気ちがい河馬さんの日記

精神病院に通院しつつ、障害年金ではとても食えないので、深夜に「ギャオ^スー」と雄叫びを発し河馬に変身し大和川の草食らう

強者どもが夢の跡=部落解放同盟の拠点=解放会館の解体現場

2014-07-24 23:02:02 | 風景
この町は10年ぐらい前まで法律で定めらた地区指定の町で、町の中心に大阪市立の解放会館のビルディングが立っていた。
解放会館内部には、大阪市の会館職員もいたが、解放同盟の支部事務所があって同和対策の特別行政措置の利権を暴力的糾弾闘争により、独占行使していた。
わずか850世帯ほどの小さな町に、何十億円もの特別行政サービス(税金)がつぎ込まれた。

 しまいには周辺地域から逆差別と疎まれるようになった。

河馬の立場は解放同盟の立場と異なっていた。「民以外はみな差別者だ」だとする解放同盟の考え方、と暴力的差別糾弾闘争は解放に逆行するものだとして河馬は反対した。

河馬はこの町(旧 地区)で結婚し、本籍、現住所ともこの町になった。この町で、仔河馬娘 と仔河馬長男を育てた。河馬夫婦は共働きだったので、この町の知り合い、親しいひとびとの協力者を得て子育てを行った。


しかし仔河馬娘が三歳の時、気ちがい河馬が解放同盟の方針に従わないと解放同盟の圧力の下、大阪市は仔河馬娘を保育所から放り出し、他の遠い保育所への措置換えをした。

 到底受け入れられる措置ではなく、事件は大阪市との裁判へと発展した。裁判は解放の国民的融合路線を掲げ、問題の解決を目指して闘っていた少数派ではあったが、全国解放運動会大阪府連の支援で行われた。裁判は3ヶ月で和解、政治的勝利で終わった。

仔河馬娘は元の保育所へ戻ることができた。3ヶ月間河馬の車で朝夕、全国解放運動連合会大阪府連が用意した仮保育所へいっしょに通い行き帰りの車の中で、思わぬ親子の対話ができた。
仔河馬娘は元の保育所へ戻って、爆発的に喋るようになった。
それまで保育所のお便りのなかで、言葉が遅い、遅れてると書き続けられていたので、仔河馬娘にとっては災い転じて福となる形となった。


仔河馬長男が小学校に入学するとまた問題があった。仔河馬長男の通学する小学校はまるで解放同盟立小学校のように、なっていて校長以下教員が解放同盟の暴力的糾弾と教育支配に屈していて、到底教育基本法の教育の政治からの独立、中立性の確保などの公教育の目的からほど遠いものであった。

 河馬は仔河馬長男のためにこの問題を解決しなければならなかった。
長男入学直後小学校の校長にすくなくとも係争中の裁判を解放同盟の側に立って、子どもたちに教えるのはやめてください。校舎の屋上に設置してある「石川青年は無実だ」と大書した大看板を取り払うように文書で申し入れた。

すると対応に出た校長は応接室で、さきに申し入れた文書を床に投げ捨て、こんなものは受けとれない。といった。

校長の人をあまりにも馬鹿にした。無作法な態度に気ちがい河馬は、ひととおりの抗議をした。あなたはそれでも子どもたちに人権を教える教員の指導者かと。
 これではだめだと思い、共産党の地元選出の国会議員正森成二氏に2目目学校への申し入れに同行してもらった。

校長は国会議員の前で、濡れたどぶネズミのように縮こまり、正森議員の「私に与えられた国政調査権を発動します。」との宣言に一言も答えられず。こんどは申し入れ書を受け取った。

それから間もなく解放同盟の運動スローガンを校舎の上に掲げた大看板は撤去された。
仔河馬長男が長じてから小学校の教員はどうだったと聞いたところ「あの小学校は良かった。」と言ったので、河馬は小学校を掃除しておいてよかったとおもった。

