笠原十九司教授による【南京大虐殺事件の定義】ついての考察

2019年03月07日 21時40分39秒 | 『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』

笠原十九司教授の著作『南京事件』と増補版の『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』で南京大虐殺事件(南京事件)に見る【その定義】を考察してみる。

最新の増補版の『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』(*1)で次のように簡略定義されている。

引用

一九三七年から開始された日中戦争の初期、当時の中国の首都南京を占領した日本軍が、中国軍の兵士・軍夫ならびに一般市民・難民に対しておこなった戦時国際法や国際人道法に反した不法、残虐行為の総体である。

さて、この文面でも以下の2つの疑問点がある。

①12月4日前後の中支那方面軍による南京戦区(表記まま)からの戦闘後とそれから始まる期間とエリア。
②国際人道法にも反した不法、残虐行為。

【①について】今回の定義について、12月4日前後の中支那方面軍による南京戦区(表記まま)からの戦闘後の期間とエリアと有る。然しながら定義には【首都南京を占領した】とあり、厳密にいえばご自身の定義からずれている部隊も存在する。南京占領入城しなかった部隊は除くのかどうかは、定義されていない。また、11月13日以降の16師団らの上陸以降の戦闘について笠原氏は自身の著作『「百人斬り競争」と南京事件』(P.125/大月書店 2008年)で述べている箇所もある。つまり、自身は論拠として含めている。本来なら11月7日の第10軍の上陸以降からの上海への侵略戦争に失敗し撤兵・敗走した蒋介石・共産党連合軍への追撃戦としての南京攻略戦に参加した部隊と定義づける方が笠原氏の考えと合致していると考える。この件に関して、査読をした筈の他の研究者は何も指摘しなかったのか。それとも今回は査読も行わなかったのか疑問が残る。

【②について】【国際人道法】(*2)とあるが、【戦時国際法】(*3)が別に並記されているので、国連の公式HPにあるように戦後の1949年と1977年の【ジュネーブ法という【国際人道法】であると考えられるが、【戦時国際法】にしても【国際人道法】にしても、該当する【法令】を明記する必要が出てくる。『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』のテーマは、

引用《

こうした疑問にたいして留学生や外国人の人たちにもわかるように》《(肯定否定の議論のやり取りが)「どっちもどっち」「ドロ仕合」といった嫌悪感が、日本人のなかに多数の傍観者を形成させ、南京事件の歴史認識の定着を妨げている大きな要因となっている。》《サブタイトルに書いた「日本人は(南京事件の)史実をどう認識してきたか」ということであり、その反意として「日本人はなぜ(南京事件の)史実を認識してこなかったか」ということである。

ならば、そもそも余り興味や知識のない人間に説明をする際は、【国際法】から該当箇所の【法令】をも明記する必要があると考える。それを端折って【反する不法】と記述しても、一般的には国際法はおろか戦時法や人道法について知る方は少なく。【日本軍のどの行為】が【どの法令】に【反している犯罪】かどうか判らないからである。

