中国に対する認識で、これが国立大学のアカデミックのレベルとは嘆かわしい限りです。

2020年02月21日 00時41分40秒 | 日記

この神戸大学の【岩田健太郎】という人物は、非常に由々しき人物ですわな。
中国のことを悪く言う人物が少ないとか、全く何を以て調べた結果なのであろうかね。
アカデミックの現状が判る状況ですな。本当にヤレヤレですわ。
本当に【現状分析が出来ない】ことを露呈した情けないことですな。
量と質の問題が理解できてないのでしょうな。
これが国立大学のアカデミックの【教授】のレベルとは嘆かわしい限りです。

take5@akasayiigaremusという御仁の挙げられたTweetです。
https://twitter.com/akasayiigaremus/status/1230425870029819910?s=20

 

岩田健太郎 wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E5%81%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E


南京事件FQA 【1.人口問題関係=>2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった=>城内、安全区以外の市民の被害編集する】への反論 その2

2020年02月20日 11時00分10秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった=>城内、安全区以外の市民の被害】への反論

【反論まとめ】


ざっと目を通してきた所、【安全区】に行かなかった理由として、

(a)安全区があるのを知らなかった
(b)体が不自由、病気などで行けなかった
(c)店を守るために残った

以上に加え、(d)その他、理由不明。これも付けくわえる必要がある。

この【主張】に沿って該当を分類すると次のようになる。

(a)【B】
(b)【A】
(c)【C】
(d)【D】【E】【F】【G】【H】

となり、(d)の理由が分からないというのが殆どである。

全体的に共通していることは、中国軍による【強制】を伴った【軍命令】が全く見られない【例】であり、まるで【軍命令】がなかったかのような感じにさえ受け取れる。

そして、中国軍の死傷者の描写が全く無く【兵士】は無傷で逃走し、又は城壁上のみ【遺体】ないし【受傷者】が放置されていたかような【印象】を与えるような【記憶】の紹介となっている。

日本軍の将兵の【証言】にしても【戦後】の【回想録】を含めた【証言】類は疑ってかかるべきものであって、そのままの【内容】を【否定的】【批判的】に受けいるのは【学問的】というよりも【政治的】といえる。又【証言】を裏付ける【傍証】が存在しない事である。
【学問的】や【法的】に問題を追及するならば、例えば【A】についての【証言】を複数挙げて論証すべきと考える。【オーラルヒストリー】という【民俗学】のような【神話・伝承】の【口伝】の【収集】し【分類】のための【羅列】とは、一線を画すべきである。

安全区外における【非戦闘員】が全く居無かったという【根拠】は、存在しないが、このサイトに例示された人物達が【当時そこに居た】と【肯定】出来る根拠はどこにも無い。

【A】のように明らかに【誤記憶】又は【虚偽】であることが判る。

【オーラルヒストリー】を研究の手法に使うのは構わないが、【正確性】の度合いを高めるためにも、【テキストクリティーク(史料批判)】は行うべきであろう。杜撰すぎる【史料】の取捨は論外で、いろいろな【可能性】も【加味】するのが公平・客観的と言えるのではないかと考える。

 

榎本博明氏の『記憶はウソをつく』目次を列挙してみる。

そのタイトルだけでも【記憶】は、誰かの【責任】を【問う】場合には【慎重】を帰すものだと判る筈である。

 

【序 章】
記憶に左右される私たち/自分の記憶はどこまで真実なのか/わずか15分の自分の行動を説明出来るか/目撃者の証言はどこまで信じられるのか

【第1章:偽の記憶は簡単に植えつけられる】
1.幼児虐待は本当に有ったのか
虐待されたという偽の記憶が偽造されていた!/偽の記憶は、心理療法を通して植えつけられた
2.偽りの記憶の植えつけが可能なわけ
記憶の捏造はこうして起こる/自分の体験ではないものが記憶の中に取り込まれる/トラウマの記憶でさえ書き換えられる/記憶は巧妙に変容していく
3.記憶の植えつけは実験できる
ショッピングモール実験が教えてくれること/記憶の植えつけは成功したのか/記憶の植えつけ実験の意義/記憶と想像の間には明確な境界線は引けない

【第2章:記憶は無意識のうちに書き換えられてしまう】
1.なぜ虚偽の自白をしてしまうのか
虚偽の自白は二転三転する/虚偽の自白に追いこまれるタイプとは/「ひょっとして自分が」という不安
2.記憶は時間とともに忘れ去られるもの
記憶は書き換えられる/記憶には今の状況が影響する/想像し、イメージしたことが記憶に紛れ込む/話していくうちに本人も騙されていく/別の日の記憶の断片が混入する
3.自分の行動や気持ちすべてに明確な理由などない
「無意識に」という呪文/うっかりミスには意味がある/生理学的な要因では説明がつかない心理的な意味/なぜ手紙はいつまで経っても投函されないのか/将来を予兆させる錯誤行為もある/無意識を持ち出されるとだれもが無批判になる/無意識の記憶が行動を導く
4.抑圧は無意識に行われる
本当に20年間記憶を抑圧していたのか/抑圧神話のはらむ危険性
5.自分の行動は相手が納得してはじめて成立する
聞き手の理解の枠組みに沿って説明する/自分の行動すべて理由づけできるわけではない
6.イメージが強化されると実際のことのように思えてくる
偽の記憶がどんどん増殖していく/さまざまな揺さぶりが罪悪感や責任感を刺激する

【第3章:記憶はどこまで再生できるか】
1.目撃証言の危うさ
「自分だけは大丈夫」という根拠なき心理/一度信じたイメージはなかなか拭い去れない/「この人が犯人です」をだれが証明するのか
2.目撃者の証言は思っているよりあてにならない
私たちは目の前のことを見ているようで見ていない/一度だけ会った人の顔を写真で判別出来るのか
3.記憶のメカニズム
記憶は再構成される/主観的な思いに記憶は左右される/誤情報を与えられると、記憶は変容する/質問の仕方次第で記憶は誘導できる/情報源は意外と覚えていない/記憶は辻褄を合わせる方向に向かう/記憶の歪みを防ぐには、情報源をはっきりさせておく/スリーパ効果−信憑性が高いと説得の効果も高まる/この記憶は「いつ、どこで」得たものなのか
4.記憶の再生量に影響する諸要因
強い情動を喚起されると記憶は正確さを失う/子どもや高齢者の記憶には要注意/記憶の再生を妨げる要因 ①凶器/記憶の再生を妨げる要因 ②アルコール/記憶の再生を妨げる要因 ③モンタージュ/繰り返し話していると、記憶は強化されてしまう/時間とともに記憶は薄れていく

【第4章:記憶はどこまで嘘をつくのか】
1.誘導され、揺れ動く私たちの記憶
同調の心理や暗示効果が記憶をつくり替えていく/記憶を誘導するメカニズムを解明する/話し合うことのデメリット/集団のほうが、冒険的な決定の罠にはまりやすい
2.権威者によるフィードバック効果
他人の視線が自分の意識や行動に影響を与える/無言の同調圧力/裁判員でさえ同調傾向に陥る可能性がある/どこまでが自分のオリジナルな記憶なのか/心理学的知見は、記憶の裏付けにますます重要となる

