我が人生全般の転換点や名場面を振り返るエッセイ第二弾。
今回は中学校~高校時代、ときめきの少女期編。
中学1年生の夏休み、私は生まれ故郷の東京都板橋区に帰還しました。
また転校生となったわけですが、今回の転入先は小学校時代の友人が
多数通っている地元の中学校。不安はまったくありませんでした。
いや福岡の小学校に転校したときも不安はなかったか。
案の定、懐かしの友人たちが歓迎してくれました。
日々絵を描いて過ごしている私は、そうした友人たちのたくさんいる美術部に
入りました。美術部とは名ばかりの、アホな遊びばかりしている悪友たちの
巣窟でしたが、楽しい仲間に囲まれていろんな悪いことをして過ごしました。
給食室に返された残りのコーヒー牛乳を盗み飲みしたり、禁止されている
買い食いどころか、部活の時間にラーメン屋に食べに行ったり…
なお、この美術部、学年上位の成績をおさめる女子がずらりと並ぶ、
そうそうたるメンバー。先生方が「優等生」と認識している女子たちの
裏の顔というか「ダメ人間の顔」で過ごす憩いの場でした。
いわゆる優等生ほど変な人が多いのか、この中学の名物男も成績優秀者。
彼は学校にいろんなコスプレをして登校して来たり、校内でコスプレしたり、
正門で不審者の格好をしてフェイクなビラ(ただの白紙)を配って校長室に
呼ばれたり、コスプレ衣装を作っていたせいで遅刻して正門にすがりついたり、
とにかく変なことばかりして目立っていました。
私と、同学年の彼が在学中に阪神が日本一になったのですが、彼は阪神ファン
だったらしく、友人たちとタイガースのはっぴを着て各教室を練り歩き、
「六甲おろし」こと「阪神タイガースの歌」を大合唱していきました。
当時ガチガチの巨人ファンだった私は、半分面白がりつつも「チクショー」と
怒りに燃え、「将来の結婚相手の条件」に「ゴキブリが倒せる人」だけでなく
「阪神ファン以外」という項目を足しました。
この中学校で起こったのが、私に向けられた「〇〇さん黒幕疑惑事件」。
13、14歳の女の子たちは恋するお年頃。ナイショにすることを約束して、
好きな人を打ち明け合う女子トークなんかをやるわけです。
クラスの女子数人で好きな人を語り合った数日後、大事件が…
みんなの好きな人がいろんな人にバレていたのです。
中学生女子にとって「好きな人がバレる」というのは大変なショック。
皆、真っ青になって激怒。私も気が気でない思いをしました。
ある日、その仲間たちが私のところに来て「あの子が犯人らしい。みんなで
問い詰めるから一緒に行こう」と言いました。どうやら言いふらした証拠を
つかんだらしいのです。
私は、皆で取り囲んで責める雰囲気に気乗りしなくて、「いや、私は
一対一で話すわ」と言って参加しませんでした。
疑われた彼女は実際犯人だったようなのですが、その後、彼女はなんと
私のことを「〇〇さんだけが文句を言いに来なかった。絶対おかしい。
〇〇さんが皆に私をいじめさせた黒幕に違いない」と言っていたそうで…
その彼女と親しい女子が、トイレで私を罵りながら個室のドアを蹴っていたと、
たまたま聞いていた友人が教えてくれました。
以降バカバカしいので結局文句も言いに行かず、その彼女と関わるのは
やめましたが、彼女が「中学の時、囲まれて文句を言われたり仲間外れに
されたり、いじめを受けた」と思っているのかもしれないんだな…と思うと、
いじめのうちの何件かは、周囲の人のほうがよっぽど被害者かもしれないと
思いました。だってこれ、私は被害にしか遭ってないよ。なんだ黒幕って。
この当時の私の「好きな人」は、クラスに1位2位3位と好きな人がいて、