さらに、この【法律】を持ち出したことによって、南京攻略戦後の各事例について、示す【法を犯した犯罪】としての【日本軍の行為】への検討が必要になる事態となった。南京攻略戦後について、知る為には、前提として【国際法】を知って居無ければならないという事と成ってしまったことになる。
当然ながら、笠原十九司氏が【国際法】の【実務者】でなければ【研究者】でも無いことは云うまでもなく、その為に一々列挙するケースに【不法行為】かどうかの【法律家】の伺いを立てねば、それが【不法】による【犯罪】かどうかが、全く【判別出来ない】ことになると言う事になる。しかしながら笠原氏の今までの論考の中で提示してきた日本軍の行為が【法律家】による【不法判定の犯罪断定】が成された記述を見たことは無い
そして又【国際人道法】を南京攻略戦にあてはめるは【法の不遡及の原則】(注4)から不適当と考える。南京攻略戦は1937年12月であり、WW2終了後の法律を当時の日本軍人が知る由もなく、その【法的義務】も知るはずもない。それを当てはめるというのは適当ではない。
加えて言えば、1927年のジュネーブでの【俘虜の待遇に関する条約】(注5)については、日本国は批准していない。理由(*6)は、【①日本軍は捕虜の待遇を求めないので不公平の為受け入れられない。②航空機による作戦遂行後日本軍への投降は受け入れられない。③第86条規定(*7)で中立国の立会人不在では捕虜からの情報引き出しの可能性がある為受け入れられない。④捕虜に対する規定は日本軍兵士の待遇以上の優遇的であり受け入れられない。】の4点から、批准をしなかった。支那事変から四年後の1941年の米国の問い合わせに対しても【適当なる変更を加えて (mutatis mutandis) 同条約に依るの意思ある】(*8)という法の【準用】を返答している。
又、笠原氏が著作の中で国際法における【戦争犯罪】についての参考にした藤田久一著『戦争犯罪とは何か』(*9)の中で書かれていることは、【法の遡及】についてWW1の【戦争犯罪人】として訴追された元ドイツ皇帝ヴィヘルム・カイゼルを逃亡した先のオランダ政府に【法の遡及】による【法】によって引き渡しを要求した際、オランダ政府は【法の遡及】を次のように

引用P.60/9行目《

もし将来、国際連盟によって、戦争の場合に、犯罪とされた行為で、かつ犯された行為より以前の規定によって制裁を科せられる行為を裁くために、権限ある国際管轄権が設定されるならば、オランダはこの新制度にくわわることになろう

として【法の遡及】を【拒否】している。その後、満洲事変、支那事変、大東亜戦争敗戦後までに、【法の遡及】が【国際法】では認められる事と各国の【法の遡及】は認められない【国内法】と矛盾を越える為の【制度】が、【国際連盟】の加盟国(*10)及びその他の国において【法の遡及が認められた決められた】という話は聞いことがない。

さらに笠原氏の『南京事件』【定義】の中で、P.215/8行目に引用【三七年八月一五日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民にたいする無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。】と日本軍による支那大陸の各地点への空爆をその【定義】の中に入れているが、第二次上海事変が始まって直ぐの8月14日の【蒋介石国民党空軍】による【上海への無差別爆撃】(*11)の直後から行われた日本軍の各都市の空軍施設への爆撃を恰も【無防備都市及び非交戦者殺害の為の無差別爆撃】と、何等の【根拠】も無く、自己の主張する【定義】の中に入れている。
当時の国際社会全てでは無いが、国際連盟の主要国の一つである1937年10月6日のイギリス議会の議事録(CAB-23-89-7)(*12)の中で、

引用《
The General Staff also held that the actions of the Japanese had not been unjustified. For example, the bombing of the Capital was a justifiable act of war which was likely to be undertaken by any country in the event of hostilities.

当方訳:幕僚は又、日本軍の行動は不当では無かったと考えた。例えば、首都への爆撃は戦争として正当な行動であるし、万一敵対の場合には、どの国でも実施される可能性もありそうだった。

とあり、その後、議会でも賛成(The Cabinet agreed ---)を受けている。
確かに、イギリスの閣議であって、当時の国際社会全般の認識かと問われると他国の情報も調べる必要があるが、時系列的に起こった行為と当時の南京の首都が【民主主義制度の選挙】に則って選ばれた【政権】による【行政】が成されて【無防守都市】であったならいざ知らず、【軍閥】という【軍事拡張主義】的な指向性を持つ【蒋介石】が頂点に立つ【軍事政権】による都市運営である。その点を踏まえずに、【市民にたいする無差別爆撃】という記述は、学者にあるまじき【無知蒙昧】や【印象操作】による【読者】へのミスリードを誘う記述というものである。


