今を遡ること112年前 つまり大正元年9月13日に元陸軍大将が自刃された その名を乃木希典(のぎまれすけ)
乃木将軍ちゅ~たら 旅順攻略の功労者 つまり203高地の戦いで有名である
日本帝國海軍がバルチック艦隊が日本近海に訪れる前に どうしても旅順を落とさないといけないちゅ~無理難題で多くの犠牲者を払った戦いでもある
当時の旅順は どんな大敵が攻めてきても3年は持ちこたえると ロシア軍が豪語していた旅順要塞
攻略戦で生じた死傷者の数およそ日本兵5万(そのうち乃木の息子2名含む)近代戦ならでは膨大な数であり 日本人にとってはそれまで未体験のもの
当然ながら乃木も衝撃を受け 甚大な損害を出したことに強烈な自責の念を抱いていた
明治39年(1906年)1月 帰国した乃木は明治天皇に復命する際
「かくの如き忠勇の将卒を以てして 旅順の攻城には半歳の長月日を要し 多大の犠牲を供し・・・・」
と読み進むうちに 責任の重さに男泣きに泣く 明治天皇は乃木の心中を思いやりながらも
「罪を償いたい」
という乃木の言葉に対して
「今は死ぬべき時ではない どうしてもとどうしてもというのであれば 朕が世を去った後にせよ」
という旨を伝えたといわれた
乃木神社
その後 日露戦争の英雄として 乃木は長野師範学校で講演を求められた すると乃木は演壇に登らず その場に立ったまま
「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」
と一言述べて絶句し滂沱の涙を流した
大正元年9月13日午後8時 明治天皇のご遺体を乗せた車が宮城を出発 合図の号砲が放たれると 乃木は自宅において 古式に則って切腹し
明治天皇のあとを追って自決 享年64歳 妻の静子もともに自刃
うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり 希典
出でまして 還ります日の なしときく 今日の御幸に 遭うぞかなしき 静子