。
便衣の兵達は南京で略奪を行ったこと、またある夜、少女を難民キャンプから暗がりへ無理矢理連れだして、次の日、日本兵の行為のせいにした。元兵士たちは戒厳令の下逮捕され、そして多分恐らく処刑されただろう。

上述の様に、当方の基準によって捨ててはいけない新聞記事や他紙の記事も参考に抜き出してみた。さらに秦氏の考察では(1)〜(5)のダーディンの記事全体や類型の信用性を担保するのに、国際安全区で準委員をしていたフィッチをあげている(『南京事件「虐殺」の構造』P.6/後列5行目からP.9/8行目)。ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch)と言う人物はこちらでも書いたように、YMCA支那の重役で、完全に蒋介石の国民党政権側の人物。また、その他国際安全区委員会のメンバーは、ドイツ人でナチス党員のジョン・ラーベが委員長(シーメンス社の南京支局長であり支那政府との利益相互関係者)であるが、実質的にはキリスト教団体(YMCAを含む)を中心とするベイツ・フィッチ・フォースターなどのごく僅かのアメリカ人主導の支那寄りの組織である。どちらにも支那国民党政府と利害関係が全く無い善意の第3者で構成された団体ではない。
なお、フィッチと言う人物についての補足としてKoreaherald(コリアンヘラルド紙)のWEBによると(2016-06-27 17:34)http://www.koreaherald.com/view.php?ud=20160627000647

After arriving in Shanghai in 1909, George A. Fitch became head executive secretary of the YMCA and led weekly Bible study sessions on Wednesday evenings, which saw the participation of Chinese Guomindang leaders such as Sun Yat-sen, Tang Shaoyi, Wang Ch’ung-hui and famous businessmen such as Charlie Soong, C.C. Nieh, and H.Y. Moh. He also expanded his activities as a founding member of the Rotary Club in Shanghai.
When the Manchurian Incident occurred and the Japanese invasion of China began in earnest, George A. Fitch took the lead in supporting the anti-Japanese struggles of China and Korea. When the Japanese police began to inspect the Koreans in Shanghai’s French Concession immediately after the patriotic martyrdom of Yun Bong-gil, the leaders of the KPG, starting with Kim Gu, had no choice but to search for refuge to escape arrest. At the time, George A. Fitch concealed them in the second floor of his own home for an entire month.

当方訳文:1909年に上海に着いた後、ジョージ・A・フィッチは、YMCAの事務局長に就任し、水曜の夜には週毎の聖書研究会を催し、Sun Yat-sen, Tang Shaoyi, Wang Ch’ung-huiのような支那国民党の指導者や、Charlie Soong、C.C. Nieh、H.Y. Mohのような著名な経済界の人物にあった。彼は又上海ロータリークラブを創設しメンバーとなって活動を広げた。
満洲事変が起こり日本の支那侵略が本格的に始まった時、ジョージ・A・フィッチは、支那と朝鮮で抗日闘争の援助を主導した。日本人警察は尹奉吉(Yun Bong-gil:ユン・ポンギル)の愛国的殉教(注1)の後直ぐさま上海のフランス租界で朝鮮人たちを詳しく調べ始めた。金九(Kim Gu)(注2)始めとするKPG(注3)の指導者は、逮捕から逃れる為の避難場所を探すのに選択がなかった。当時、ジョージ・A・フィッチは、彼の自宅の二階にまる1ヶ月も彼等を匿った。


注1)愛国的殉教とは、上海天長節爆弾事件のことである。wiki参照。
第一次上海事変末期の1932年(昭和7年)4月29日に上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で発生した爆弾テロ事件。事件があった場所から虹口公園爆弾事件とも呼ばれる。なお、尹 奉吉は、殉死ではなく逮捕後日本で処刑。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%A4%A9%E9%95%B7%E7%AF%80%E7%88%86%E5%BC%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
注2)金九(Kim Gu:キム・グ) wik参照
本貫は、安東金氏。洗礼名ペトロを持つカトリック教徒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B9%9D
注3)KPG(the Provisional Government of Korea)韓国臨時政府


San Bernardino Sun紙の1941年9月14日のVolume 48には、

Strangely enough, when the Japanese were raiding Korean homes in Shanghai in 1932, Mrs. Fitch and I gave Kim Koo and three other Korean patriots refuge in our home for a month. We did not know that kindly, courteous, quiet, older gentleman of the group was the leader of the Korean Independence Movement and the one most desired by the Japanese in their raids.

当方訳文:奇しくも、1932年に朝鮮人の家を手入れした時、フィッチ婦人と私(フィッチ自身)は金九(Kim Koo)と他の三人の朝鮮人を憂国の志士を一ヶ月間自宅で保護した。私達とは親切で、慇懃で、物静かで老いた紳士のグループが朝鮮半島独立運動のリーダーでそしてその一人が日本人の捜索で最も探している人物で有ると言うことをあったと知らなかった。

尚付けくわえてSan Bernardino Sun紙の記事を史料批判するならば、当時から支那人対日抗戦、朝鮮人の独立運動を支援していたフィッチが知らないというのは矛盾を感じる。この記事が1941年と言う事で、この記事はアメリカにおける支那のプロパガンダでは無くアメリカの反日プロパガンダ一つではないかと推測する。