見出し画像

朝の光(聖書の言葉)

130 聖書の言葉 イエスの降誕 (ヨハネ1:5)ほか  B   2024-02-03

イエスの降誕

(ヨハネ1:5)

「光はやみの中に輝いている。
そして,
やみはこれに勝たなかった。」


イエスの言葉は

暗闇に輝いています。


この光は,

神の子である

イエス・キリストのことです。


イエスは世の光です。

イザヤは,

次のように預言しています。


(イザヤ60:1-3)口語訳

「起きよ,光を放て。
あなたの光が臨み,
主の栄光が
あなたの上にのぼったから。
見よ,暗きは地をおおい,
やみはもろもろの民をおおう。
しかし,
あなたの上には
主が朝日のごとくのぼられ,
主の栄光が
あなたの上にあらわれる。
もろもろの国は,
あなたの光に来,
もろもろの王は,
のぼるあなたの輝きに来る。」





インマヌエル


(マタイ1:23) 

「『見よ,処女がみごもっている。
そして男の子を産む。
その名は
インマヌエルと呼ばれる。』
(訳すと,
神は私たちとともにおられる,
という意味である。)」


イエス・キリストの降誕によって,

主が私たちと共にいてくださる

ということになります。






イエスの生涯



洗礼


(マタイ3:16) 新共同訳

「イエスは洗礼を受けると,
すぐ水の中から上がられた。
そのとき,
天がイエスに向かって開いた。
イエスは,
神の霊が鳩のように御自分の上に
降って来るのを御覧になった。
そのとき,
『これはわたしの愛する子,
わたしの心に適う者』
と言う声が,天から聞こえた。」



イエスも洗礼を受けました。

洗礼は信仰を公にするものです。


私たちも同じように神は

「これはわたしの愛する子,

わたしの心に適う者」

と天から声を

かけてくださっています。


出エジプト記の紅海の渡航は,

このバプテスマを現したものだと

パウロは言います。



(1コリント10:1-4)

新共同訳

「兄弟たち,
次のことは
ぜひ知っておいてほしい。
わたしたちの先祖は皆,
雲の下におり,皆,海を通り抜け,
皆,雲の中,海の中で,
モーセに属するものとなる
洗礼を授けられ,
皆,同じ霊的な食物を食べ,
皆が同じ霊的な
飲み物を飲みました。
彼らが飲んだのは,
自分たちに離れずについて来た
霊的な岩からでしたが,
この岩こそ
キリストだったのです。」



(ローマ6:4)

「すなわち,わたしたちは,
その死にあずかる
バプテスマによって,
彼と共に葬られたのである。
それは,
キリストが父の栄光によって,
死人の中から
よみがえらされたように,
わたしたちもまた,
新しいいのちに
生きるためである。」





イエスの生涯


イエスによる神の愛は.

山を越え時代を超えて,

わたしたちに及んでいます。


ガリラヤでの宣教


(マタイ4:12-17) 

口語訳

「さて,
イエスはヨハネが
捕えられたと聞いて,
ガリラヤへ退かれた。
そしてナザレを去り,
ゼブルンとナフタリとの地方にある
海べの町カペナウムに
行って住まわれた。
これは預言者イザヤによって
言われた言が,
成就するためである。
『ゼブルンの地,ナフタリの地,
海に沿う地方,
ヨルダンの向こうの地,
異邦人のガリラヤ,
暗黒の中に住んでいる民は
大いなる光を見,
死の地,
死の陰に住んでいる人々に,
光がのぼった』。
この時から
イエスは教を宣べはじめて
言われた,
「悔い改めよ,天国は近づいた」。


旧約聖書のイザヤは,

異邦人が住み,

田舎の町であるガリラヤで,

福音が宣べられることの

預言をしていました。



(イザヤ9:1)

「しかし,苦しみにあった地にも,
やみがなくなる。
さきにはゼブルンの地,
ナフタリの地に
はずかしめを与えられたが,
後には海に至る道,
ヨルダンの向こうの地,
異邦人のガリラヤに
光栄を与えられる。」



こののち,

イエスは山に登り説教をされます。


イエス・キリストは

苦しみの続く生涯でした。


このころはおだやかな時であり,

「ガリラヤの春」

とよばれることがあります。





心の貧しい人


(マタイ5:3 新共同訳)

「心の貧しい人々は,幸いである,
天の国は
その人たちのものである。」


天国には,貧しい人であり,

へりくだり,弱い人が入ります。

イエス御自身,

弱い人を助けました。


私たちもへりくだり,

心が貧しいことを認め,

悔い改め,

イエスへの信仰を持つなら,

天国に入れるのです。



イエスは,

次のようにも話しています。


(マタイ18:3) 新改訳

「まことに,
あなたがたに告げます。
あなたがたも悔い改めて
子どもたちのようにならない限り,
決して天の御国には,
入れません。」


☆彡


(マタイ18:1-5 新改訳)

そのとき,
弟子たちが
イエスのところに来て言った。
「それでは,天の御国では,
だれが一番偉いのでしょうか。」
そこで,
イエスは小さい子どもを呼び寄せ,
彼らの真ん中に立たせて,
言われた。
「まことに,
あなたがたに告げます。
あなたがたも悔い改めて
子どもたちのようにならない限り,
決して天の御国には,入れません。
だから,この子どものように,
自分を低くする者が,
天の御国で一番偉い人です。
また,だれでも,
このような子どものひとりを,
わたしの名のゆえに
受け入れる者は,
わたしを受け入れるのです。





敵を愛する

(マタイ5:44) 口語訳)

「わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し,
迫害する者のために祈れ。」


(マタイ5:43-45口語訳)