【結 論】

この【定義】は【一般的】に【認知し得ない】【法】を前提とした【不法・違法】を【印象操作】する為の、【学問的とは呼べない】【政治的】な【責任】を【当時の日本将兵】や【現在の日本国と日本人】に【罪】を【擦り付ける】の為のものであると言わざるをえない。
苟も【歴史学者】を標榜する人物が、【政治的に責任を追及する為】だけの【法の遡及】や【偽証罪不問】、【戦勝国の戦争犯罪不問の不公正】を抱える【極東国際軍事裁判(=通称東京裁判)】(*13)と同様に、一学者如きが【国際人道法】を【日本軍の戦闘実行将兵】に当てはめ、現在の日本国と日本国民にたいして【責任】を押しつけようとするのは問題である。しかも【日本軍兵卒】の行為だけにそれを当てはめるというのは更に【公平性の欠片】もない異常なことである。
本来【責任問題】と【史実の追求】という【学術・学問】とは【表裏一体】のものでは無い全く【別物】とすべきだからである。どうしても【責任問題】をしたいというのであれば、【中国近現代史】を【専門家】であれば、【日本軍兵卒】のみならず、支那事変に係わった【支那軍兵卒】【米国人】【ロシア人】【ドイツ人】の【行動・行為】についても【探究】し【その責任を追及】すべきでは無かろうか。




(*1)増補版の『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』(Kindle版) 笠原十九司著(都留文科大学名誉教授。中国近現代史専門。南京大虐殺肯定派の専門の権威。) 平凡社 2018/12/12

(*2)国連広報センター(http://www.unic.or.jp/activities/international_law/humanitarian_laws/
引用《
国際人道法は戦争の手段や方法を規制する原則や規則、それに文民、病人や負傷した戦闘員、戦争捕虜のような人々の人道的保護を扱ったものである。主要な文書としては、赤十字国際委員会の主催のもとに採択された1949年の「戦争犠牲者の保護のためのジュネーブ諸条約(Geneva Conventions for the Protection of War Victims)」と2つの1977年追加議定書(1977 Additional Protocols)がある。

Wiki ジュネーブ法:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%B4%E6%9D%A1%E7%B4%84
俘虜の待遇に関する条約:捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)
戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第4条約、新設)
(*3)
Wiki 戦時国際法:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B3%95
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約・御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000018884
信夫淳平著『戦時国際法講義 第2巻』(info:ndljp/pid/1060837)
信夫淳平著『戦時国際法提要 上巻』(info:ndljp/pid/1707271
(*4)法の不遡及:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%B8%8D%E9%81%A1%E5%8F%8A
野呂浩著論文『パール判事研究:A級戦犯無罪論の深層』(info:ndljp/pid/9212941
(*5)Wiki 俘虜の待遇に関する条約:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%98%E8%99%9C%E3%81%AE%E5%BE%85%E9%81%87%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
B04122508600

(*6)【「俘虜ノ待遇ニ関スル千九百二十九年七月二十七日ノ条約」御批准方奏請ニ関スル件回答 八月九日付条一機密合第三〇九一号:https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B04122508600


(*7)KKnanking氏のサイトより、【俘虜の待遇に関する千九百二十九年七月二十七日の条約】第八編 条約の執行>第二款 監督の組織>【第八十六条】条約適用の保障(http://www.geocities.jp/kk_nanking/law/ko_hou/1929.html
(*8)Wikiより引用《
日本は本条約を批准していないが、太平洋戦争開戦後の1941年12月27日、アメリカ合衆国は当時の日本における利益代表国であったスイスを通じて、同国が本条約を遵守する意思があることを伝え、また日本の意向について問い合わせてきた。1942年1月3日には、英国およびその自治領が同様に利益代表国のアルゼンチンを通じて問い合わせを行った。
1942年1月29日、日本政府はスイス、アルゼンチン外交代表に対し「適当なる変更を加えて (mutatis mutandis) 同条約に依るの意思ある」との声明を発表した。