以上【目次】だけ読んでも何となく【記憶】とはやっかいなもので、【証言】が【根拠】としては、【不正確】なものと思えてくるのではないでしょうか。ましてや長い時間を経過した【事物】を扱う、歴史学という【科学】で用いる際には、【学際的】に【様々】な知見が必要となるのは必然なのは、尚更のことである。

 

【参考文献・サイト】


(*1)笠原十九司著『南京事件』 【Amazon】

(*2)エリザベス.F.ロフタス wiki 【Link】

(*3)仲真紀子【論文】『感情と記憶』 【Link】

(*4)榎本博明氏の『記憶はウソをつく』 【Amazon】

(*5)レイバーネットTV第96号「福島歩兵65連隊と南京大虐殺」 【Link】

(*6)偕行社『南京戦史』 【Link】

(*7)近藤平太夫氏の証言 【youtube】

(*8)『Eyewitness to masscre』 【Amazon】
松村俊夫【論文】『アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった』 【Link】


南京事件FQA 【1.人口問題関係=>2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった=>城内、安全区以外の市民の被害編集する】への反論

2020年02月20日 11時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった=>城内、安全区以外の市民の被害

この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論してみたい。
これは、【2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった】記事の【補足】記事のようである。

このサイトのような土下座強要派の方々(アカデミックやメディア、その他諸々)は、【証言】を【無批判】に【全面肯定】し【蓋然性が高いもの】として重要な【根拠】の一つとして非常に良くお使いになる。

【証言】には複数の種類があり、【第一次史料】として【当時の史料】としての【証言】、東京裁判での【裁判での証言】、【戦後】のジャーナリストや研究者が聴取・収集した【証言】がある。そして【証言】は、【直接目撃情報】と【伝聞情報】の2種類がある。
【証言】についての【正確度・真実性】について、土下座強要派の方々は、【事実】の【探究】ではなく【責任問題】として【提示】されることが【主軸】である。

そしてこのサイトの【記事】の【証言】は、史料としては【第二次史料】というもので【価値】としては【第一次史料】より【蓋然性が落ちる】ものである。

笠原十九司先生は、御自身の著作(*1)に於いて【南京大虐殺】の【定義】を【戦時国際法】に対する【違法】および【不法】を定義とされているので、その中で【証言】はどのような【位置付】なのかをも含めて考えるべきである。

【証言】の信用性は、2004年5月21日「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立し、2004年5月21日から裁判員制度が始まり、一般の方が【司法】に携わることを契機として、日本でも陪審を行う際の【証言】つまり【目撃証言】や【自白】をどう理解して【冤罪】を防ぐかを研究された際に参考にされたのが、陪審員裁判制度に歴史がある米国で、その点で進んでいて、エリザベス.F.ロフタス氏(Elizabeth. F. Loftus)(*2)による研究が評価されている。

【記憶】は他の後の様々な要因によって、変質・歪曲してしまう。

あるいは【他者】によるもたらされた情報によって【新たな記憶】が【想像され】、それが【記憶】とになることなどを【証明】されている。【偽りの記憶】を形成させるパラダイムを【ショッピングモール・パラダイム】などと呼ばれている(*3)。エリザベス.F.ロフタス氏はそれを元に法廷での数々の【証言】を行ったという【記憶の認知心理学】の【権威】である。
【記憶】とは、その様に【変化】し、【塗り替えられ】、【虚偽の記憶】すら【状況】によっては発生するような【曖昧】なものである。司法の現場では、それを【証拠】として【採用】するには、【慎重】にも【慎重】な【検討】が必要となり、当然ながら【様々な】【補足情報】が【必要】となる。

【歴史学】という分野は、人間を含めた様々な事象を扱うので、本来【学際的】に行うべきものであり、【オーラルヒストリー】を採り入れるというのであれば、【証言】が使われるのであり、それは個人の【記憶】によるものであることであるから、【記憶】についての【研究】も含めて【総合的】に併せて考えるべきものである。
即ち【前提】として、【記憶】というものを【証言】として【根拠】とする場合は、せめて榎本博明氏の『記憶はウソをつく』(*4)に書かれているようなことを留意して【史料批判】を行ってから【根拠】とすべきであると考える。

この【城内、安全区以外の市民の被害】記事の最終更新は【最終更新: troopld troopld 2008年01月17日(木) 19:31:49履歴】である。現在は2020年で、約12年後である。この間様々な分野にわたる知見を採り入れて分析を加えたことがないことになる。榎本氏の書籍は2009年に出版されている訳であり、真面目に考察をするのなら更新すべき事柄はあると考える。

では、順次見ていくことにする。

 


①城内にいた市民で日本軍侵入時に安全地帯(難民区)に逃れていなかったひとは多数いた。

②それらの人たちの多くは自身、あるいは家族・親戚・知人などが暴行・強姦・拉致・殺害を受けた。

③難民区に行かなかった理由

(a)安全区があるのを知らなかった
(b)体が不自由、病気などで行けなかった
(c)店を守るために残った

などの【証言】がある。



【分析】
①国際安全地区以外のエリアでの調査は資料は無いが人口多数。
②【殺害・暴行・強姦・拉致】の【被害者】であり【目撃証言者】である。
③(a)(b)(c)とも、もっともらしく、あり得そうな【答え】ではある。

【反論】
①国際安全委員会の設置した13日迄は一応中立地帯であった安全地区以外のエリアでの正確な人口は不明。当時の調査史料も無く不明にも拘わらず【多数】とするのは【単なる印象操作】である。
②何時のタイミングでの【証言】が取られたかというと、このサイトの例示の人物達は【戦後】の1980年代か2000年ぐらいであろう。南京攻略戦後から少なくとも40年以上は経ち、その間に【蒋介石と共産党との戦争】、【共産国家の樹立】、【朝鮮戦争】、【文化大革命】を経ているので、【記憶】の【変化】や【他の情報からの歪み】、【意図的な情報操作による虚偽の記憶】など【可能性】としては【存在】するので、充分な【関連情報】が必要である。
《【記憶】は【時間】の経過と共に、【忘却】されて行く。》
第65連隊の兵卒の日記を収集し【幕府山事件】での【日本軍の不法行為】を【証明した】されている小野賢二氏が、レイバーネットTV第96号「福島歩兵65連隊と南京大虐殺」(*5)に出演した際に提供した【証言ビデオ】の中に、【証言者】のコメントで、あり得ない【記憶の証言】がある。

引用《
とにかく実際戦争でない支那の兵隊もね
あの日本の兵隊に対して
あの戦争は早く止めろと
お前達は何の為に戦争に支那まで来てやってんだ
故郷にすむその可愛い妻子や親たちを置いて
いってぇ何が目的だと
実際俺らは何が何だかわかんねぇでやってんだから、
ただ上からの命令でやってだからね。

