『庄太郎が女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て…』
庄太郎は水菓子屋で会った女に崖に連れて行かれ「ここから飛び降りろ」と言われる。
拒否した庄太郎に,何万という豚が襲いかかる。
「庄太郎は必死の勇をふるって,
豚の鼻頭を七日(なのか)六晩叩(むばんたた)いた。けれども,
とうとう精根が尽きて,手が蒟蒻(こんにゃく)のように弱って,
しまいに豚に舐(な)められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。」
これは,「悪魔」の問題です。
豚と絶壁の話を読むと,キリスト者は聖書の中の
イエス・キリストの出来事を思い出します。
豚はイエス・キリストの生きたイスラエルでは,
汚れた動物とみなされていました。
この男は悪霊の支配に入り,
この男に救いはありませんでした。
夏目漱石は夢というかたちで書きました。
本当に夢を見たのでしょうか。
夢の中の正太郎は漱石本人だったのでしょうか。
○
(マタイ8:28-34)
「それから,
向こう岸のガダラ人の地にお着きになると,
悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て,
イエスに出会った。
彼らはひどく狂暴で,
だれもその道を通れないほどであった。
すると,見よ,
彼らはわめいて言った。
「神の子よ。
いったい私たちに何をしようというのです。
まだその時ではないのに,
もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
ところで,そこからずっと離れた所に,
たくさんの豚の群れが飼ってあった。
それで,悪霊どもはイエスに願ってこう言った。
「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら,
どうか豚の群れの中にやってください。」
イエスは彼らに「行け。」と言われた。
すると,彼らは出て行って豚にはいった。
すると,見よ,
その群れ全体が
どっとがけから湖へ駆け降りて行って,
水におぼれて死んだ。
飼っていた者たちは逃げ出して町に行き,
悪霊につかれた人たちのことなどを
残らず知らせた。
すると,見よ,
町中の者がイエスに会いに出て来た。
そして,イエスに会うと,
どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。
夏目漱石 作
「夢十夜」 第十夜 青空文庫から
庄太郎が女に攫(さら)われてから七日目の晩にふらりと帰って来て,
急に熱が出てどっと,床に就(つ)いていると云って健(けん)さんが知らせに来た。
庄太郎は町内一の好男子(こうだんし)で,至極(しごく)善良な正直者である。
ただ一つの道楽がある。
パナマの帽子を被(かぶ)って,
夕方になると水菓子屋(みずがしや)の店先へ腰をかけて,
往来(おうらい)の女の顔を眺めている。
そうしてしきりに感心している。
そのほかにはこれと云うほどの特色もない。
あまり女が通らない時は,往来を見ないで水菓子を見ている。
水菓子にはいろいろある。
水蜜桃(すいみつとう)や,林檎(りんご)や,枇杷(びわ)や,
バナナを綺麗(きれい)に籠(かご)に盛って,
すぐ見舞物(みやげもの)に持って行けるように二列に並べてある。
庄太郎はこの籠を見ては綺麗(きれい)だと云っている。
商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。
そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。
この色がいいと云って,夏蜜柑(なつみかん)などを品評する事もある。
けれども,かつて銭(ぜに)を出して水菓子を買った事がない。
ただでは無論食わない。色ばかり賞(ほ)めている。
ある夕方一人の女が,不意に店先に立った。
身分のある人と見えて立派な服装をしている。
その着物の色がひどく庄太郎の気に入った。
その上庄太郎は大変女の顔に感心してしまった。
そこで大事なパナマの帽子を脱(と)って丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)をしたら,
女は籠詰(かごづめ)の一番大きいのを指(さ)して,
これを下さいと云うんで,庄太郎はすぐその籠を取って渡した。
すると女はそれをちょっと提(さ)げて見て,大変重い事と云った。
庄太郎は元来閑人(ひまじん)の上に,すこぶる気作(きさく)な男だから,
ではお宅まで持って参りましょうと云って,女といっしょに水菓子屋を出た。
それぎり帰って来なかった。
いかな庄太郎でも,あんまり呑気(のんき)過ぎる。
只事(ただごと)じゃ無かろうと云って,親類や友達が騒ぎ出していると,
七日目の晩になって,ふらりと帰って来た。
そこで大勢寄ってたかって,庄さんどこへ行っていたんだいと聞くと,
庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。
何でもよほど長い電車に違いない。
庄太郎の云うところによると,電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。
非常に広い原で,どこを見廻しても青い草ばかり生(は)えていた。
女といっしょに草の上を歩いて行くと,
急に絶壁(きりぎし)の天辺(てっぺん)へ出た。
その時女が庄太郎に,ここから飛び込んで御覧なさいと云った。
底を覗(のぞ)いて見ると,切岸(きりぎし)は見えるが底は見えない。
庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。
すると女が,もし思い切って飛び込まなければ,
豚(ぶた)に舐(な)められますが好うござんすかと聞いた。
庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌(だいきらい)だった。
けれども命には易(か)えられないと思って,
やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。
庄太郎は仕方なしに,持っていた細い檳榔樹(びんろうじゅ)の洋杖(ステッキ)で,
豚の鼻頭(はなづら)を打(ぶ)った。
豚はぐうと云いながら,ころりと引(ひ)っ繰(く)り返(かえ)って,
絶壁の下へ落ちて行った。
庄太郎はほっと一(ひ)と息接(いきつ)いでいると
また一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦(す)りつけに来た。
庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。
豚はぐうと鳴いてまた真逆様(まっさかさま)に穴の底へ転(ころ)げ込んだ。
するとまた一匹あらわれた。
この時庄太郎はふと気がついて,向うを見ると,
遥(はるか)の青草原の尽きる辺(あたり)から幾万匹か数え切れぬ豚が,
群(むれ)をなして一直線に,
この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸(めが)けて鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は心(しん)から恐縮した。
けれども仕方がないから,近寄ってくる豚の鼻頭を,
一つ一つ丁寧(ていねい)に檳榔樹の洋杖で打っていた。
不思議な事に洋杖が鼻へ触(さわ)りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。
覗(のぞ)いて見ると底の見えない絶壁を,
逆(さか)さになった豚が行列して落ちて行く。
自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと,
庄太郎は我ながら怖(こわ)くなった。
けれども豚は続々くる。
黒雲に足が生(は)えて,
青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵(むじんぞう)に鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は必死の勇をふるって,
豚の鼻頭を七日(なのか)六晩叩(むばんたた)いた。
けれども,とうとう精根が尽きて,手が蒟蒻(こんにゃく)のように弱って,
しまいに豚に舐(な)められてしまった。
そうして絶壁の上へ倒れた。
健さんは,庄太郎の話をここまでして,
だからあんまり女を見るのは善(よ)くないよと云った。
自分ももっともだと思った。
けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
庄太郎は助かるまい。
パナマは健さんのものだろう。
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