女神:をや様

2014-07-22 23:48:54 | 風景


気ちがい河馬の作品。10数年前気ちがい河馬がクレーン車の運転士を病気退職した直後浅香山病院OT室で制作。浅香山病院の廊下の壁に飾ってある。河馬は病院に対し絵画テロを敢行した。誰も気付いていないか、無視されている。


河馬の属する教団では不文律ではあるが、偶像崇拝はあまり勧められていない。それでは河馬は寂しいとと考え をや様をイメージしてこれを描いた。
浅香山病院の某所の廊下の壁に飾ってある。病院に対し絵画テロを敢行した。

我が教団で 唯一神聖なものは教祖中山みきが、神の力を借りて書いたお筆先と呼ばれる聖書であり、信者皆が神聖視して拝んでいるものは 雛形甘露(ひながたかんろうだい)六角の断面をもつ三メートルばかりの木製の柱の上に木製の鉢をを置いたものである。
ひながたは何処まで行ってもひながた(模型)であり、聖なるものか疑問が残る。

 だから、仏教の仏像や、神道の鏡のような正面から、拝跪(はいき)する対象ではない。
ひながたかんろうだい は、四方正面と言って四方から拝んでいる。丁度人間(神の子ども)たちが向かい会って拝み合う形となる。

 気ちがい河馬の所属する教団での師匠は、かんろうだいの側で、河馬に一言、かんろうだいを指し「ひながたや!」と吐き気捨てるように言った。

本物の甘露台(かんろうだい)の建設がなった時、初めて神人和楽の理想世界ができる。
それは遥かに遠い。

信者みなが、崇拝するかんろうだいを、ひながたやと言い切った河馬の師匠は本物の布教者と思った。

それは誰にでも言える、言葉ではない。

我が師匠の、いち布教者は、ある有名な話しと似ている。
 コメディアン・植木等、の父親は寺のおっさん(寺の檀家を預かる坊さん=住職)で、気ちがい河馬の祖地三重県渡会郡四郷村字朝熊、の近辺で戦前に農民運動や社会運動に手を染め、近郷近在から尊敬された坊主だった。
 しかし、我が息子、植木等だけには親子二人っきりの時、寺の仏像を、着物を作る時使うクジラ尺の目盛りの付いたサシで、ピシャッ、ピシャッ叩いてこんなものは仏教とはなんの関係も無い、化体のものだとして幼い植木等に仏教の本質を教えたそうな。

我が師匠の布教師も一刀両断の下に我が教団の教義の虚構性を気ちがい河馬に教えてくれた。

 が、その布教師は最も教条的に教会では思われ、祭りの際の形式美、儀式の一挙一投足に教条的に厳しいしうるさい。

河馬からすればニ律背反も甚だしい。矛盾している。

しかし、その布教師は毎月東南アジアの諸国に出かけ、言葉も知らない国々で布教の実を挙げている。


また、ある大教会の幹部と詰所で(大教会詰所、寺の宿坊のようなもの)親しくなった。
 彼はは実にアッサリと「お前は共産党か、と河馬の身元調査をどこでしたのか不明だが初対面で尋ねかた。うちの教会の会長にもそんなあほおるわ、とこともなげににいった。
 そして、教会ではあほになれ。あほになれ。と簡単に言うが、なんの間違いか、人間は「をや(親神)」が作ったものであるにも関わらず、そう簡単にあほにはなれるものでは無い、三歳児にして、もうすでにずる賢い。人は皆、ずる賢く生まれれついとる。
 これを直し、泥まみれの布教をするのは至難の技や、我々は世間の常識とまるで反対の教えを布教しなければ為らん。」と言う、この人も通り一辺のことを言う人ではなかった。 教会で、教えられた事とまるで反対の事を言う。

