エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

我が人生の名場面5・青年、壮年編

2020-02-22 20:54:32 | 日記
我が人生全般の転換点や名場面を振り返るエッセイ第五弾。
今回は、正社員から派遣社員へ、激動の二十代~現在までの青年・壮年編。

遊園地の仕事を辞めた私は「これを機に、夢をかなえよう」と思いました。
小説家なんて大それた夢はかなわなくても、ライターとか、何かしら「書く」
仕事をしたかったのです。大学時代には、アルバイトでイラストエッセイを
1年間雑誌に連載させてもらったり、結果的に出版社が倒産してしまって
実現しなかったものの「キャラクターを書籍に使わせてほしい」という声が
かかったりしたことがあり、何かしらできるんじゃないか…と思っていました。
しかし、何の実績もない私は一体何をしたらいいかわかりません。
親の知り合いからパンフレットのラフ案を考えてほしいという仕事をもらったり
自叙伝に挿画を描いてほしいという仕事をもらったりもしましたが、ただ漠然と
何者かになろうと試行錯誤しているだけで何もできませんでした。
思い知ったのは、自分が何もできない人間だということ。会社に所属して、
言われた仕事をめいっぱい頑張るという形でしか活躍できないこと。
私が遊園地を辞めたのは26歳の時。28歳から女性の求人は目に見えて減って
くるので、27歳になって間もなく私は財団法人に就職を決めました。

この財団法人は資格試験の教材編集者として私を雇ってくれましたが、なんと
「未経験者可」という稀有な条件だったのです。採用の決め手になったのは
私が仲間たちと作っていた白黒印刷のゲーム同人誌。「未経験でも編集は
できそうだ」と思ってもらえたのか…。1か月遅れで採用された同僚は、
印刷会社の営業さんをしていた同い年の男子だったので、このキャリアの差は
なんとも言えないものがありました。
それでも、上司に教えてもらって私はここで編集のスキルを身につけることが
できました。同い年の同僚も大変いい人、賢い人で、環境は上々でした。
しかし…経営状況が悪化してくると、ワンマンな理事長の場当たり的な経営で
各部署が振り回され、上司も理事長に迎合するのみで私と同僚に過酷な労働を
させて知らんぷりをするようになりました。
あげく、2人で無理をして深夜まで残業して、なんとか仕事を回していたのに
上司が「編集はそんなに大変じゃない」という意味不明の報告を理事長に
したため、「じゃあ、〇〇さん一人でできるね」とか言って、編集は私一人が
やれという話が持ち上がってきました。おいおい、私、夜中3時まで自宅で
入力作業して翌朝7時(ビルが開く時刻)に出勤したりした日もあるのに、
その倍やれって?
そんで、私と同僚は一緒に会社を辞めることにしました。一応、私が少し
後まで残ってまとめて引継ぎはしたけど。
のちに、我々2人が必死でやってた仕事量があまりに多かったため、編集は
5人で回すようになったそうです。人員2.5倍。いる人をちゃんと正しく
使っていれば2人、最大でも3人でなんとかできたかもしれないのに。

この財団法人にいた間に私は結婚しました。名字は大好きなので、変えない
つもりだったのですが、勤め先で「変えたほうが今後絶対楽だよ」と言われた
ので結局変えてしまいました。確かに今、面倒は少ないけど…
生来の名字大好きだし、皆に名字由来の呼び名で呼ばれてたのに!
そして、2年で財団法人を辞めてしまった私、結婚したから「主婦」という
肩書がつくので無職でもいいのですが、結果から言って専業主婦は向いて
いなかったようです。幼少期から自分は専業主婦に向いていると勝手に思って
いたのですが、全然ダメ。
朝、ダンナを会社に送り出した後、夕方まで「自分は生きている価値がある
のか」などとただひたすら考えて布団に横たわっているような日も…。
今思うと、眠るでもなくそんなに何時間もただ考えるだけで布団で起きて
いるのとか絶対無理。今思い返すとこの時期は明らかにほぼうつ病でした。
何もやる気なく、しんどく、気力も出ない、動けない。
当時、ダンナがとにかく私を肯定してそっとしておいてくれたので悪化せずに
いられたのだと思います。
そして、私の回復は突然やってきました。
貯金の残高が50万円を切ったのです。
当時、駅に近いというだけで家賃がそれなりにかかるマンション(てゆうか
ボロアパート)に住んでいたので、これは危機的状況。
「死ぬ!!!」
ほんとにマジで思いました。そしたら俄然、働かなければと慌てだしました。
ただ…30歳プータロー、もとい主婦に新たな働き口などあるのか?
「前職を辞めて1年間、何をしていたのか?」という問いかけへの言い訳と
して、ろくに勉強せずに初級システムアドミニストレータの資格を取りました。
ある程度は常識の範囲内でわかったが、なんで取れたかわからん。
そして就職活動をしようと思ったものの、私は「35歳までに出産しないと」
とも思っていたので、正社員になってすぐに産休や出産退職をして、後続の
女性たちの足を引っ張ることを恐れました。今思うと無駄な心配だった…
そこで派遣社員として編集か広報の仕事ができればと考えました。