でもその誰ともほとんどしゃべったことがなくて、1位の人が私の
「好きな人認定」の人でした。そんでクラス替えのたびにメンツが
総とっかえになるという、「好きとは何ぞや?」状態の女子でした。
こういう「人生を振り返る」みたいな場で具体的に「好きな人」の話が出て
くると、わりと白けるというか「他人の恋愛話をぐだぐだ聞かされるのは
嫌だな」という感じだと思いますが、この中学校で出会った初恋については
私の人生超最大のキーポイントなのでご容赦ください。
中学2年の私は、中学校の委員会の一番偉いやつ(笑)に入りました。
そこで出会った彼は、私の人生の土台となり道標となりました。
男子としゃべるのが苦手なうえに、「顔を見て話したら男子が嫌がる」
とかいう面倒くさい自虐にかられていた超~~暗い勘違い女…それが
当時の私の姿でした。女子が相手なら友人も多くいつも楽しい私なのに、
男子が相手だと途端に何を意識してか殻に閉じこもり、何やら気持ち悪い
変な態度で目も上げずにしゃべる変な奴。
しかし初恋の彼は、女子を分け隔てなく扱って、私に対しても普通に、
いや普通以上に優しく、「顔を見てしゃべったほうがいいよ」と言ってくれる
など、私を徹底的に相手して矯正して正常化してくれました。
そして、彼が素で言った「ウン、僕の友達みんないい人ばっかり」という
言葉は私を驚愕させました。
さきの「黒幕事件」でもわかるように、女子の「友達」の中では、いろいろ
ドロドロしたことが起こります。嫌いな人がいたり、でもそれを隠して
親しいふりをしたりしていて、私は決して「友達みんながいい人」なんて
言えませんでした。
しかし彼はそれを言ってのけ、しかも嘘には聞こえない。
ああ、こういう人っているんだ、と思いました。
そして、この恋はまるっきりかなわなかったけれど、この彼に出会えたこと
自体が自分の人生においてとんでもない幸福だと思うことができました。
その時、私に「幸せを敏感に感知するアンテナ」が生えたのです。
以降、「ああ、そうか、私って幸せな人生だなあ」と思って生きる時間が
圧倒的に増えました。
というか、自分を幸せだと思うことは、それまでいっさいなかった。
私はブスで損をしている、もっと認められたいのに恵まれてないし、
皆はいいよな…というような卑屈な感じ方しかできなかった…
それがぐるっと変わりました。
そう、私はいつだって良き友人に囲まれてきた。しかもたくさんの。
家族にも恵まれている。担任の先生のことだっていつも大好きだった。
自分が普通にすごく幸せだってことに、15歳で気がつくことができた。
それまでは本当に、アンテナが立ってなかったんだと思う。
彼には成人式で再会できたけれど、こんな「人生をありがとう」なんて
会話ができる機会もなく…。私は私の人生を「恵まれすぎて最高すぎる」
と思っていますが、それに気づく能力を授けてくれたのはこの、中学で
出会った初恋の彼なのです。今でも、人生を挙げて全力で感謝しています。
さて、コイバナ的述懐はそのくらいにしておいて。
高校受験を迎えた私は、「あなたは内申点が高いから、都立のレベルを
下げる必要はない。だから、ダメもとでも上の学校を受けると良い」と
中学校の先生に言われたものの、ダメもとの学校は全部落ちました。
進学先は、受験で行った際に仲間たちを震撼させた超謎の汚い都立高校に
決まりました。だって、物理的に各所汚くて壊れてるだけでなく、机の中に
ラグビーのヘッドキャップをかぶった白髪交じりのカツラ(しかもなぜか
黄色いテニスボール入り)が入っているような高校だよ!
受験生が動揺するから、そんな不審物は除去しとけよ!