気ちがい河馬は信仰の初め、教団本部の中学校程度の、学校に半強制的に行かされたが、金が15万円ちょっといるから、嫌だと断った。
 学校は授業料は無かった。只である。ただし、3ヶ月間食べて、住み込む居住する費用が、要るとのことだった。

そう考えると高くは無い。

 1ヶ月あたり五万円だから、大阪でただ住んでいるだけで5万円は要る。とても5万円では1ヶ月生活できない。

しかし河馬には絶対的にお金がなかった。

 その直前、躁病で、駅前の値段のついていない寿司屋で、開店から看板まで飲み、かつ食って、40日間ほど通いつめ、3ヶ月分の生活費を使い果たして、もう生きては行け無いと、自殺も考えて、浅香山病院相談室の柏木一恵心理ケースワーカーに相談に行っていた。

柏木PSWは実に簡単に、「自殺ははた迷惑です。1日500円有ったら生きて行けます。あなたの信仰でも自殺はいけない事でしょう。陽気ぐらしは500円でできます。」と自殺願望は一言で蹴飛ばされた。

そんなわけで気ちがい河馬はその時、絶体的にお金がなかった。

師匠は金が無いなら河馬の父河馬に出してもらえないか相談に行け。と言ったので行って頼んで見た。
河馬家は祖父母の代から我が教団に属している。三代教会にお尽くししている。一言に祖父母から三代と言うけれど、たかが三代されど三代百五十年近くになる。
だから父河馬は言った。「事故で片手しかなかった祖母ハナは70歳の高齢の時、教団の中学校みたいな学校に御本部 で3ヶ月勉強し、正式の信者になった。 おばあちゃんハナは自分の小遣いを貯めて行った。金の15万ぐらいなくはないが、自分で段取りするのが筋や、本当に無かったら教会に凭れ。」と言った。

さすが若い時分から教会の事を知っている父河馬はキィワードを知っている。
そんなわけで小遣い一万円ほど持って教団の中学校みたいな学校に教会に凭れて、3ヶ月勉強に行った。

主治医稲谷Dr.にも相談したら、反対された。河馬の今の状態が3ヶ月続く訳はなく、危険だ。第一薬が手に入るか?と尋ねられた。
薬は手に入ります。教団設立の大病院があり、そこに精神科もあります。と答えたら、処方箋と紹介状をかいてくれた。

教団の中学校みたいな学校で勉強している時、御本部で大事件が起きた。

雛型かんろうだいが、ある不届きな信者によって結界を破られ、かんろうだいをぶっ倒してしまった。

御本部役員などは三日三晩にわたる、お詫び勤めをし、汚されたかんろうだいを新しく建て直すのに大わらわだったらしい。その事件の事について正式な発表は一切なかった。

犯人の所属する大教会はお詫びに本部に対して一億円のお詫びとお許しのお供えをしたと言うような噂話も流れた。本部周辺はその事件のうわさ話で持ちきりだった。
気ちがい河馬は、雛型かんろうだいがぶっ倒されようと、どうと言う事無いと思って全く無関心だった。
御本部での3ヶ月の生活は気ちがい河馬の心に癒しと、安らぎを与えるものであった。

しかし3ヶ月目、河馬はひどい鬱状態に落ち込み、本部設立の病院の精神科を受診した。
御本部設立病院の医者は河馬に1日も早く家に帰って、あなたの主治医の診察を受けなさい、と勧めた。学校には、またいつでも来れるからと言い、これから御本部は夏に向かって恒例行事で騒がしくなるからと、つけ加えた。
御本部の学校生活は竜頭蛇尾に終わった。

成績は散々だった。

教会に凭れて、つまり借金してかろうじて卒業した。

教会への負債は障害年金を毎月一万円づつ貯めて、一年半後に親会長、会長婦人に返した。

師匠の親会長は大変よろこんでくれ、胸つかえがおりた。


(この稿続く)