これは、ソ連から中国に引き渡された日本軍の【捕虜】への【帰還】に向けての中国共産党が行った撫順・太原といった施設での【再教育(洗脳)】の際の会話のようなにも【思える】(この人物の戦後の歩みの経緯が不明で、実際の所不明な点が多いので【思う】に留まっている)。この人物が、中国語が出来るとの前情報もないし、帰還までの経緯もなかったのは言うまでもない。
この様な日本軍将兵への【教育(洗脳)】施設は、現在の中国でも認めていて、記念館も出来ていることは脳裏の角に入れておかなければならないことである。
そして当時のどのような人々と接触していたかについても【重要な】【記憶】に関する【条件】となるのは言う迄もない。


【撫順戦犯管理所】記念館のモニターによる説明)
【この画像を掲載されていたサイト・ブログを失念してしまったので、もしご存じ折の方が居られたましたらご連絡下さい。】

 


【1.『体験者27人が語る 南京事件』笠原十九司編より】


【A】唐順山 1914年7月30日生まれ(P.198〜206)
①南京の評事街にある大元勝革靴店の徒弟。
②親方は城外に避難
③一人で店を守ることになった
④日本軍が南京城内に侵入の夜、新街口から上海路、清涼山へ、そして三牌楼にある兄弟子の家へ。
⑤12月14日に日本軍に鹵獲された。(好奇心から日本軍を見に行った)
⑥他の中国人の民衆400人と一緒に銃剣殺されたが、胡楼病院に運び込まれ一名をとりとめた。
⑦病院に運ばれてはじめて安全区の存在を知ったという(この証言部分は本多勝一の聞き取りによる)。


(清涼山後からは、出来るだけ安全区から遠いルートで選んでみた。)



【Aへの分析】
この【唐順山】の【証言】を最初に持って来た所を見ると最重要なものであると考えられる。
④で安全区内を通っている。兄弟子の三牌楼に行くには、再び安全区内を通るか、敗走中の88師と36師の同士討ちで大争乱になっている交通省近くを横切るしかない。
⑦の安全区内を通っているのに知らないという。

【Aへの反論】
詳しくは、ZF殿のサイトで、『《補記8》城内“虐殺”のケーススタディ』【Link】
このZF殿記事で理解出来ることは、【安全区】を通っているにも拘わらず、【安全区】を知らないと【証言】していることである。地図を見れば一目瞭然で、そして12日の争乱の後で安全区へ紛れ込む中国軍にも遭遇せずに兄弟子の家へ行くなどと云う【信憑性】の欠片もない【証言】となっている。
もう一つは、南京の専門家と自称する【笠原十九司先生】がこの事を理解していないこと。この先生は【日本軍悪】が前提になって居るために【何も目に入らない】という人物で【分析・主張】は悉く【信用性】が無いことになる。

【唐順山】の【記憶】からの【証言】は、【記憶】の【ゆがみ】や新たな情報を加えられた為の【虚偽】が【想像】された【ショッピングモール・パラダイム】の【事例】と考えられる。

これを【史料批判】も行わずに、平気で取り上げている【証言がある】などとしている日本のアカデミックの【学者】の現状は非常に嘆かわしいものがある。この様に【精査】もせずに【事実】かのように垂れ流すような研究者やその取り巻きは【ちゃんと研究をすべき】【恥を知れ】という事である。そしてこの事を【安全区外】に【人が居た】と言う事の【立証】に使うということは、このサイトの人々が如何に当時を【理解出来ていない・分析できてない】、【理解しようとしていない・分析をしようとしない】と言う事が判るの一つである。

 


【B】楊明貞 1930年生まれ(P.221〜229)

ここ楊明貞氏の写真が掲載されています。

①家は大中橋文思巷の向かい側。爆撃で破壊されて跡地にバラック小屋を建てて居住。
②13日朝、隣の小父さんとその妻は日本兵に殺された。
③父もまた日本兵に刺され受傷する。14日の夜逃走した際、日本兵に発見され父は刀で斬殺された。
④15日、本人と母親は強姦された。
⑤母親は暴行を受け数日後に死去。
⑥父のの童養?は輪姦されて殺害された。
⑦16日に難民区から戻ってきたところ近所の少女が強姦された。
⑧孤児となった楊さんは近所の人に食べ物を与えてもらって暮らした。



【Bへの分析】

①第九師団第19連隊の攻略地の通済門(共和門)の北西に位置する。後に19連隊が第九師団第6旅団(第36連隊・第7連隊)の攻略地の光華門より城内進入しの北西に位置する。
④男児である楊明貞氏と弟の童養は、共に【強姦】されたという。しかも弟は【輪姦】された後殺害されたという。

【Bへの反論】
①大中橋の北北東には故宮飛行場があり8月15日の爆撃の際の誤爆もあり得るが事実はどうか不明。
②13日19連帯の第四中隊が城内進入しているが、第四中隊長は土屋正治氏は【不気味な静寂、異様な寂莫感があった】と【偕行社】で【証言】している(*6)。当然ながらこちらも【戦後】の【証言】であるので【確証】ではない。
③で、逃走をすればやはり【殺害】の可能性はあるが、何故【刀】だったのか不明で、その際に母親・本人・弟が何故助かったのか不明である。
④⑥⑦と【男児】を【強姦】や【輪姦】とは【荒唐無稽】な【想像】としか考えられない。
①は兎も角としても②〜⑧に関しては【他の史料】が無いと【信憑性】は乏しい。こちらも【ショッピングモール・パラダイム】の【事例】といえる。

 


【C】趙伝仁 1925年1月2日生まれ(P.245〜254)
①多くのひとたちが難民区へ避難して行った。洪武路帰内営二五号在住。
②私の祖母は盲目。
③母も産後直後。
④②③の理由で難民区には行かず。継父、叔父も一緒にの家に残った。
⑤12月13日に叔父は連行されてその後消息不明。
⑥12月15日から母は数回強姦。
⑦12月16日継父を連行しようとした日本兵に印鑑刻字を理由に連行されずに済む。
⑧難民区へ避難せず自宅残留した非戦闘員は9割は殺害された可能性がある。


(洪武《路》と洪武《街》では位置が異なる。)



【Cへの分析】
まず、場所の候補が二つ在り、このサイトの主張場所は【街】で、別に【路】がある。
①戦闘エリアに属するエリアである。
②③もあり得る話だが、【事実】かどうか確認のしようがない。
⑤連行が始まったとされるのは14日で、そもそも叔父が居たのかも年齢も不明。
⑧少年時代に【目撃】【調査】したという訳でもの無い【想像】。