派遣登録に人生初めて行ってみると、隣の席の人との雑談で「派遣会社には
何社も登録していいんだよ」という情報が得られました。そうなんだ。私、
派遣会社も一社に決めないといけないんだと思ってた。
そんなわけでもう一社、登録に行きました。すると、そのSS社は速攻
私に仕事を持ってきました。まじで超早かった。
派遣先は、通勤片道1時間半かかる、学習雑誌出版社の医療書籍部門の編集。
「書籍担当」ということでスーツで初日出社した私と一緒に、「雑誌担当」
ということで一緒に連れていかれたのは…だらっとしたアーティスティックで
ラフな服装をした、アート系のメイクをした女子。
「げげ、初日はそれなりにちゃんとした格好して来るもんじゃないのかよ」
私はすっかり度肝を抜かれました。
まあ、結局は「明日からスーツじゃなくていいよ」と言われたけど。

私は派遣登録の際、Windowsは使えるけどMACは使えない旨、
しっかりスキルの欄にチェックを入れたはずなのですが…
私が座らされたのはMACの前。驚愕しつつも涼しい顔をするしかない。
操作じたいはある程度わかったけれど、iMACのハード構造がわからず、
どこからCD-Rを入れていいのかわからない。周囲の目を盗んで、
こそこそ試行錯誤。なんと、正面のうっすい溝が挿入口と判明。
そんな感じでなんとかパソコンを扱いつつ、権利関係の許諾手続きや
素読みと校正の真似事などをやりました。
13巻くらいあるシリーズの立ち上げのためのヘルプスタッフとして
呼ばれ、2巻分は私も「担当」の一人にカウントしてもらいました。ただ、
最初に発行された巻はどこまでスタッフの名前を入れるかが決まって
いなかったので、私の名前がスタッフに載っているのは1冊だけです。
ここには1年の予定が、結局1年3か月いました。
財団法人で編集のスキルをつけてもらい、ここで医療書籍のノウハウを
少し身につけさせてもらいました。

おかげですぐ翌月から、別の大手出版社の科学部門子会社の医療部門の
ヘルプの仕事がもらえました。
血液学の偉い先生がずらっと並ぶ会議で、夕食の弁当を配ったうえに、
スタッフの一人として同席して食事をしたのは超~緊張しました。
ここも3、4か月くらいの予定が結局半年いました。

そしてSS社、とにかく続けて仕事を持ってくる。
翌月からはまた別の出版社の編集の仕事を持ってきました。
ここが私の現在の職場です。もう勤続15年半になります。
ただ、今は派遣社員ではありません。いろんなことがありました。

10年もの間、派遣社員としてこの出版社に勤めた私に、ある日派遣元の
SS社は「時給を200円下げてくれ」と言ってきました。
時給を「200円」下げるって相当のことよ!?
10年勤め、派遣先の出版社からの信頼を得ている自信があった私は、
堂々と「お断りします」と言いました。するとSS社の担当は、
「じゃあ、派遣先に200円の賃金アップを申し入れることになります」
と言いました。そんなん、派遣先だってOKするわけないやん。
「あなたの契約は、昔の、派遣業界の景気が良かったころの金額なので
正直、その金額で継続すると当社は赤字です。いわば、あなたの契約は
うちにとって不良債権なんですよ」
担当者は私にそんなことを言いました。10年、派遣会社にまるっきり
迷惑をかけることなく、ただピンハネだけされて勤めてきた人を
不良債権呼ばわりか。私みたいに黙々と迷惑をかけずに10年もピンハネ
させてあげる派遣社員を捨てて、大して使えないうえに派遣会社に
あれこれ迷惑をかける派遣社員を残せばいい。おそらく、派遣先から
信頼を得ている優秀な人は皆、私のように堂々と断るだろう。
「当社は経営上の都合から、派遣社員の給与を、最高で時給1×40円
までにします」だってさ。オマエんとこの経営が厳しくなったのは、
派遣されてる我々のせいじゃないわ。
「とにかくお断りします。派遣先も、私の給与をそんなに一気に上げる
ことをOKするわけないと思いますよ」
「そうすると、当社もあなたの雇用を続けるわけにいかなくなります」
「それはどうぞご勝手に。私は賃金を下げられるなら退職します」
交渉決裂。派遣先から派遣元の担当者が帰るなり、私は編集部で、速攻
上司に顛末を報告しました。
「当社に賃上げを要求すると言ってましたが、話を聞く必要なんか
ないですよ。それで私がいられなくなっても、それは仕方ないです。
派遣会社がおかしいんですから、完全に無視してかまいません」
正直、派遣先が私をなんとかして残すだろうと思ってたし、ダメでも
「派遣なのに10年雇ってもらえるほど安定した仕事ができる」という
経験があれば別の派遣会社からどこにでも行ける、と思ってました。