河馬の確信的妄想ー八尾陸上自衛隊のヘリコプターが・・・。

2014-07-21 12:55:42 | 風景
確信的妄想

河馬の頭上に ヘリコプターがいつも舞っているという考えがどうしても離れない。
 マンションにいても、病院行っても、そいつは追いかけて来る。自衛隊のヘリコプターのローターの風切り音は、他ヘリコプターの音と明らかに違う。

いつの間にか爆音を聞くと空を見上げる癖が付いてしまった。空を見上げると、いつもそいつはいる。ああぁ 悲しい。

一種の追跡妄想だと客観的には思う。
 しかし気ちがい河馬の携帯の電波が自衛隊に捉えられ、演習標的にされているのではないか。 と妄想を逞しくする。

ある時なんぞは、駅前の中華料理料理店で、餃子を当てにビールを飲んでいる時、そいつは来た。夜間遅くであった。爆音ですぐそれとわかる。

気ちがい河馬は切れた。

104で八尾陸上自衛隊基地の電話番号を調べ、すぐさま中華料理店から電話をかけた。

まず受付がでた。さすがに自衛隊だ。夜9時過ぎだったが電話は繋がった。
河馬の住所と名前を名乗り「お前とこ、夜間なのに、大阪市内、大和川沿いにヘリコプター飛ばしているやろ。止めろ」

と怒鳴りつけた。電話は直ぐに切り替えられ、上級に繋がり、河馬は又同じく怒鳴り、電話は、また直ぐ切り替えられた。
 今度は向こうが階級を述べ、今度はゆっくり話した。
 毎日、毎日、自衛隊のヘリコプターが、河馬の団地の上を編隊を組んで、低空飛行飛行機している。

うるさくて、かなわない、病院へ行っても、お前とこのヘリコプターの編隊が、病院の上を飛ぶ。

許せない。と言った。

その上級者は病院の地名と河馬の団地の地名を聴いた。
「あぁ、浅香山ポイントですね」こともなげに言った。
 河馬は飛行コースを変えろ」と言った。
変えられません。と答えた。
気ちがい河馬は相手冷静な対応にさらに腹立って、切れまくり、中華料理屋のなかで、さらに怒鳴り続けた。


ついに河馬は「飛行コースを変えないなら、うち団地の屋上に、架台(がだい)を据えて、架台の上に機関銃を据えてヘリコプターを撃ち落とすぞ、と自衛隊に対するテロを宣言した。
 出来もしないことを言って又怒鳴りつけた。

すると突然電話が切り替えられ、八尾陸上自衛隊の当直司令官が電話にでてゆっくりと「河馬さん、我々は八尾航空管制司令塔の司令で空路を飛んでいます。」 空路を設定するのは我々ではありません。航空局です。

河馬はこれ以上言っても無駄だと観念し、電話を置いた。


八尾陸上自衛隊は毎朝毎晩、ヘリコプターの編隊を組んで八尾基地から和泉にある信太山演習場まで低空飛行で演習を繰り返している。

八尾飛行場から真っ直ぐ西へ大和川沿いに飛んで、河馬団地の上を通過、この付近で進路を南へ転換し、浅香山病院の上空を飛んで信太山に向かう。

当直司令の話では、空局管制塔の指示で、飛んでいるのだから、自衛隊に文句を言っても始まらない。
八尾飛行場は一般飛行場だ。自衛隊専用ではない。航空局相手なら、東京まで行かねばならない。東京へ行くのは諦めた。

河馬の被追跡妄想はやむこと無い。いや関連妄想かも。



しかし、陸上自衛隊八尾基地の対応は、さすがに軍隊だ、対応が速い。受付から当直司令官まで電話が切り替えられ繋がるのがわずか五分であった。

大阪市なら一市民が課長席の電話に繋げるまで半年はかかる。


店に迷惑かけたと思い、謝り金払って出ようとしたら、店の兄ちゃんが、おっちゃん凄いね。もし市会議員に立候補したら、一票入れるよと誉めてくれた。

みんな、自衛隊のヘリコプターの爆音に困ってるんだと思った。
たまには怒らなくては、日本人はおとなし過ぎ、事無かれ主義だ。

1ヶ月ぶりに駅前のパチンコ屋へ行って500円だけ、勝った。

2014-07-20 16:25:02 | 風景
パチンコは止めたつもり だったが、朝からビール一本だけ飲んだ。
 今日は日曜日だ、酒も1ヶ月ほど飲んでいない、空きっ腹にビールは良く回った。