【Cへの反論】
①【洪武《路》】ならば、新街口から南に延びる中正路に並行して走る東側の道で、中華路へと合流する道路で一は特定出来ず。【洪武《街》】ならば、国民政府の庁舎付近の北西の位置である。どちらかこの文面だけでは判らない。《路》ならば第六師団第47連隊、《街》ならば、16師団20連隊か9連隊の受け持ちとなる。
⑤も事実かどうかその他の【傍証】がないで判らない。⑥も数回などとカウントしたのか不明。
⑦印鑑を彫ってもらったという第九師団歩兵第36連隊伍長・近藤平太夫氏の【証言(これも戦後の記憶)】(*7)があり符合する部分もあるが、この叔父という人物か不明。
⑧は、【想像】に過ぎず【ショッピングモール・パラグラム】の影響も受けてないとは言えない為、全く【信憑性】は無い。13日はこの新街口附近で、初めて【国際安全委員会】のメンバーと日本軍が接触し、その際、メンバーのスマイスが道路に整然隊列の儘と腰を下ろし待機している日本部隊とそれをただ傍観している複数の非戦闘員の姿を目撃している。⑧の話が本当ならば、その人々も殺害されたはずだが後から来たスマイスはその様な事は【報告】も【記述】も残していない。(*8)

この【A】【B】【C】の【証言】に共通しているのは、【軍命令】による【安全区】への【強制的な】【避難】が【欠落】していることである。想定としては、中国軍からの命令が届いていなかったのか、中国軍が【意図】して【人間の盾】として使うために命令を伝達していたのか、本人達が中国軍や中国人他者から隠れていて受け取らなかったのか、実際の所判らない。
文面からのみの情報であると【ショッピングモール・パラグラム】の事例のように考えられる。いわゆる【後記憶】。

 

【2.『南京への道』本多勝一著より P.255】


【D.佐潤徳(当時17歳)】
①柵戸区の王府巷父・母・妹二人の五人家族住。
②12月13日に市民二人が日本兵に殺されるのを【目撃】した。
③翌日14日に佐さんは近所のムスリムを含む6、7人とともに日本兵に連行される。
④銃剣殺されそうになるも間一髪逃げ出す。
⑤14日夜南京市衛生所(場所不明)が放火された。
⑥王府巷のひとたち二十人が消火にかけつけたが、戻ってこなかった。
⑦14日夜に佐さん家族は命からがら難民区に避難した。
⑧王府巷に住んでいた人たちの半数は殺された。
佐さんは埋葬隊の一員になった。南京衛生所の焼け跡には黒こげになった死体が百体前後を発見した。



【Dへの分析】
①城南に当たる中華門より北西に所在している。13日の第六師団47連隊の五台山までへの掃蕩作戦コース上。
⑤放火か何かによる引火か不明。
④銃剣は、銃器なので何故射殺されなかったのか不明。
⑦そもそも【記録】が無いので【避難した】かどうか不明。
⑧日本軍が入る前には、そもそも附近には防衛軍およびが居るはずだが【軍命令】を何故無視したのか【不明】。
⑨所属の埋葬団体が不明。

【Dへの反論】
この【王府巷】にしても後に出てくる【長楽街】も第六師団の中華門西がわの城壁突破面から直進距離で1kほどの近距離にある。
その割りにのんびりした感じで、所謂【突然】日本軍が侵入してきたことを印象をうける。実際には砲弾による城壁破壊が成されたものであり、1k圏内なら非常な騒音と考える何故その時に逃げなかったのか全く不明である。
⑧【王府巷】に一般人が住んでいたかのような記述だが、防衛軍の居る最中【軍命令】による【強制】が成されなかったのか不明であるが、47連隊の進軍速度を考えたとしても13日中に五台山に到達している。日本軍兵卒【証言】では、民間人を見なかったという話があるが、どちらが【合理的】な状態かと言えば、【避難の命令】に【逆らってまで】【戦場】に留まる意図は少ないと考える。
これも戦後に想像された【ショッピングモール・パラダイム】の【例】と考えられる。

土下座強要派の方々は中国の防衛軍が【無疵】で【退却した】かに考えて居られる様で、【受傷者や死亡者】のことは考慮も存在しなかったことになっている。
軍事という観点から言っても日本軍との戦闘での受傷者や死者、補充兵などを待機させる施設が必要であり、そういった施設は戦闘より少し離れた地域(直ぐに兵を補充出来るように)に設置される。【単なる可能性】だけを言えば、南京衛生所の施設の大きさなどは判らないが、死者・受傷者(瀕死・重傷者)受け入れる場所(野戦病院)として活用されていたとも言える。12日深夜に中国軍の崩壊と共に逃走の際に足手纏いとなる受傷者・死者諸共に放火をして【敗走】したという可能性もある。
【日本軍は悪】と熱烈に信じ込むと、【冷静さ】や【客観性】、【他の可能性】への考慮を失い【正常な思考力】が後退又は喪失するという証左であろう。

 

【3.『この事実を・・・・』より】


【E】朱秀英 57歳(当時9歳)(P.130-131)
①母とともに泥馬巷十六号、旧の同義公染坊に隠れた
②日本兵に見つかって首を斬られそうになった。
③一人のおばあさんが命乞いしてくれて助かった。
④翌日に難民区へ逃れた。
⑤叔父は捕まって殺害された。

【場所は特定出来なかった】



【Eへの分析】

①場所不明。サイトの場所が(6)と(7)の位置が間違っている。
④何故難民区へ避難しなかったのかの理由は無し。
⑤何故【叔父】が捉まったのか説明無し。

【Eへの反論】
ほぼ情報無し。【信憑性】の有無以前でこれだけでは判らない。
場所を特定されたようだが、当方の地図(3種類)では判らなかった。一体何の地図を使ったというのであろうか。

 


【F】李金友 68歳、当時21歳(P.138)
①興中門驢子行で馬車の御者をしていた。
②日本軍が入ってきてから興中門を土で塞ぐ作業をさせられた
③そのとき一人が撃ち殺された。
④その後、難民区に行った。


(驢子《行》となっているが、驢子《巷》であるなら確認は取れた。)



【Fへの分析】
①興中門は38連隊の掃討エリア。北の間近に獅子山砲台という軍事拠点があり、38連隊はここで【掃蕩】を行っている。
②日本軍が何故興中門を塞ぐのか。本来なら土嚢などの防禦物を取り除く。
③作業員を殺害する理由が不明。
④解放されたのか、逃走したのか不明。

【Fへの反論】
①のんびり馬車の馭者をする状態ではないにも拘わらず行っているのはおかしい。
行為が逆であるのが普通であり、【記憶】に【歪み】がみられる。
③④が事実となるのか一切不明。

 


【G】魏廷坤 71歳(P.168)
①家は頭条巷十八号。
②両親はわたしたちを連れて成賢街の建築中の建物の地下室に行って隠れた。
③そこには30、40人が隠れていた。
④日本軍に見つかった。
⑤私は煙突の口に入り込んで難を逃れた。
⑥日本軍により40人及び両親は【全て】殺害。


(成賢街の場所が不明)

 