ここは先生も生徒も変な人ばかりの高校でした。
昭和天皇が危篤の時に「いつ死にますかね」とうきうきしていた先生や、
初日の授業が「私の妻は、白血病で死にました」という身の上話だった先生や、
大学も驚くレベルの実験を次々に課して教科書をまったく開かない先生や、
大半の生徒が使わない道具を「交代で使うときたないから」と全員に強制的に
購入させる先生や、制服がない(みんな私服)なのに毎日スーツで完璧に
キメて登校する生徒や…かなり危険な無法地帯でした。
トイレには学生闘争時代の貼り紙が残ってるし(大学じゃなくて高校なのに!)
床は黒ずんでススが撒かれたみたいに汚いし、窓ガラスヒビ入ってるし、
カーテン下の方破れてなんか茶色くなってるし…物理的にも超汚い!!
そこに生徒が、教室の後ろの黒板の上に飲み終えた空き缶をなぜか並べるし、
運動部の連中が砂を吐き出すスパイクをぽんぽん投げるし…
教室の掃除は「学期に1回だけ」だし、ゴミ箱のゴミ回収は有志がやらないと
誰も、いつまでもやらないし…
夏は弁当を捨てた袋からショウジョウバエが生まれる騒ぎ!
私は時々ゴミ回収をやり、教室を自主的に掃除していました。偉い!
こんな高校だから、いろんなことが「生徒の良識に任せる」感じでした。
お昼は校外に買いに出ようが食いに出ようが勝手。
ここでも悪友たちとバカをやることが最大の楽しみだった私は、後輩たちと
お昼に最寄り駅まで10分の距離を急ぎ、ギリギリの距離まで電車に乗って
出かけていき、ジェラートを食べてダッシュで戻ってくるという無駄な
ミッションをクリアして盛り上がったりしていました。
「人生で一度はやってみたかった」という理由でエスケープもやりました。
同じく、早弁もしてみましたが、緊張してのどがつかえて生きた心地が
しませんでした。早弁は1回でいいやと思いました。
そうそう、この高校では、半分冗談半分本気の「カースト制度」がありました。
当時の都立高校には「学区」があり、学区内の高校にしか進学できなかったの
ですが、我が第四学区は「文京区、豊島区、板橋区、北区」からなります。
その中で一番やんごとないのは文京区様、次に高貴なのは豊島区さんで、
これはもう決まりと言うか論をまたない事実。では三位、四位は?
板橋区と北区のカースト上位争いは、まるで「翔んで埼玉」の埼玉と千葉の
ような状態でした。
いや~確かに、板橋区在住の私の中学校までの通学路は、大半、片側が住宅で
もう片側は畑だよ。雨上がりには手のひらより大きいカエルが必ず道端で
1匹以上死んでいたよ。福岡の友達が遊びに来た時、「板橋農協」の看板を
見て「ええっ! 東京にも農協ってあるの!」と驚かれ、我が家の近所を見て
「すごい、東京に畑がこんなにある!」とさらに驚かれたよ。でも!
「板橋区は北区より圧倒的に人口が多いし、人口密度も高いんだよ! 人が
多く密集して住んでるほうが都会に決まってるだろ!」
「なんだと、北区には山手線が通ってるんだぞ、板橋区はかすってもない!」
まあ、こんなアホな戦いが時々勃発してましたな。
さらに先生まで戦いを煽る煽る。地学の先生が、星の観察の際に、
「文京区、豊島区の人たちは、夜でも明るくて星が見えないと思うので、
夜暗くて星がよく見える板橋区や北区に行くといいですね」
とか満面の笑みで言うわけ。そこで文京区豊島区の人たちがわざとウンウンと
大げさにうなずき、板橋区民北区民が罵り合いを始めるという構図でした。
私がこの高校で何の部活に入ったかというと…
あの、幼稚園時代に「カワイ体操教室のはずが、なぜかピアノ教室に
申し込まれてしまった事件」から10年以上を経て、とうとう「体操部」
に入ったのです!