(*9)藤田久一著『戦争犯罪とは何か』岩波書店 1995/3/20 P.59、P60
(*10)Wiki 国際連盟加盟国:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F%E5%8A%A0%E7%9B%9F%E5%9B%BD
(*11)第二次上海事変での蒋介石・共産党連合軍の空軍による無差別爆撃。
1937年8月 第二次上海事変。キャセイホテル前。 - EA_ Warhistory http://blog.livedoor.jp/ea_warhistory/archives/13468651.html
1937年8月14日。支那空軍が上海を空爆。 - EA_ Warhistory http://blog.livedoor.jp/ea_warhistory/archives/10565599.html
1937年8月24日。第二次上海事変。上海百貨店の惨状。 - EA_ Warhistory http://blog.livedoor.jp/ea_warhistory/archives/10767954.html
1937年8月 第二次上海事変。アジア石油の火災。 - EA_ Warhistory http://blog.livedoor.jp/ea_warhistory/archives/13468290.html
(*12)The National Archives(http://www.nationalarchives.gov.uk/)で公開されているイギリス議会の議事録(CAB-23-89-7)の256・257


(*13)【極東国際軍事裁判】については、国際法学者の田岡良一博士の発言に、【裁判に適用された法律は事後法で、これは政治的目的を達成するために、便宜上作られた法です。】とある。(注)昭和41年12月20日発行の『アイ ラブ ジャパン ─パール博士言行録─』 第2部 東京裁判の回想(NHK総合テレビ『土曜談話室』録音) 『東京裁判の思い出』(聞き手は、国際法学者 田岡良一博士)P.98/上段 7行目 田岡氏の発言。



【笠原十九司氏の著書『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』についての考察メモ】の補足

2019年01月24日 20時53分08秒 | 『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』

前回の【笠原十九司氏の著書『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』についての考察メモ】の補足として
『南京の真実』 P.317/12行目に、1938年6月8日に、ラーベによる、ヒトラーへの上申書(*1)の中で、天文学的数値に近い記述がある。

引用

中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日二百体以上は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。

ラーベのこのテキストによると少なくとも南京攻城戦後から六ヵ月強余りの時間を経た内の情報で、ラーベが南京を去った2月22日から、【蒋介石側の国連での主張】での、2万人という数値から、五倍に当たる【民間人10万人】という情報を得ていた訳である。支那側の【主張】がどうして10倍にふくれあがったのか。
誰からの情報で、こうした認識に至ったのか。全く不明である。
1938年3月のチャイナ・フォーラム(*2)の情報が伝わったとしても、8万人であったことから、プラス2万と成っている。途中で誰かが、約10万と伝えたのか。情報の入手経路が不明である。このチャイナ・フォーラムの人物が如何なる情報を元に作成した資料か全く判らないが、数値としての情報が存在したことに間違いがない。前記事の内容での広田豊氏がこの情報のことを言っているかどうか判らない。

又、このラーベの5〜6万の犠牲者数が、紅卍字会の数値によるものであったなら、4万程度でありそれは兵民および戦死・不当殺害の区分は成されていない。スマイスの統計学手法を用いた分析報告書でも、市街調査での家族調査は3月9日から4月2日でスマイスの表4(*3)で見ると死者は3,400。広大な農業エリアでは26,870である(*4)。あわせても33,620人で、しかしこれも又日本軍による行為という統計学手法による推測値に過ぎない。これと揚子江岸に死亡し遺棄されたか敗残への推測も入れいていると言う事か。後の多くて2万のプラスは何処から来たか全く不明である。
その他の埋葬記録として高冠吾が命じて埋葬を処理をしたのが1938年10月で約3,000体あるが、これは情報元として入っていない。
つまり、ジョン・ラーベの見解は確実なデータを取れる立場でもないし、大凡の【憶測】による数値として考えられる。

(*1)『南京の真実』(ジョン・ラーベ著/エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳/2000年/講談社)
(*2)亜細亜大学 東中野修道『南京大虐殺の徹底検証[20世紀最大の嘘南京大虐殺の徹底検証(後編)]』平成12年(2000年)1月23日 於・大阪国際平和センター(於:ピースおおさか)念法真教機関紙「鶯乃声」平成12年3月号より転載 東中野 修道 亜細亜大学教授(http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/13-2.html
(*3)『War Damage in the Nanking Area December,1937 to March, 1938』 1938(昭和13)年7月発行 全73(73pages) 松尾一郎氏サイト中(http://www.history.gr.jp/nanking/books_wardamage.html) Table 4
(*4)同上 Table 25