【Gの分析】
①第九師団第7連隊の掃討区域。
②成賢街の場所が不明。
③④⑤⑥避難先を発見されて全員殺害(本人を除く)。

【Gへの反論】
③隠れていたのが30〜40人が民間人であるという保証はない。
⑤⑥40名と断定しているが、遺体をカウントしたのか。
これだけでは【事実】ともなんとも言えない。

 


【H】傳永成 57歳、当時10歳(P.178)
①日本軍が中華門から入ってくるのを見た。
②街角では団子を売っていた人が日本軍に撃たれて殺された。
③銃声を聞いた父の傳寿琪は私を呼び戻して家の門を閉ざした。
④日本軍が来て門をこじあけ、父は銃殺された。
⑤私たちの内庭の査さんは刀で首を切り落とされた。
⑥日本兵を制止するためしがみついた母親も蹴り殺された。
強姦されそうになったが、男児と判り強姦されなかった。
長楽街では20人余りが殺害。



【Hの分析】
①この人物が居た場所が不明。日本軍が中華門から入城したのは第六師団による中華門より西の壁面への砲撃で破壊された場所からの侵入が先。
②当時は戦闘中で、場所が長楽街という第六師団の侵入口に近く【平時】と同じように団子を売っていたとは考えにくい。一部で日本軍側の兵卒にもそばを注文して食したという話はある。
③④⑤⑥⑦は、【他の信憑性】のある【史料】がない限りなんとも言えない。

【Hへの反論】
⑧の20人余りとあるが、それを何故この人物が知っているのかが不明。
⑤わざわざ刀を殺傷に使ったというのは意味不明である。動きの中では首など切り落とせないと考えられる。
⑥⑦で、母親や男児が【強姦】されなかったのか不思議である。

 

【4.『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会編より】


【Z】清真寺(P.73〜74)
①2、3月になり、イスラム教導師(イマーム)が②の各清真寺に一時帰還。
②清真寺の所在:(あ)草橋付近、(い)太平路付近、(う)漢西門附近、(え)長楽路附近。
③日本軍に惨殺された回教徒の死体が倒れていた。
④草橋の清真寺が最多で10体余


((え)の清真寺の位置)



【Zへの分析】
(え)の長楽路附近と書いてあるが、王府巷の北側。ほぼ王府巷と同じ位置。【D.佐潤徳(当時17歳)】の場所と同じである。

《【D⑨】で佐さんは埋葬隊の一員になり、【南京衛生所】に炭化した百体前後の御遺体を発見。》で、【清真寺】の証言は無い。

【Zへの反論】
各施設とも(あ)の【草橋】を除いて10体未満で少ない気はするが、公平で客観的な【可能性】を考えれば、中国軍の戦闘での受傷重傷者や遺体などを待機保管していた場所とも考えられる。ただ、埋葬たいとして従事していたにも関わらず実家近くの【清真寺】についての【記憶】は語られて居らず結果、非常に【Z】【D】のどちらも【信憑性】を疑うものとなっている。

 


【被害に遭ったと自称する中国人《言い分》の所在地と清真寺(あ)〜(え)】

 

 

【その2】の反論まとめと榎本氏の書籍の目次と参考文献・サイトへ続く


【一休さん(@1kyusoujun)】殿がTL

2020年02月17日 23時09分06秒 | 日記

当方の師匠連でかなりの知識ホルダーのお一人である、【一休さん(@1kyusoujun)】殿がTLを挙げておられたので、掲載しておく。

もっとも至極のコメントである。

しかも、知識を持った上でのこのコメントなので【虚偽】を用いた【誹謗中傷】レベルではない。

引用《
秦郁彦『南京事件』はきちんと硏究して書いた樣な見せ掛けだが、中身はかなり出鱈目で、多くの人に誤解を與へてしまつてゐる。

著者の秦郁彦氏には、謝罪と訂正を記した『南京事件』の新版を必ず世に出して貰ひたい。
出版社からもさう秦郁彦にはたらき掛けて頂きたい。

【絶版】と言うよりも、【謝罪】と【訂正】の【論攷】を加えた【新版】を出すべきですわな。
これを出さないというのは、【中央公論社】が【グル】であると言う事なのですわな。
もう【中央公論社】が【出鱈目を拡散する】という【出鱈目出版社】と言う事になりますわな。
そんな【出版社】はこの世に【必要】在りません。


南京事件FQA 【1.人口問題関係=>2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった】への反論

2020年02月10日 21時22分41秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論してみたい。
いまさらながら、【まさか】このような主張をされる【否定派】の方は居られないとは思うが、教育的配慮で、もう一度反論を試みておく。


【(A)否定派の主張】
南京城内には安全区以外に人がいなかった。南京戦が始まった時点で、ほぼすべての難民は安全区への避難を完了していた


【(A)についての一言】
この記事は、2008年であるが、2020年代に於いてもこのような認識の【否定派】が居るのなら当然ながら馬鹿にされよう。2008年当時は未だ東中野氏の主張が【否定派】では主流だったのかも知れないが、現在(2020年)における【否定派】の【認識】は違うであろう。(広範囲にアンケートを採ったことが無いので何とも言えないが、少なくとも当方は違うのでこの【主張】には当たらない。

こういう【主張】を今だに【掲載】し続ける方がどうかしていると考える。

 


【1.反論】
「安全区以外は無人地帯」説は、根拠薄弱なイメージ操作に過ぎない。


【1.反論への反論】
【イメージ】を先行させて【印象操作】を行うテクニックは、むしろこのサイトの方々の方が次に述べるよう【に巧み】とは思う。
安全区以外の地帯に於ける人口調査がある訳ではなく、どれだけの非戦闘員がどの辺に分布・数量的に居たかも全く不明で、兵卒(戦闘員)か住民(非戦闘員)かの区別も付けようがない。又陥落前の国際安全委員会からの申し出に関して【安全地帯】を一応準中立地帯として攻撃を極力控えると日本軍は約束したが、その他のエリアは【戦闘区域】であると言う事をこのサイトの方々は忘れておられるらしい。中国軍による【非戦闘員】の【国際安全地区】への【避難命令】を【無視】して【居続けていた場合】の【リスク】は自己責任である。又【避難命令】が行き届かなかった場合に関しても、それが【日本軍】の責任である訳では無い。

こういった【主張】は、年々【更新】による【変更】をされるべきと考えるが、何時までも【同じ儘】にしておいてこのような安直なイメージを何時までも否定派の【主流】であるという【印象操作】を行っている。
東中野氏の【現在の主張】は知らないし興味もないが、少なくとも【当方】は違う【意見】であり、【一般的な完全否定派の主張として一括りにする】とすることは非常に問題である。

 


【2.ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は日本軍占領直前の状況について】

引用《
ニューヨーク・タイムズ記事(12月19日付)
一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p423)