実際は、美人の先輩に「クッキング同好会でお菓子を作って、その分を
体操部で運動して消費するのよ(ハート)」と勧誘されて「そっかあ…」
と篭絡され、体操部に連れていかれたうえにクッキング同好会も兼部したの
ですが。後から漫画研究会にも入って、3足のわらじになっちゃいました。
そしてこの体操部で、私の人生の大きなターニングポイントが…
私、体の柔軟性は案外あって、初期のころにやる「倒立前転」や
「倒立ブリッジ」が意外とできちゃいました。さらに、女子の新入部員
7、8人のうち3番目に、最初の空中技「前方転回」もできたのです。
もしかしてスポーツできる子だったの? と思いましたが…
筋力不足、体重オーバー、なのに前方転回がちゃんと着地できてしまった
私の脚は、衝撃に耐えきれませんでした。着地を決めたはずなのに、
ぐりっと膝がねじれるような感覚があり、私はばったり倒れました。
「これ絶対脱臼したよな」が最初の感想。しばらく立てませんでした。
部活が終わるまで見学して、帰りはなんとか自宅の最寄り駅までたどり着き、
弟の乗ってきてくれた自転車で帰りました。
私は弟と二人乗りで帰りたかったのですが、カッコいい弟に見事、ラブラブな
二人乗りを拒否られ、自転車を渡されて一人で帰りました。我が家は駅から
ずっと下り坂なので(逆に、行きは全部登り!)自転車があれば、ほぼ
こがないで帰宅できるのです。
翌日、痛みは引いたし歩けるものの、腫れがひどくなったので病院に行くと
「前十字靭帯断裂」の診断。
高校1年生の夏休み~新学期は、手術と2か月の入院で台無しになりました。
そして、手術で腱を移植したり骨を移植したり金属を打ち込んだりして、
翌年の冬に金属を抜く手術をしたりしたので、以降、怖くてスキーが
できなくなりました。もともとスキー好きじゃなかったからいいけど、
大学生になって何度もサークルでスキー旅行に行ったのに、ふもとで
仲間たちを待つだけの時間を過ごす哀れな人でした。
また、そのためにスポーツにより消極的になりました。
ことごとくスポーツに縁がなかった、ということなのかなあ。
3つも部活に入っていた私ですが、文化祭の実行委員もやりました。
合羽橋に使い捨て食器類の仕入れに行ったり、模擬店の仕入れに関する
事務手続きや会計をやったり、すべての支払いが文化祭の後だったり、
各所に何十万円の支払いをしたりと、これまでまったく経験のない
小売店の仕事のようなことができて、とても面白い活動でした。
(うちの高校の「模擬店」は文化祭実行委員会のみが運営可だったので
規模が大きかったのです)
いろいろあった高校時代ですが、私の人生に一番影響があったのは、
中学の美術部からの友人で、体操部、クッキング同好会、漫画研究会、
文化祭実行委員会の全部で一緒だった親友が美人だったことでしょう。
美人と2人で仲よくしていると、ま~あ男子が周囲に寄ってくるのなんの。
もちろん彼らとしては私なんて眼中にないのですが、ないがしろには
できないということです。親友目当てでセットで「コンパ」に呼ばれたり
するのです。皆さんご苦労様だこと。
そして、そういう中で(女性としてでなく人としてですが)私をすごく
高く評価してくれる男子が出てきてくれたりもしました。
「〇〇ちゃんホントにいい人だね! ファンになっちゃったよ」
クラスの中心的存在だった男子の1人がすごく惚れ込んでくれて、
いつも気にかけてくれて、何かあればフォローしてくれて、
「仲間内で入学してから綺麗になった人の話をした時、〇〇ちゃんも入って
たよ」等のうれしい話を教えてくれて、私を引き上げてくれたと思います。
当時私はチャゲ&飛鳥が好きだったのですが、この彼に「飛鳥だけで
充分なのに」ということを言ったら、「そんなことはないよ、彼らは
チャゲの上手さに支えられてるところも大きいよ」という話をして
くれました。確かに、そう言われて視点を変えて聴いたら、曲としての
完成度の高さを下支えしているのはチャゲなんだ、と理解できて、