「『隣り人を愛し,敵を憎め』
と言われていたことは,
あなたがたの
聞いているところである。
しかし,
わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し,
迫害する者のために祈れ。
こうして,
天にいますあなたがたの
父の子となるためである。
天の父は,
悪い者の上にも良い者の上にも,
太陽をのぼらせ,
正しい者にも正しくない者にも,
雨を降らして下さるからである。」


旧約聖書に教えられている戒めは

素晴らしいものです。

しかし,イエスの教えは,

はるかに素晴らしいものです。


イエスの教えは,

神を信じること隣人を愛することに

要約できます。




黄金律


(マタイ7:12) 新共同訳

「人にしてもらいたいと
思うことは何でも,
あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。」


私たちが人に接するとき,

この言葉を

思い出すべきなのでしょう。


イエスのこの言葉は

「黄金律」と

呼ばれることがあります。



孔子の言葉を思い出します。

「己の欲せざる所は

人に為す勿れ。」

(論語)


自分がされて嫌なことを

人にしないというのは

人間関係の基本です。


それにも関わらず

多くの人がこれを犯すのは,


「恕」(思いやり)の心を

欠いているからだと言います。


キリストのおしえは,積極的です。

論語よりはるかに

素晴らしい生き方です。




狭い門からはいれ


(マタイ7:13,14) 口語訳

「狭い門からはいれ。
滅びにいたる門は大きく,
その道は広い。
そして,
そこからはいって行く者が多い。
命にいたる門は狭く,
その道は細い。
そして,
それを見いだす者が少ない。」


イエスの「山上の説教」の中の

言葉です。

わたしたちは,

「狭い門から入る」ことが

困難だとわかります。

わたしたちは楽な道を

広い門を選ぼうとします。


狭い道とは,

神を第一とする生き方であり,

広い道とは

この世の喜びを

追い求める生き方でしょう。


私たちは神の言葉の実行な困難な.

罪人であることがわかります。


この狭い門は,

イエスの別の言葉では,

つぎのようにいわれます。


(マタイ6:33a 口語訳)

「神の国と神の義とを

求めなさい。」




新しく生きる


(ヨハネ3:3)

「はっきり言っておく。
人は,新たに生まれなければ,
神の国を見ることはできない。」


わたしたちは,

新しい人生を歩みたい,

神は,わたしたちに新しい命を

与えてくださいます。



(ローマ6:4) 新共同訳

「わたしたちは
洗礼によって
キリストと共に葬られ,
その死に
あずかるものとなりました。
それは,
キリストが御父の栄光によって
死者の中から
復活させられたように,
わたしたちも
新しい命に生きるためなのです。」


(1ペテロ1:23)

「あなたがたが新たに生れたのは,
朽ちる種からではなく,
朽ちない種から,
すなわち,
神の変ることのない
生ける御言によったのである。」



(ヨハネ3:3-5) 新共同訳

「イエスは答えて言われた。
『はっきり言っておく。
人は,新たに生まれなければ,
神の国を見ることはできない。』
ニコデモは言った。
『年をとった者が,
どうして生まれることが
できましょう。
もう一度母親の胎内に入って
生まれることが
できるでしょうか。」
イエスはお答えになった。
『はっきり言っておく。
だれでも水と霊とによって
生まれなければ,
神の国に入ることはできない。』」








ぶどうの木のたとえ

(ヨハネ15:5) 新共同訳

「わたしはぶどうの木,
あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており,
わたしも
その人につながっていれば,
その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては,
あなたがたは
何もできないからである。」


イエスが弟子たちに話された

私たちは,

イエスを信じることによって,

イエスと一つにされている。




イエスは,

このぶどうの木のたとえの中で

次のような話されています。

イエスはわたしたちの友となって

下さいました。

わたしたちも隣人の友となりたい。

私たちが,隣人を愛するとき,

イエスの友となり,

救いの業は広がっていくでしょう。


(ヨハネ15:12,13)

「わたしが
あなたがたを愛したように,
互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること,
これ以上に大きな愛はない。」


☆彡


イエスはまことのぶどうの木

(ヨハネ15:1-17)新共同訳

「わたしはまことのぶどうの木,
わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら,
実を結ばない枝はみな,
父が取り除かれる。
しかし,実を結ぶものはみな,
いよいよ豊かに
実を結ぶように手入れをなさる。
わたしの話した言葉によって,
あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。
わたしもあなたがたに
つながっている。
ぶどうの枝が,
木につながっていなければ,
自分では実を結ぶことが
できないように,
あなたがたも,
わたしにつながっていなければ,
実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木,
あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており,
わたしもその人につながっていれば,
その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては,
あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば,
枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして,集められ,
火に投げ入れられて焼かれてしまう。
あなたがたがわたしにつながっており,
わたしの言葉が
あなたがたの内にいつもあるならば,
望むものを何でも願いなさい。
そうすればかなえられる。
あなたがたが豊かに実を結び,
わたしの弟子となるなら,
それによって,
わたしの父は栄光をお受けになる。
父がわたしを愛されたように,
わたしもあなたがたを愛してきた。
わたしの愛にとどまりなさい。
わたしが父の掟を守り,
その愛にとどまっているように,
あなたがたも,
わたしの掟を守るなら,
わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは,
わたしの喜びがあなたがたの内にあり,
あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように,
互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること,
これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば,
あなたがたはわたしの友である。
もはや,
わたしはあなたがたを
僕とは呼ばない。
僕は主人が何をしているか
知らないからである。
わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
父から聞いたことをすべて
あなたがたに知らせたからである。
あなたがたが
わたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが
出かけて行って実を結び,
その実が残るようにと,
また,
わたしの名によって
父に願うものは
何でも与えられるようにと,
わたしが
あなたがたを任命したのである。
互いに愛し合いなさい。
これがわたしの命令である。」





ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「聖書の言葉」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事