①ダーディンは安全区の難民数を「10万を越す」とするなど、必ずしも正確な人口を把握していたわけではない。
②少なくとも安全区外に多数の市民が残っていたという認識を抱いていたことは間違いない。
③これは後年のインタビューにおいても確認される(同書p567-568)。
④陥落時に安全区外にいたという中国人の証言も多くある。
⑤日本軍の城内侵入時、市民の一部が中国軍と共に挹江門に殺到し、城外(下関)へと脱出したことがわかっている。
⑥この事実は安全区に避難していなかった難民が一定数いたことを示唆している。


【分析】
①②③によりダーディンは、正確ではないが、【安全区外】に【非戦闘員】が多数居たという【認識】を持っていた。
【ゆう 日中戦争−小さな資料集=>F・T・ダーディンからの聞き書き】から引用すると

引用《
F・T・ダーディンからの聞き書き(2)
日時: 一九八七年八月十四日午後一〇-一二時と翌十五日午前九-一〇時
場所: カリフォルニア州、ガーデン・グローブのウェストランド宅
質問者: 笠原十九司、伊原陽子
笠原:さっそくですが、南京難民区に避難して来た人たちは、おもにどこから来たのですか。
ダーディン:城内と城外の二つの場所から避難して来ましたが、南京の郊外から避難して来た人たちのほうが多かったでしょう。南京城内に住居のある人たちは、自分の家にいれば安全だろうと考えていました。戦闘から逃れるために城内に入ってきた難民たちは、住む家がないので安全区つまり難民区へやって来ました。
もちろん、日本軍の南京占領前に南京から避難していった市民も相当いましたが、ほとんどの城内の住民は、自分の家に留まりました。彼らは最初、日本軍は残忍なことはしないだろうと思っていました。そして二、三日もたてば、すべての片が付いて平静な事態にもどると考えていました。
住民は怖がってはいました。しかし、厳格な軍事占領となるであろうから、全面殺戮などおこるはずがないと考えていました

【全面殺戮などおこるはずがないと考えていました。】と書いているので、実際に【城内】での【全面殺戮】があった認識でいる。
④⑤⑥は【根拠】となる【史料】の提示無し。②の【多数】と⑥の【一定数】は同じ意味に使っている。

【2.ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は日本軍占領直前の状況についてへの反論】
①②③で城南という中国人居住エリアであるとしているが、そのエリアは第六師団、第114師団、第九師団による【中華門】、雨花門、武定門、通済門、光華門という中国軍の【防衛拠点】に近く、山砲・野砲などの【流弾】などが届く範囲である。
因みに、紅卍字会 3,655体、崇善堂 4,648体 合計 8,303体である。この中にどれだけの【非戦闘員(住民)】が居たかは不明である。当方の記事【F・ティルマン・ダーディン/ニューヨーク・タイムズ特電 南京発 水曜日 12月8日】に掲載したダーディン記者の記事には面白い記述がある。それを引用すると、

引用《
南京守備隊の司令官唐生智(Tang Sheng-chih)は、戦場は街へ突入したと重大な宣言をした。全ての非戦闘員は国際的に管轄された安全区に集まらなければならないと命令した。非戦闘員が市内のどこかへ異動する事は禁止された。特別なシンボルをスタンプされた下黄色い腕章を示せる特別に許可された人間を除いて。

とか、

引用《
防衛隊の報道官は、戦闘区域の民間人の避難を強制するのと同様に障害物を破壊したと言った。

という記事の文面がある、【中国軍】は【命令】により【一般人(非戦闘員)】に対して【強制措置】を行ったにも拘わらず、残留していたということはどういう事であったのだろうか。(ダーディン記者が笠原十九司氏のインタビューを受けた1987年の際には【呆け】ていたと言う事であろうか。【記憶に歪み・事実と異なる想像】が見られる。)そう言う状態での13日の南部に入城した部隊により【掃討作戦という戦闘行為】の際【誤認】されて【殺傷】されたとしても、日本軍に何の【瑕疵】があると言えるのであろうか。全く無い。因みに、五万という数値の内、埋葬記録が全て【非戦闘員】だとしても四分の一である。その【殺傷】を【違法】とか【不法】と出来る【根拠】はどこにも無い。

次に当方も人のことは言えないが、このサイトの記述者はどうも言葉の使い方がおかしいようで、②の【多数】と⑥の【一定数】を同じ使い方をしており、一定数が【多数】であると言うことでは無い。単なる【印象操作】である。
⑤⑥の挹江門へ逃げたとされる人間および城壁から城外へ出るために軍服等(便衣を含む)の着衣を繋ぎ併せてロープ状にしたことは良く知られた事実で、兵卒が【便衣】になっている時点で【非戦闘員】区別が付かなくなった為に、【非戦闘員】が交じっていたという【根拠】はどこにも無い。因みに【挹江門前】や【交通省】付近で【退却する第88師】と【挹江門を守る第36師(教導隊)】が【同士討ち】を演じているのを何故記述しないのか不思議である。(*1)

こういう【トリミング】という【トリック】を使われておられるようになかなかの【テクニシャン】である。
この戦後のインタビューでは、【全面殺戮などおこるはずがないと考えていました。(=>全面殺戮を行った)】と言及しているが、この人物は【城内】で【全面殺戮】が起こったと【有もしないこと】を平然と言及している点で非常に【由々しき人物】、つまり当時の【ジャーナリスト】の【本質的姿】を見事に露わにしている。当時ベイツのメモを【裏取りもせずにそのまま書いた】というように、【事実】などどうでもよい、【裏取りしない】ことを【事実】として書く当時のジャーナリストの【ド屑】の代表的人物そのものだと言う事である

 


【3.日本軍に見る南京安全区外の情報】
①『熊本兵団戦史 支那事変編』(熊本日日新聞社)p128-129

引用《
…のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。
》(ゆうサイト【Link】

②第六師団長・谷寿夫の軍状報告

引用《
之より先、歩兵第四十五聯隊を十日夜揚子江岸に近く北進せしめましたが、南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て、覆はれたる状態を生じたのであります。
》(リンク切れにて元サイト不明 http://ww1.m78.com/topix-2/tani.html


【分析】
①②の日本軍による戦闘状況。

【反論】
①は、【平服】から判断したものか、どういう理由で【非戦闘員】と判断したのか不明だが、【敗走する敗残兵】を【掃蕩】する事は【通常】の【戦闘行為】。【非戦闘員】が含まれるとして【見逃せば】【軍命令】としては甚だ問題である。【戦後】の【美談】にはなった可能性ぐらいで【戦果】としては甚だ問題のある行為である。【戦闘エリア】で、【非戦闘員】が【戦闘員】と交じって、【降伏】ではなく、【逃走】を試みた故の【悲劇】と言える。これだけの情報では日本軍に【瑕疵】があるかと問われれば【それ】はない。
②に関して、第6師団45連隊は敗残兵という認識で戦っており、全く何等問題もない【正当行為】としての【戦闘経過】話である。これの何処が【非戦闘員が居た】という【証拠】として掲載されている意味すら判らない。【戦果の結果】を【不服】として【再調査】つまりちゃんと遺体をカウントさせた所、最初の報告よりも戦果は低くなった問い、ある意味【目測】だけでは、【戦果】を過大評価すると言う事になることを示すものだとされている。(*2)