スマイス南京市調査 表4

スマイス農業エリア調査 表25

スマイス調査マップ


笠原十九司氏の著書『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』についての考察メモ

2019年01月16日 20時07分34秒 | 『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』

自然科学や数学、応用科学などの学術は、その仮説の証明は、用いる環境・素材・計測機器、計算方法を吟味した上での実験による実証データの推積による分析によるものと考えられるが、仮説を実証する実験に不適当な対象を使えば、どのような結果が生ずるのか自ずと分かり得る。そもそもその様な誤った材料から導き出された結果は信用されるべき結果と言えるであろうか。学術の理論として認められるものであろうか。
しかしながら、歴史学ではそれがそうではないらしい。
【営利目的】の学術誌ですら、論文は、査読(*1)を通して原稿が予め同じ分野の専門家(査読者)の検討され、問題が無いかチェックするものであるという。しかしながら、出版社及びその編輯者が同分野で同じ指向性を持つ場合は、そのチェックが機能するかどうかはなはだ疑問が生じている。

先頃増補版が出た笠原十九司氏の著書『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』での旧版書にそんな不適当な事例を見ることが出来る。

第一章【「論争」前史】「1 南京事件を知っていた政府・軍部指導者=>陸軍中央の事件への対応」の中で、宇都宮直賢(*2)氏の回想録『黄河・揚子江・珠江 ─中国勤務の思い出(1980)』からの引用されている。
下記にその記述を引用してみる。

引用《
南京の暴行虐殺事件のニュースについては、日本側はこれを発表することを禁止したが、全世界に知れわたって轟々たる非難の的となったことはまことに遺憾千万だった。(中略)ずっと後で広田大佐と軍渉外部長を交代した際、談たまたま南京虐殺事件におよんだ時、大佐は「中国側の宣伝による中国人の殺害された数はまったく天文学的であり、過高断面の表現もよいところだったが、私が南京駐在の日本領事たちと現地ではっきり見聞したところでも、多数の婦女子が金陵大学構内で暴行され、殺害されたことは遺憾ながら事実であり、実に目を蔽いたくなる光景だった」と語った。


上記引用の記述で、陥落後の日本軍による不法・不当行為を日本政府・陸軍中が認識していたという根拠の一つとして提示されている。
気になる点が二つ。


①支那側の主張する【天文学的数値】
②金陵大学(南京大学)での多数の婦女子強姦殺害事件

については、【天文学的数値】は具体的な数値では無いが、1938年2月2日の「国際連盟理事会第100回」の第6会合に於ける[中国政府の訴え](*3)が【一般市民2万人の殺害】で有ったことを考慮すると、この【天文学的数値】と【イメージ】がそぐわない。まるで東京裁判以降の数値のようなでこの話は【東京裁判以降】ではと疑われる。この回想録が1980年に出版(非売)とのことで、いつの書かれたかは定かではないが記憶の混濁があるのではないかと考えると、史料としては不適当と考えられる。
についても、金陵大学(南京大学)でこのような重大事件が起こっていたのであれば何等かの【史料】が残っているはずである。
阿羅健一氏による領事官輔・粕谷孝夫氏の聞きとり(*4)によると、この広田大佐とは本間雅晴少将に随行して1938年2月の始め頃に南京入りをした広田豊氏のことと考えられ『国際安全区当案』の【第59号日高Hidaka氏への手紙(原注)】にラーベが来訪を謝意を示している記述(*5)がある。この実在の人物が事件の跡である悲惨な現場を【目撃】出来るぐらいであるから、1938年1月中頃から2月前半と推測して、当時の南京に在留していた欧米人の抗議文・手紙・日記などを集めた文献や南京攻略戦前後の研究書など10冊程度の文献(*6)を紐解いて調べてみたが、その様な【悲惨な事件】は見当たらなかった。
①②からの可能性としては、この宇都宮直賢氏が回想で【記憶違い】又は【嘘】を記述したか、広田氏が宇都宮氏に嘘を付いたかである。記憶違いならまだしも、宇都宮氏が嘘を記述したり、広田氏が嘘を付いたというのならその真意は何処にあったか不明だが、【嘘】を付いたことが、碌に調査もされずに外務省同様に軍中央まで、【虚偽の戦時宣伝】の情報が上がっていたというのであれば、当時における【防諜】の【機能】が皆無であったという証左とも受け取れる。
又宇都宮氏が、嘘を付いたというのなら、戦後1949年に台湾の蒋介石政権へ軍事協力した白団のメンバーでもある(*7)宇都宮氏が、回想記を書く際に蒋介石国民党(1975年逝去)の残党および台湾政府になんらか為に阿った可能性も考えられなくもない。
宇都宮氏は防諜組織研究所の機関長であり、情報の重要性は認識していたと想像だにするが、その真意は分からないし、単なる可能性でありどのような事情があったか判らないが、史料として実質的な事件をその史料や文献の中に見いだすことが出来なかった以上は史料としては価値がない。

