亀井静香氏は、私が尊敬できる政治家です
経歴
東京大学経済学部卒業
経済学士(東京大学・1960年) 商学士(東京大学・1962年)
前職 警察庁長官官房調査官 称号 警視正(警察庁退官時)
衆議院議員12期
自民党時代
運輸大臣(橋本内閣)、
建設大臣(森内閣)、、
自民党政調会長 (森内閣、小渕内閣と二期 自民党重鎮)
自民党派閥 志帥会(亀井・村上派)会長
国民新党時代
内閣府特命担当大臣(金融担当)(鳩山内閣)
人物(エピソード)
高校時代(修道高校在学中)
修道高等学校2年生時に、通学定期券の購入に必要な通学証明の発行を学校が有料化したことに対して批判ビラを配る。
これが学校側の不興を買い学校を放逐される(強制退学)
大学時代(東京大学経済学部在学中)
アメリカの水爆実験反対を訴えるストライキが原因で退学となった友人を救うため、ハンガーストライキを決行する。
その後、1週間あまりでドクターストップとなったが、大学当局はその友人の退学を取り消した。
警察庁時代
埼玉県警捜査2課長時代、県内の居酒屋にいた亀井は近くの客がヤクザ風の男3人に絡まれているのを目にして、3人をたたきのめした。
店内は騒然とし、パトカーが出動した。
警察庁幹部の間では亀井を退官させるべしとの強硬論も強かったが、佐々淳行がかばったため亀井は退官せずにすんだ。
石原慎太郎と親友
青嵐会以来の親友といわれる石原慎太郎と、高速道路を走行中の車内で激しい言い争いとなり、怒った亀井が車から石原を引きずり出し路上に置いてけぼりにしたことがあるという。
亀井は「あいつ(石原)はわがまま過ぎる」と話していると言うが、
石原は「オレのような上品な人間には、亀井みたいな下品な人間がいた方が丁度いいんだ」と話している。
高校同窓生からみた亀井静香氏 下記URLより抜粋
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/557/
亀井君は、広島の修道高校2年の時、定期を買うための通学証明書発行の有料化に反発し、学校側に抗議するためビラ配りをして放校処分になりました。
修道高校を中退したのち、上京して、東京都立大泉高校の両角(もろずみ)校長先生の特別の温情があって、大泉高校に編入してきました。そこで私たちと同学年の一人になりました。
私は、このコラムでも以前紹介した、『気持ちよく働く ちょっとした極意』(日本経済新聞出版社)に書いているように※、
亀井君はとても優秀で、同学年450人のなかで、2~5番くらいの成績でした(私は200~250番くらいをうろついていました)。
とても頭がよく、そして大変な努力家でした。
政策
夫婦別姓制度 に反対
外国人参政権に反対している。国民新党も同様に反対
国民新党の亀井氏が都内で反対集会(2010年4月)外国人参政権
「日本滅ぼす」と主張
子供手当ては年収制限をするべき (700万円くらいとか?)