結局、派遣先は私を別の派遣会社に移籍させて雇用を続けてくれました。
SS社はとんちんかんで、「次の契約は難しい」とか言ってたくせに、
契約延長の手続きのタイミングに来たら「さいわい、次回はまだ契約を
継続できそうです」とか言いだしたよ。えっ私、もう移籍先と話がついて
あんたんとことは来月でオサラバだよ。
「はあ、そうなんですか?」とかあいまいに返事をしていたら、数日後、
担当者から「実は、派遣先から次回の契約は無しと言われてしまって」と
あわてふためいた電話が来ました。うん、知ってる。
「ああ、けっこうです。お世話になりました」
退職の手続きがあるから来社する、と言っていたくせにSS社の担当は
その日その時刻の約束をすっぽかし、メールで「どないなっとんねん」
と問い合わせた私に「急病で」とか嘘をつきまくり、結局退職手続きの
書類は郵送されてきました。
なお、私がSS社から賃下げ等々言われた内容を移籍先の派遣会社に
事情説明としてまるまるリークしたので(だって口止めされてないし、
される筋合いもないし)、今、移籍先の派遣会社の求人はSS社の
ちょい上の金額をアピールしています。SS社、これから相手に不当な
圧力をかけようというのに、いろいろしゃべりすぎたね。
ただ…移籍に当たって時給は80円下がりました。それは仕方ない。
これに関しては、派遣先の当時の上司と、総務の重鎮の人が、本当に良く
してくれました。総務の人にも「待遇が下がってしまって申し訳ない」と
言われましたが、私こそ「移籍という形で無駄な手間をかけさせてしまい、
派遣元の会社が御社に大変失礼をいたしました」と詫びる立場だよ。

そして、少し前に派遣法が改正されたため、派遣社員は順次契約社員に
なっていったのですが、私は派遣の中では最古参くらいの社歴だったのに
この移籍騒ぎのせいで、他の人の手続きが大半終わってからの手続きと
なりました。初期にはいろいろ混乱もあったのですが、私の時にはもう
いろいろな手続きがすっかり固まっていて混乱なく済みました。
さらに、社内に私しか千葉ロッテマリーンズのファンがいないのに、この
勤め先、ロッテのチケットを4年間にわたってまとまった数量買い続け、
そのかなりの数を私が使用することとなりました。だって他に、あんな
遠いところまでロッテ戦を見に行く人なんてほとんどいないもん。
あの、総務の人が編集部の者に連れられてやってきて、私の背もたれの
ロッテの肩掛けを見て「ああっ!」と大声をあげた日を忘れない。
「ほら、この人、ロッテファンなんですよ!」と私を指さす同僚。
「おお…社内にロッテファンがいたとは…」と感動する総務の人。
以来、使用者が出なかった土日のチケットを中心に、私が消化率を上げて
あげる(?)という日々が始まりました。
すっごいいい席で何年も何試合も観戦させてもらい、特典として好きな
選手のサインなどもいろいろもらったりして、仕事以外にもこの会社には
素晴らしいことばかりです。多くの友人にも恵まれています。
何より、この会社での編集の仕事はほんとに私の天職だと思っています。
最終的には悪い別れ方になったとはいえ、この職場に私を紹介してくれた
SS社には本当に感謝しています。
天職なんて、おいそれと出会えるものじゃない。

プライベートでは、今の勤め先に派遣された頃に家を建てました。
それまで住んでいたマンション(てゆうかアパート)の横に新しい
マンション(?)が建ち、日照時間が1日2時間程度になって
電気をつけないとほぼ一日中真っ暗な環境になってしまったため、
実家で烈火のごとく文句を言っていたら、母が突然、「だったら、
うちの裏に建てちゃえばいいじゃない」と言いだしました。
その頃、私の実家の裏のおんぼろアパートは、あばら屋すぎてもはや
維持がしんどい状態。実際、取り壊しの時、全体がかなり傾いていて
予定どおりの作業ができなくなる事態になったくらいです。
そんなアパートを取り壊し、大手建築会社が出来合いの設計で安価に
売っている小さいほったて小屋を建てました。
土地が小さくて家も狭いので、住宅金融公庫が「当社は、良質な家を
建てるための資金を貸し出しているので、一定以上の規模の家でないと
お貸しできません」だって。まあ、そんなちっさい家ではありますが、
結果として2人から増えなかった家族の規模から言って、ちょうどいい
大きさだったと言えます。
いや、夫婦そろって「片づけられない」系だから、実際は手狭だけど…

そして子供がいないので親不孝を申し訳ないと思っていたのですが、
数年前に弟が四十代半ばで結婚して、まさかの子供まで生まれました。
甥っ子が弟そっくりですっごい可笑しい!

そんなこんなで、充実した人生だったのですが、2019年の夏、
大きな病気をして手術して、現在も治療中という感じです。
家族に恵まれ、友に恵まれ、仕事に超~恵まれ、夫にも超~恵まれ、
まあ今何かあっても「いい人生だった~」と言えるでしょう。
とりあえず、なんとかここまでの人生を書いてみました。
うっかり全部読んじゃった方、長くてほんとにすみませんでした!