学術界のこの分野に於ける権威である笠原十九司氏が、この引用の史料について①②の点から傍証を探し検討したというのは本書籍からは全く窺えない。このような問題のある回想録の部分を自身の論拠の一つに使うことは、不適当とは考えなかったか不思議で仕方がない。又、チェックをするはずの査読をしたであろう同分野の専門家というのも何を基準に判断しているのか理解に苦しむ。
笠原氏は、同著の中で自身の教え子がこのような「史料の裏付けもなく、根拠もなく自分の推量だけで判断してはいけない」と注意するとのべて(*8)、東中野氏の推測を批判しておられるが、自分自身の論攷では全く【史料】の裏付けを取らず、検証もされていないようである。
笠原十九司氏が論攷を寄せている『南京大虐殺否定論13のウソ』 第3章の中で、

【一次史料】の重要性を溪内謙氏の『現代史を学ぶ』の一文を引用【歴史家は、「第一次史料」とよばれる史料がとくに基本的な史料である、「第一次史料」に基づかない歴史記述は信頼できない、とよくいいます。第一次史料とは、原史料あるいは根本資料といわれることからも判るのですが、歴史家によって加工される以前の原材料、引用される以前の「もとにある」史料のことであり、大体において歴史的出来事と同時代に作成された記録です。】その重要性を説いている(*9)。つづいて【日本軍の占領下の南京にいて、南京事件を目撃したり、見聞した外国人のジャーナリスト、宣教師、外交官たちの記録文書こそ歴史学でいう「第一次史料」なのである。】

とご自身で引用してまでその重要性を説かれている。んらば、笠原十九司先生は、回想録やオーラルヒストリー(証言)など、根拠の無い又は薄いものを使わず、自身等の主張の【一次史料】を再点検し、それでもって論考をする必要があると素人は考えるがそうは成されなかった。
この書『南京事件論争史』には、1937年の南京攻略戦後について、日本軍の不当・不法行為は、【学問的に決着した】と何度も出てくるが、このような【点検または史料批判】されてい無い史料が恣意的あるいは無分別に紛れ込んで構築された論攷から【学問的に決着した】などと言えるといえるであろうか。素人読者ですら、調べれば判るような論考や記述を野放しで罷り通っているならば、近代歴史学の学術界も学界の【コンセンサス】などと笑って見過ごすことが出来るものでは無い筈である。真摯な猛省と効果有る自浄対策を求める。