創価学会との対立
2007年2月13日の衆議院予算委員会で6年ぶりに(国民新党結党後初めて)質問に立ち「まさか自分が野党側で質疑応答するとは想定外でした」「(安倍首相に対し)小泉総理時代の思想はやめて自分なりの思想でやってはどうだ」「創価学会の名誉会長の池田大作との安倍総理の2者対談をしたのか?」など、安倍首相の姿勢や創価学会との関係について追及した。
死刑制度廃止論者
警察官僚としての経験から、誤認逮捕や冤罪は必ずや起きてしまうものとして、
「警察官に誤って無実の人を殺させるようなことがあってはならない」
郵政民営化への反対
防衛政策
若い頃は自由革新同友会(旧中川派)に所属していて、国家基本問題同志会の座長を務めるなど、タカ派のイメージが強い政治家の一人であるが、親米保守ではなく、イラクへの自衛隊派遣に反対している。
亀井自身は「タカ派か?ハト派か?」と訊かれたら「ハトを守るタカ」と答えている。
国家基本問題同志会の座長
国家基本問題同志会とは
1986年7月31日、自由民主党内で派閥横断的に結成されたタカ派の政策集団の名前。
1986年に起きた第二次歴史教科書問題や中曽根康弘首相が靖国神社の公式参拝を中止したことになどに反発して発足した。
座長 亀井静香
代表世話人 村上正邦・桜井新
幹事長 浦田勝
代表幹事 古賀誠
事務局長 平沼赳夫
自由革新同友会
自由革新同友会とは、
かつて自由民主党内に存在した政策集団。代表は中川一郎(後に石原慎太郎)で、通称中川派→石原派。
大型公共事業の見直し
政調会長に在任中は、公共事業の見直しを表明し、連日深夜に及ぶ議論の末、中海干拓事業などを含め2兆7000億円削減した。
生い立ち
広島県庄原市川北町(旧・比婆郡山内北村)で農業を営んでいた亀井素一・静恵夫妻の次男として生まれる。父は終戦まで山内北村の助役を務め、終戦後は県の嘱託として開墾事業に携わった。
広島市の修道中学校に入学。修道高等学校2年生時に、通学定期券の購入に必要な通学証明の発行を学校が有料化したことに対して批判ビラを配る。これが学校側の不興を買い学校を放逐される(強制退学)。
上京
自主退学後は東京大学法学部に進学していた実兄郁夫を頼りに上京し、東京都立日比谷高等学校・東京都立九段高等学校の編入試験を受けるが入学を許可されず、東京都立大泉高等学校に編入。好きになった女子に広島弁を笑われ振られて奮起、見返すため猛勉強し同校卒業後1956年、東京大学教養学部文科II類に入学。もし自分がハンサムなモテ男だったら、大学には進学していなかったと思うと話している。
駒場寮に入りキャバレーのボーイ(顔が接客業に不向きと言うことで、裏でおしぼりを作らされていたらしい)、家庭教師などのアルバイトをして学費、生活費を稼ぐ。学生時代は「マルクスの亀井」と呼ばれるほど、マルクス経済学に精通していた。また他校の合気道部の学生を糾合して「全日本学生合気道連盟」を結成、その初代委員長を務めた(なお副委員長は大平正芳の長男である)。段位は学生時代に三段を取得した。
またアメリカの水爆実験反対を訴えるストライキが原因で退学となった友人を救うため、ハンストを決行する。その後、1週間あまりでドクターストップとなったが、大学当局はその友人の退学を取り消した。
1960年、東京大学経済学部経済学科を卒業。大学時代はほとんど勉強しなかったため、就職試験にことごとく落ち、かろうじて大阪の別府科学工業(現住友精化)に入社。この頃ガンの宣告を受けるが後に誤診と判明。ちょうど60年安保闘争が起こった年で、テレビで国会周辺を取り巻くデモ隊の姿を見ていたら、警察がデモ隊に好きなようにやられていて「なんでこんなに弱いんだ。
よし、オレが警察に入って強くしてやる」とカーッとなって一年で会社を辞める。
猛勉強の結果、国家公務員採用上級(甲種・行政)試験に3番の成績で合格、警察官採用上級試験に7番の成績で合格。
警察庁
1962年、学士入学していた東京大学経済学部商業学科(現 経営学科)を卒業し、警察庁入庁。入庁同期に, 井上幸彦、鈴木邦芳、古川定昭(元関空専務、元中部管区警察局長)など。鹿児島県警察本部捜査第二課長、鳥取県警察本部警務部長、埼玉県警察本部捜査第二課長等を歴任。鹿児島時代には徳田虎雄と親しくなり、後に子息の徳田毅の媒酌人務めた。鳥取時代には鳥取県議であった日本社会党の野坂浩賢と親しくなる。
1972年、連合赤軍あさま山荘事件、成田空港事件、テルアビブ空港事件の捜査に初代の警備局極左事件統括責任者として参加。血なまぐさい事件の担当ばかりで家庭を顧みる余裕はなく、女房に逃げられ京浜急行に二度ほど飛び込もうと思ったこともある[7]。15年警察を続けたが、いくら警察で頑張っても所詮、社会の「ゴミ掃除だ」と。
社会のゴミを出さないようにするには政治家になるしかないと1977年、警察庁警備局理事官、長官官房調査官を経た後退官。政界を引退した永山忠則の地盤にて350万円の退職手当を元手に立候補準備を始める。