 


①確かに国際委員会のメンバーは、当初ほとんどの難民が安全区に入ったものと考えていた。
②確認したわけではなかった。
③事実として安全区外には多くの難民が残っていたのであり、その実態に気づいてからは認識を修正している。

【4.ラーベの日記(1938年1月17日)】

引用《
昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。〔中略〕南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。
日本軍は安全区から出るようにとくりかえしいっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。今は道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物もまじっている。難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。
》(『南京の真実』文庫版p216)

こちらがリンクが切れていたので、貼っておく。
【A】安全区外は無人地帯?【東中野氏の徹底検証 8 安全区外は無人地帯?】
http://yu77799.g1.xrea.com/higasinakano92.html
【B】資料:「安全区外」の残留住民
http://yu77799.g1.xrea.com/anzentitaigai.html
【C】「マギー牧師の解説書」より ー 続・安全区外の残留住民
http://yu77799.g1.xrea.com/anzentitaigai2.html


 

【分析】
①②③や【4.ラーベの日記】も、城内の【安全区外】。
【A】
【城内の安全区外】住谷盤根、第三艦隊軍医長泰山弘道軍医大佐、土屋正治中尉、折小野末太郎、南京安全区国際委員会(ラーベも含む)が【城内】の【安全区外】へ【避難をしなかった】の【可能性】がある住民の記述を残している。
【B】
①ダーディンの戦後のインタビューからで、忘却した【記憶】もある。
②ナチスドイツの構成員であるクルーガーのいうボルヒャート、ポーレ、マイアー邸の場所や燕京新村の家々―リンデマン邸、センツェク邸、ブッセ邸の位置が不明。中央路は判明しており鼓楼から中華門へ北へ延びる道で、33連隊の【掃蕩エリア】である。


(出典:偕行社『南京戦史』 P.155 【要図19:歩兵第30旅団(33連隊・38連隊)の南京北部地区掃蕩概況図 12月14日】)

 

③クンスト&アルバース邸には、門番が居たにもかかわらず、殺害もされることもなく、中の財産も大丈夫であった示されている。
④佐藤増次(第16師団第9連隊第一大隊本部先任書記)、戦車第一中隊長・城島赳夫氏、読売新聞、真柄カメラマン、第6師団歩兵第七聯隊第一歩兵砲小隊 N・Y一等兵などの【記録】によって【城内】の他のエリアに【残留住民】が居たことを示す。
【C】
①マギー等宣教師が行った、【フィルム】に【解説を付したもの】という【米国で行った】【プロパガンダ】様のもの。【フィルム映像自体】は【第一次史料】。

【反論】
【A】【B】にしても、【住民】の有る無しで、2020年の状況で、これを【史料】から【否定する】人間は居ない。
【B】については、①ダーディンの回想についての疑問は【記事】で掲載した通りで、【命令】があったことを【無視】して居住をしていたのは、それなりの理由があったと考えるが、それが日本軍により【殺傷】されたかということは【正確度】のある【史料】は存在していない。
②ナチスドイツの構成員であるクルーガーのいうボルヒャート、ポーレ、マイアー邸の場所や燕京新村の家々―リンデマン邸、センツェク邸、ブッセ邸の位置が判らない。中央路は判明、鼓楼から中華門へ北へ延びる道で、33連隊の【掃蕩エリア】である。クンスト&アルバース邸には、門番が居たにもかかわらず、殺害もされることもなく、中の財産も大丈夫であった示されている。
なぜ、④の【N・Y】氏の記述のように、【和やかな状態】のことを【理解】出来ずに、これらの【史料】を【日本軍の不当行為】のたたき台の史料にするのか理解不能である。つまり【非戦闘員】を【識別】して【殺傷】しなかったと言うことの一つの【証左】でもある。

引用《
十二月十三日
茅屋の前に積まれた薪の山の裾がカサカサ動いて土民の一家族が這い出してきた。巧妙な偽装をこらした掩蓋なのであった。敗残兵かと一寸ぎくりとしたが土民なのが判ると、配給されたばかりのビスケットや乾パンなどを与えて、誰もが和やかな気持になっていた。

これは極稀な一部だというのなら、【日本軍の不当行為】を【根拠】として挙げているという【日記】なども極稀な一部であるに過ぎないことになる。
【C】については、マギー宣教師の自己の撮影したフィルムへの【解説】なのだが、南京に残留していた米国のキリスト教の宣教師等が、当時【虚偽の戦時宣伝】を行ってきたということは、当方は【何度も】ブログで【記事】として書いてきた、根拠としては【ソ連】の【工作】として彼らに騙されて(利用されて)日本と米国の関係悪化を狙っていた【工作】に沿った【活動】と言うことが判明している。最も【土下座強要派】の方々は、表だった【ソ連】の活動が無いことを否定されているが【影響力工作】なので【秘匿】はアタリ前と言うことが【教養レベル】でも判らない方々ので【否定】されるが、マギーは当時ソ連人のコラと同居していたし、東京裁判でマギー証言の【一件】の【目撃情報】もその【事後確認】を【ソ連人のコラ】が行っていることを【マギーが妻への手紙】で書いている。(*3)
そして、マギーフィルムの目的だが、フィルム自体が当時を写してはいるが、解説】や【キャプション(説明書き)】はその【状況】を必ずしも正確に【反映】させているわけではない。
判りやすい例で言うと、村瀬守保氏(*4)が撮影したという画像につけられた【キャプション】と絵柄の示す文字が違うことが判るのではないだろうか。

 


(出典:村瀬守保氏『私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集一兵士が写した戦場の記録』より)

又、有名な笠原十九司先生が、誤用を指摘された、朝日新聞のアサヒグラフ昭和十二年十一月一〇日号に掲載された、「我が兵士に護られて野良仕事よりへかへる日の丸の女子供の群」を【「日本兵に拉致される江南地方の中国女性たち、国民政府軍事委員会政治部『日冦暴行実録』一九三八年発行所蔵」】にしていたというものがある。これは当時蒋介石の下にいた【共産党系】の宣伝部隊が作成したネガティブプロパガンダ(*5)による【虚偽】の【写真集】である。
そう言った意味で、フィルム自体の【第一次史料】として【価値】は揺るぎはないが、【解説】などについては、ハッキリ言って【虚偽】であるといえる。
例えば、

引用①《
(一)地方の田舎町や小都市では、何千、何万の人々が暴行され殺されたが、 そこには外国人の目が届いていない。もっとも、真実を語る彼らの言葉がときおり寄せられてはいるのだが。(「ドイツ外交官の見た南京事件」 P167)

引用②《
(七)この男性の家は南門の内側にあった。日本兵が一二月一三日にやってきたとき、かれらはこの男性の二人の兄弟を殺害し、かれの胸を銃剣で刺した。かれは一二月一七日になってようやく病院に運ばれた。この映像は診療所で撮影されたものである。かれは胸をゴロゴロ鳴らしていたが、おそらくもう亡くなっているであろう。