【参考文献】
(*1)査読 wikiより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BB%E8%AA%AD#cite_note-14
(*2)宇都宮直賢 NIDS防衛研究所紀要 http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j14-2_6.pdf
木村洋『ヤマ機関の研究・講演用資料』(第16回諜報研究会)http://www.npointelligence.com/NPO-Intelligence/study/pic1602.pdf
(*3)『南京の実相』(日本の前途と歴史教育を考える議員の会監修)P.88下段4行目[4014]中国政府による訴え(文書 C69.193.VII.)1938年2月2日の「国際連盟理事会第100回」の第6会合に於ける中国政府による訴えの中で、P.89下段最終行より次頁P.90上段6行目まで《日本軍が南京と杭州で犯した残虐行為につき、アメリカの大学教授や宣教師たちの報告に基づいた信頼のおける記事がもうひとつ、1938年1月28日付けのディリーテレグラフ紙とモーニングポスト紙にも掲載されています。日本軍が南京で虐殺した中国市民の数は20,000人と推定され、まだ若い娘を含む何千という女性が凌辱されました。》
(*4)阿羅健一『南京事件日本人48人の証言』小学館文庫 p.302-305
(*5)『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』(冨澤繁信著/展転社 /2004/10)、P.312/5行目
(*6)①『Eyewitness to Massacare』(Zhang Kaiyuan、Donald MacInnis著/2000/12/26/Routledge社)
   ②『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』(冨澤繁信著/展転社 /2004/10)
   ③『南京の真実』(ジョン ラーベ著、エルヴィン ヴィッケルト編集、平野卿子翻訳/講談社/1997/10)、
   ④『外国人が見た日本軍による暴行』(ハロルド・J・ティンパーリ(Harold John Timperley、
     中国表記:田伯烈/翻訳者不明/評伝社/1982/11)
   ⑤『アジアの戦争』(エドガー・スノー著、森谷巌翻訳/筑摩叢書/1988/1)
   ⑥『決定版 南京大虐殺』(洞富雄著/徳間書店/1982/12)
   ⑦『南京への道』(本多勝一著/朝日新聞社/1990/1)
   ⑧『中国の旅』(本多勝一著/朝日新聞社/1981/12)
   ⑨『南京事件―「虐殺」の構造』(秦郁彦著/中央公論社/2007/7/1)
   ⑩『南京事件』(笠原十九司著/岩波書店/1997/11/20)
   ⑪『南京大虐殺否定論13のウソ』(南京事件調査研究会編集/柏書房/1999/10)
   ⑫『「南京虐殺」への大疑問』(松村俊夫著/展転社/1998/12/1)
   ⑬『「南京大虐殺」はこうして作られた』(冨士信夫著/展転社/1995/05)
   ⑭『プロパガンダ戦「南京事件」』(松尾一郎著/光人社/2003/12)
(*7)白団(パイダン) wiki/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%9B%A3
(*8)『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』 第六章 一九九〇年代後半から現在──「論争」の変質 東中野修道・小林進・福永慎次郎『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社、二〇〇五年)の中で、P.255/6行目《つぎはマギー牧師の写真の否定の論理であるが、マギーが東京裁判で証言台に立ち殺人現場を目撃したことを証言したにもかかわらず、そのときフィルムを傍証として提出しなかったのは「虐殺の主張がかえって打ち消されてしまうと恐れたのであろうか」というものである。私のゼミ生がこのようなことをいえば「史料の裏付けもなく、根拠もなく自分の推量だけで判断してはいけない」と注意するであろう。》
(*9)『南京大虐殺否定論13のウソ』(南京事件調査研究会編集/柏書房/1999/10)P.52 年鑑を「一等史料」という荒唐無稽な否定論の中で引用【谷内謙は『現代史を学ぶ』(岩波新書、一九九五年)は歴史学でいう第一次史料についてこう説明している。
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歴史家は、「第一次史料」とよばれる史料がとくに基本的な史料である、「第一次史料」に基づかない歴史記述は信頼できない、とよくいいます。第一次史料とは、原史料あるいは根本資料といわれることからも判るのですが、歴史家によって加工される以前の原材料、引用される以前の「もとにある」史料のことであり、大体において歴史的出来事と同時代に作成された記録です。(一五六頁)
本稿でもその一端を紹介してきたように、日本軍の占領下の南京にいて、南京事件を目撃したり、見聞した外国人のジャーナリスト、宣教師、外交官たちの記録文書こそ歴史学でいう「第一次史料」なのである。私はアメリカでそれらの史料を収集して前掲資料集にまとめ、それらを日本側史料、中国側史料と照合させながら厳密な史料批判を加えて、『南京難民区の百日』(前出)や『南京事件』(岩波新書、一九九七年)の歴史書を叙述した。】