至上の印象派展
ビュールレ・コレクション
2018年2月14日~5月7日
国立新美術館
本展のメインビジュアルは、ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》。
過去2回来日経験がある。
1回目は、1990-91年のビュールレ・コレクションの国際巡回展、ワシントン・モントリオール・横浜・ロンドンの4都市を巡回。
2回目は、2010年のルノワール展。東京(国立新美術館)では出品されず、「見ルノ、知ルノ、感じルノ」で盛り上がった?大阪(国立国際美術館)のみの出品である。
そして今回の2018年が3回目。栄えある展覧会図録の表紙の座、1回目の横浜美術館ではプロモデルのイタリア人少年に取られてしまったが、今回、「絵画史上、最強の美少女(センター)」が見事に獲得。27年越しのリベンジである。
本作が制作された1880年当時のルノワール。
もっと絵が売りたい、高く売りたいとの思いから、1877年の第3回印象派展への参加を最後にグループの活動を離れ、サロンを主な活動場所として選ぶ。1878年、サロンに8年ぶりに出品し入選。翌1879年、肖像画4点を出品し大成功を収める。著名人をモデルにした肖像画制作に活路を見出したルノワール。仲介してもらった著名人の一人がカーン・ダンヴェール伯爵である。
裕福なユダヤ人銀行家ルイ・カーン・ダンヴェール伯爵(1837-1922)とルイーズ夫人(1845-1926)。
自分たちの肖像は、やっぱりレオン・ボナやカロリュス=デュランといった高名なアカデミズムの画家じゃないとねえ、2人の息子たちも幼いとはいえやっぱりなあ、でもまだ幼い娘たちならいいか。と3人の娘の肖像画をルノワールに描かせることとする。
最初に描かれたのは、長女イレーヌ。1872年生まれで当時8歳。本展出品作である。
半年以上たって、第2作、次女エリザベスと三女アリスとの二重肖像が描かれる。当時6歳と5歳。現在ブラジルのサンパウロ美術館が所蔵する作品である。
カーン・ダンヴェール夫妻は、ルノワールが描いた肖像画がどうやらお気に召さなかったらしい。
第1作と第2作の制作の間が半年以上も空いていること、第2作が当初予定の三女単独の肖像ではなく二重肖像となったこと、第2作の完成から1年を経ての支払いであったこと(ルノワールとしては金額自体も不満だったらしい)、1881年のサロンへの両作品出品時に伯爵家の名前は出されず「X嬢の肖像」と匿名扱いであったことなどから、夫妻のお気に召さない度が伺えるとされている。女中部屋に置きっ放し説もある(ただし、その典拠は無し)。
結局、カーン・ダンヴェール伯爵家のルノワール作品は、この2点と、もう1点、伯爵の弟の肖像の計3点限りとなったようである。
なお、伯爵の弟アルベール・カーン・ダンヴェールの肖像は、現在ポール・ゲッティ美術館が所蔵する。同美術館の所蔵前、個人蔵だった時代の1971-72年に東京・福岡・神戸の3都市を巡回したルノワール展にて来日したとある。東京会場は「西武ギャラリー」。当時西武美術館はまだ開館されていないので、西武百貨店の特設会場での開催ということであろうか。
さて、《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》の最初の所有者は注文主である夫妻だが、次の所有者は、モデルであるイレーヌ本人ではなく、イレーヌの娘ベアトリスであった。1900年頃に引き継がれたらしい。
イレーヌは、1891年、19歳のときに12歳年上の裕福なユダヤ人銀行家と結婚する。政略結婚であったらしい。1男1女に恵まれるが、1897年離婚する。どうやらイレーヌ側のカトリック改宗&不倫が原因らしい。子供の親権は夫側が取ったようだ。その後、その不倫相手であるイタリア人伯爵と再婚、1女をもうけるが、20年ほどで二度目の離婚をする。
本作が娘ベアトリスに引き継がれたとされる1900年頃は、ベアトリスはまだ6歳の計算となる。自分から離れていった母親の、自分と同じ歳の頃の肖像画を祖父母から譲られたということか。
イレーヌの息子ニッシムは、第一次世界大戦にて、フランス空軍のパイロットとして従軍し、1917年に撃墜死してしまう。25歳であった。
娘ベアトリスは、1918年にユダヤ人作曲家と結婚、1男1女をもうける。カトリックに改宗し、離婚する。ナチスによるフランス占領下の1943年、元夫からの再三の警告にもかかわらずパリに留まっていたベアトリスは、ついに元夫、子供たちとともにナチスに連行され強制収容所へ。一家全員命を落とす。
イレーヌの2人の妹も強制収容所に送られている。上の妹エリザベスは命を落とす。下の妹アリスは何とか生き延びる。
一方、知人宅に身を潜めていたイレーヌは、イタリア風の苗字と改宗もあってか、難を逃れている。
《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》は、1941年、ナチスによりベアトリスのもとから略奪される。ヘルマン・ゲーリングの個人所有となる。第二次世界大戦終結後、連合国により救出される。1946年、パリ・オランジュリー美術館で開催された「ドイツで発見されたフランスの個人所蔵コレクション傑作展」に出品される。それを知ったイレーヌは自己の相続権を主張する。娘ベアトリス一家は全員死亡しており、主張は認められ、絵はイレーヌに返還される。イレーヌは当時74歳。
返還されて3年後、1949年、絵は売却される。仲介者を経て、ビュールレ・コレクションに入る。
何処で似た話を聞いたことがある。映画になったクリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I》、返還されたその年のうちに、当時の絵画市場史上最高額で売却されたという話。
東京新聞の連載記事によると、二番目の夫との間の娘が、生活費を得るために絵を売り払った、イレーヌの愛情を受け奔放に育った娘は、派手な生活で資産を使い尽くした、ということとなる。あくまでも、その娘の娘(イレーヌの孫)の見解によるものである。
本人のこの絵に対する複雑な思いもあっただろうし、色々な圧力も多かっただろう。名画を個人で保有し続けることは極めて困難な事業であるのは確かである。
イレーヌは1963年に91歳で亡くなる。
✳︎本展図録掲載の深谷克典氏(名古屋市美術館副館長)の論文を多いに利用させてもらっています。