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メキシコへのまなざし
2025年2月1日〜5月11日
埼玉県立近代美術館
1950年代、日本の美術界は「メキシコ美術」に魅了される。
背景に、メキシコ美術の国際的な評価が高まっていたことがある。1950年の第25回ヴェネツィア・ビエンナーレにおけるメキシコ現代作家たちの紹介。1952〜53年にパリ・ストックホルム・ロンドンの3都市を巡回した大規模なメキシコ美術展の開催。ヨーロッパとは異なる美術表現とそのエネルギーが注目されたらしい。
日本でも、ヨーロッパでの評価を受け、メキシコ美術が紹介されるようになる。それだけでなく、ヨーロッパで開催された大規模なメキシコ美術展を日本にも巡回させようと考える。
そして実現したのが、1955〜56年に東京・大阪・岡山の3都市を巡回した「メキシコ美術展」。
メキシコ美術展
東京:東京国立博物館
1955年9月10日〜10月20日
大阪:大阪市立美術館
1955年11月10日〜12月20日
岡山:大原美術館、倉敷民藝館、倉敷考古館
1956年1月3日〜1月29日
「日墨文化協定成立記念」(1954年10月調印・1955年10月発効)として開催された本展は、ヨーロッパの展覧会をもとにして、古代、現代、民芸の3部構成で、出品点数が1,100点を超える超大型の展覧会。
第1部 古代美術 175点
紀元前1500年頃からスペインに征服される1521年までの約3000年の美術(マヤ文明、アステカ文明を含む)
第2部 現代美術 426点
スペイン植民地時代(1521-1821)の絵も取り上げられているが6点と極めて少なく、1821年の独立後の作品、とりわけ1910年の革命後の作品が多数。
第3部 民芸美術 581点
スペイン征服後(1521年)から現代まで伝わる民芸品
東京会場ディスプレイは建築家・丹下健三、図録のレイアウトは亀倉雄策、写真撮影は石元泰博、という顔ぶれから、主催者の力の入れようが伺える。
本展の第1章は、「メキシコ美術がやってきた!」。
1955年の「メキシコ美術展」第2部「現代美術」において、絵画がそれぞれ10点以上と別格の扱いで取り上げられたリベラ、オロスコ、シケイロス、タマヨの4名および18点の版画が出品された民衆版画家ボサダ、と20世紀メキシコ美術の巨匠たちが紹介される。
出品作のほとんどは、名古屋市美術館の所蔵。全点が1955年より前の制作。
1955年の「メキシコ美術展」の出品作と考えられているシケイロス《カウテモックの肖像》が含まれる。
あわせて、1923-36年にメキシコに滞在し美術家として活動していた。北川民次(1894-1989)の作品も展示。
1955-56年にメキシコ再訪のほか中南米・欧州を巡遊しているが、その際、1955年の春に開催される第3回日本国際美術展のため、メキシコ美術院への協力調整の任務を担う予定であったらしい(しかし、メキシコ美術院は既に動いている「メキシコ美術展」と同時となることに難色を示したため、北川の出番はなかった模様)。「メキシコ美術展」との関わりはないようだ。
本展の第2章は、「美術家たちのメキシコ - 5人の足跡から」。
メキシコ美術に魅了された日本の美術家のなかから、岡本太郎(1911-96)、福沢一郎(1898-1992)、芥川紗織(1924-66)、利根山光人(1921-94)、河原温(1932-2014)の5人が取り上げられる。
1955年の時点で既に美術家として世に出ている5人だが、「メキシコ美術展」との関わりはさまざま。
岡本と福沢は、「メキシコ美術展」の実行委員として名を連ねている。
岡本が実行委員として何を実行したのか確認していないが、芸術は大衆のためにあるべきという信念がメキシコ壁画と「共振」。旧東京都庁舎に7点(11面)の陶板壁画を制作。1963年と1967年にメキシコを訪問。現在渋谷駅に設置される大型壁画《明日の神話》は、メキシコシティのホテルのために制作されたもの。
福沢は、1952年5月〜54年5月、欧州・中南米を旅する。メキシコには1954年1〜5月に滞在。「メキシコ美術展」の東京開催をメキシコ政府へ申し入れる際の仲介も務め、現地での作品選定にも携わったという。帰国後もメキシコ美術の紹介に努めている。
一方、芥川、利根山、河原は、鑑賞者としての関わりであったようだ。
芥川は、ルフィーノ・タマヨの色彩に魅了され、また、国民的アイデンティティに関わるメキシコ壁画運動に共感する。取り組みはじめたばかりの神話シリーズは、やがて壁一面に展開する染色画の大作に発展する。
利根山は、ヨーロッパの美術動向の無批判な受容に疑問を抱く一方で、北川民次の作品を通じてメキシコに関心を抱いていたが、「メキシコ美術展」が決定打となる。1959年にメキシコを初訪問。以降日本とメキシコを行き来しつつ活動する。
河原は、「メキシコ美術展」を一歩引いて見たようだ。
「われわれにとってその意味が厖大であればあるほど、又魅力的であればあるほど、その度合に応じて一層、それらを単にエキゾチズムとして、又新しいものとして、盲目的に魅了されてしまうその危惧性を考慮しているにすぎない」。
1959年以降、海外を拠点として活動する河原だが、そのスタートは3年間のメキシコ滞在。その地を選んだのは父親の赴任先であり渡航しやすかったかららしい。メキシコ時代の活動はよく分からず、作品も残されていないという。
岡本太郎「メキシコ訪問時の撮影写真」6点、1967年、川崎市岡本太郎美術館
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福沢一郎《埋葬》1957年、東京国立近代美術館
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芥川紗織作品の展示風景
(右側の2点は、ルフィーノ・タマヨ作品)
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利根山光人《いしぶみ》1961年、東京国立近代美術館
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日本の多くの美術家に衝撃を与えた「メキシコ美術展」。
一般の反応は、と言えば。東京国立博物館員として本展を担当した嘉門安雄の著書『ヴィーナスの汗』によると。
どうしたことか、主催者の予想に反し、入場者がそれほど多くないのである。宣伝不足?・・・・・・とんでもない。思うように入らないから、主催の新聞はどんどん書きたてる。一向に効き目がない。それでは内容が貧弱?・・・・・・これまたとんでもない。ヨーロッパでの「メキシコ展」よりも、むしろ充実している。
会場を大阪に移しても、いわゆる盛り上りのないことは東京と同じであった。閑散とした会場を眺めて、ある人が「南国の仇花」と評した
実際の入場者数までは確認していないが、西洋美術展ほどには集客できなかったようだ。