たちまち理性が吹き飛び、2千円だけ持って出さないことで定評のある駅前のパチンコ屋に行った。

 近所おじいちゃんや、おばあちゃんの遊び場だ。


河馬は1500円まで負けて、今日も玉砕と思われた時、やっとかかった。
打った台はかの有名な「海物語」だ。

掛かるまでマリンちゃんが4度まで出現したにもかかわらず掛からず、「ゴメンナサイ」と言って沈んだ

 気ちがい河馬は今度ゴメナサイと言って沈んだら、殺すぞ!とパチンコ台を叩いて、大声で叫んだ。

隣の台を打っているオバチャンは粛々と打って3箱出していた。
 隣のオバチャンは気ちがい河馬を横目でみながら笑っていた。

魚群が走った、チャンスだ。 珊瑚の山も出てきた。絶対掛かったと思って手打って喜んだが、珊瑚礁が沈んで外れだった。
馬鹿河馬は、また、台を叩いて怒った

チクショー、ありとあらゆる罵詈雑言を叫んだ。

もう後が無い。
諦めかけた頃、またマリンちゃんが出てきて微笑み、五回目でやっと大当たりした。

溜飲が降りた。
しかしこのままではマイナスだった。


頑張って二箱は出さないと元が取れない。


それから5連チャンほど続いた。

やっと元取った。あまりに叫び、台叩いて疲れてしまった。

もう根(こん)が続かない。諦めて止めた。 トントンかと思ったが、500円勝った。

勝った500円で、前のお好み焼き屋で焼酎の水割を一杯飲んで帰宅した

本日これまで、馬鹿は死ななないとなおらない。

浅香山病院管理課の安全意識

2014-07-19 17:22:27 | 風景
写真は10年ほど前浅香山患者会長河馬が指摘して浅香山病院法人本部管理課長に指摘して付けさせた:頭上注意:の看板と柔である。

神谷(かみや)課長を現場へ同行させて、「ここは西病棟の患者や、サロン、ディケアの患者が通り、このA館の非常階段の出っぱりは1.5メートルぐらいしか無いからみんなが、頭打つ可能性があって危険だからなんとかして。」と頼んだ。

そしたら神谷課長は、ここはA館のひさしの下で通路ではありません。

 と、ぬけぬけと今、眼前を患者たちが通っているにも関わらず、言った。

僕の目からすれば、病院前にある。ABC薬局(全国チェーンの大会社)比べたら豆粒のような浅香山病院の課長ごときが嘗めやがって、何ぬかすか、このコンチキチンがと即、切れた。

それならこっち、来いよ、とまた別の場所を見せて、「薬飲んでフラフラ歩く人もおる。
そこは鉄骨がむき出しになっている別の非常階段で高さがちょうど人の顔ぐらいの場所である。
気ちがい河馬は叫んだ。建物のひさしの下の通路でないと言うなら、バリケードでも立て、通行止めにしたらいい。
1日何百人と、患者その他のひとが通っている現実を無視して、ひさしの下だから、通路でない無いなどとよく馬鹿げたことを言ったものだ。

河馬は怒り心頭に発し、突き出ている鉄骨を叩いて、頭上注意の看板と柔らかなもので防護しろ!と大声をだした。
はっきり言えば怒鳴りつけた。
それぐらいしないと現実への対応が出来ないのが浅香山病院法人本部の管理課です。

情けない・・・。