引用①は、デンマーク人の情報(*6)や、ドイツの外交ルートでの北支の状況を元にしているものだが、当然ながら【ガセネタ】である。
石田勇治訳/笠原十九司監修『ドイツ外交官の見た南京事件』を引用を読むと判るが、北支の状況などをビダーという外交官が【南京】と同じよな報告している。

 


(出典:石田勇治訳/笠原十九司・吉田裕/編集協力 『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』【Amazon】

一般に戦時プロパガンダと言うものは、メディアを通じて行われる【虚偽情報】拡散と考えられているが、実際には【外交官】を通じて【秘密情報】として【意図又は不作為にあるガセネタを本国に送る】こともあるのである。所謂インテリジェンス情報。よく【根拠】として使われる日本の石射猪太郎(*7)の東京裁判での証言などは、【ガセネタ】を調べもせずに【信用した】というお粗末な話として【外交官失格】を露呈した話である。
メディア情報としては、当方の前記事【南京事件FQA 【0.「南京論争」の前に=>3.南京事件/南京大虐殺の呼称は何がいいか】への反論】の参考文献に載せたが、ソ連が当時から【世界的大虐殺行動開始】とソ連の機関誌であるタス通信を使って拡散しようとしていた。
【プロパガンダ】というのは、【幾通りかの手法(ルート)】があると言う事を理解しなければならないにも関わらず、何故か存在自体を無視するという有様で、東宝撮影の『南京』をプロパガンダなので【根拠】にならないなどと真逆なことをいう人物も居る始末。
引用②に関しても、南門は中華門のことであり、【激戦地の一つ】である。13日は門内突入後である。この人物等がなぜここに留まれたのか全く不明で、どのような経緯があったことも書かれていない。当時から現在に続くプロパガンダには、【平和】な【通常生活】を営まれていたエリアに【突然武力侵攻】してきた日本軍というイメージを付けるものがある(*8)。当時は戦闘状態で、あり得ない話。これを【真に受ける】人は余程の【人のいい人】ぐらいしか居ない。

 


①日本兵による暴行がより激しかったのは、外国人の目が届かない安全区外の地域であった。
②日本側の記録は市民に対する暴行・強姦・虐殺の事実をほとんど伝えていないが、中国側には安全区外にいた住民の被害証言が多く残されている。



【分析】
①目撃者が居ない、マギーの話でも500名【殺傷】という話が、何故か夏淑琴女史の【近親者】の【猟奇的殺害話】に【のみ】になっている。
②米国宣教師の映像も根拠としての価値は低い(マギーのフィルムは確証が無い)のは前述済み、日本側にあるわけはなく、中国側の【証言】というが多くは【戦後】の本多勝一等の事後数十年立ったものである。

【反論】
①【安全地帯以外】は中立的意味合いの強い、第三国の欧米人の記録も無い。事後である以上警察のような調査能力を当時の安全委員会のメンバーが持ち得て居らず、ほぼ【伝聞情報】で構成されていて、当時の宣教師等の【目的・意図】を考えれば、極めて不適切なものと考えられる。
夏淑琴女史は、【単に正直で】【聞いた事】を述べられているのであって、女史が【嘘】を付いていると言う事では全く無い。詳細は当方の以前書いた記事『南京事件の一つとされる【夏淑琴】事件についての考察』を読んでいただければ、女史の正直で【嘘】など言わない人柄が理解出来ると考える。但し【話の内容自体】は【虚偽】であることは理解出来る。以前、このサイトの執筆者の一人であるK-K(@KKnanking)氏とこの件で、南京での専門的な知見を持って居られるとのことで、お尋ねした事があったが、碌な【返答】が出来ないという笑い話があった。
②【被害証言】というものの殆どが【戦後】のもので、蒋介石vs共産党の戦乱や文化大革命を経た上で、当時の生存者がどれだけ残って居たのかも不明であり、共産党に逆らえる人など皆無であったと考えられるので、このような【証言】の【史料価値】は【極めて低劣】であるものある。有り体に言えば【根拠】としては【ゼロ】に等しい。
土下座強要派のアカデミック村の方々やジャーナリスト、政治家、メディアの関係者、そしてこういうサイトに代表されるような人々及び読んで信じる様な方々は、【地図】による分析が全く出来ない、意図して行わない、理解しようとしないようである。【文面】を追うだけではなく、多角的に【調査・分析・考察】すべきである。科学的検証をするならば、地図上の位置からの動きなどの【検証】は【必要不可欠】と考える。
何故そう言えるかというと次のこのサイトの記事に【欠陥】が現れているからである。

南京事件FQAの次の記事 【城内、安全区以外の市民の被害】

 


【参考文献・サイト・リンク】


(*1)偕行社『南京戦史』(非売品) 第12節 第三国人が見た城内の状況=>中国軍の退却と掠奪放火 P.274 13行目 【Link】

(*2)板倉由明著『本当はこうだった南京事件』 日本図書刊行会(1999/12/1) 第12章 歴史教科書への抗議 その二 中島日記の引用=>水増しの戦果報告の実態 P.374/15行目 【Amazon】

(*3)当方記事『ジョン・マギー牧師(John Gillespie Magee)の目撃してないという妻への手紙』 【Link】

(*4)村瀬守保氏『私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集一兵士が写した戦場の記録』 【Amazon】

(*5)松尾一郎氏ブログ『電脳日本の歴史研究会blog』
この方に言わせれば、当方など【盗っ人猛々しい】という事になろう。全くその通りで、ここでコッソリ【謝罪】と【感謝】を記しておく。

(*6)BBC『南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰』 【Link】
ZF殿ブログ『《補記7》湖山村の虐殺』 【Link】

(*7)石射猪太郎著『外交官の一生』 【Amazon】

(*8)Youtube 【Link】


【参考記事・当方参考記事】
産経ニュース【聞きたい。】池田悠さん 『一次史料が明かす 南京事件の真実』
(事件の半年以上前の)昭和12年5月6日、上海で開催された全国基督(キリスト)教連盟総会における蒋介石の政治運動『新生活運動』への支援決【Link】

当方の記事【1937年 南京事件に於けるティルマン・ダーディン(Frank Tillman Durdin)が目撃したとする記事の部分】【Link】
当方の記事【F.T.ダーディン記者の1937年の南京事件に於ける記事の矛盾点について】【Link】
当方の記事【The New York Times by F.Tillman Durdin 1937 Nov.22】【Link】
当方の記事【F・ティルマン・ダーディン ニューヨーク・タイムズ 特電 南京 12月7日 火曜日】【Link】
当方の記事【F・ティルマン・ダーディン ニューヨーク・タイムズ特電 南京発 水曜日 12月8日】【Link】
当方の記事【秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその1】【Link】
当方の記事【秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその2】【Link】
当方の記事【1937年 NYTダーティン記者等メディア向け渡されたベイツメモ】【Link】