自分の視野の狭さを反省しました。
こういう華やか系の男子が私にとても良くしてくれたという経験は、
私の自己卑下に満ちた性根をまた新たに矯正してくれたと思います。
プチモテも経験して、今で言ったらほぼストーカーな気に入り方をして
くれた人と、友達のふりをして卒業後に「実は…」という電話をくれた人が
いたりもして、私は「ブスで暗くて気持ち悪い勘違い女」から「普通の女子」
に脱皮できたと思います。中学校で男子への接し方を矯正してもらい、
「幸福感知アンテナ」を授かったことで、いろんな世界が開けました。
好きになったり好かれたり、実は双方向で噛み合っていたベクトルも
あったのですが、結果として高校時代に交際と言える関係に至った男性は
いませんでした。デートとは定義しないものの実質デートと言える外出は
けっこうあったのですが。
もう、中学までの私とは全然違います。これも「幸福感知アンテナ」で
素直に幸福や喜びを感じて表出できるようになった賜物と思っています。
私はあまり年上の人に可愛がられるタイプではなく、同世代とグループで
仲よくして、後輩に慕われる傾向があります。
結果として「終の棲家」となった漫画研究会では、弟分として私を慕って
くれる1つ下の男子、今も公私とも絶大な信頼を置いている1つ下の女子、
のちに親友となる2歳下の男子など、大いなる出会いが多数ありました。
なお、我が母校、愛すべきおかしな都立高校は「4年制」と言われていて、
1浪するのは当然という文化でした。先生も受験で使えない変な教え方
ばっかりするし。
そのせいにするわけではないのですが、中学で成績上位だった私が、
そういうレベルの子が集まるこの高校では「ただの人」以下の劣等生でした。
「勉強がわからない」「答えが出ない」ということを初めて経験しました。
クラスで平均点が35点の数学のテスト(100点満点で平均点がそれと
いうのもテストとしてどうなのか!)で、17点しか取れなかった時には、
あまりのショックで東武東上線の終点、寄居まで乗っていくという
現実逃避をしたりもしました。
「そうか、私って、特別な優等生でもなんでもなくて、ただの人だったんだ」
この高校で、私がリアルに実感して理解したことです。
でも、ただの人でしかないけれど、私って楽しくて幸せで、いいよね…
高校時代には、もうすっかり自己愛とパワーにあふれる私になっていました。
そして「4年制」の定説どおり、私は見事浪人しました。
でも「高校の後輩たちともう1年、一緒に遊んでいられる」という感じで
全然悲壮感はありませんでした。
こうして私の人生が大きく変わった中学、高校時代はおしまい。
恋愛は結局、片想いに毛が生えた程度のことしかなく、十代の女子としては
物足りない青春時代かもしれませんが、本当に充実した時期でした。
今回は中学校~高校時代、ときめきの少女期編。
中学1年生の夏休み、私は生まれ故郷の東京都板橋区に帰還しました。
また転校生となったわけですが、今回の転入先は小学校時代の友人が
多数通っている地元の中学校。不安はまったくありませんでした。
いや福岡の小学校に転校したときも不安はなかったか。
案の定、懐かしの友人たちが歓迎してくれました。
日々絵を描いて過ごしている私は、そうした友人たちのたくさんいる美術部に
入りました。美術部とは名ばかりの、アホな遊びばかりしている悪友たちの
巣窟でしたが、楽しい仲間に囲まれていろんな悪いことをして過ごしました。
給食室に返された残りのコーヒー牛乳を盗み飲みしたり、禁止されている
買い食いどころか、部活の時間にラーメン屋に食べに行ったり…
なお、この美術部、学年上位の成績をおさめる女子がずらりと並ぶ、
そうそうたるメンバー。先生方が「優等生」と認識している女子たちの
裏の顔というか「ダメ人間の顔」で過ごす憩いの場でした。
いわゆる優等生ほど変な人が多いのか、この中学の名物男も成績優秀者。
彼は学校にいろんなコスプレをして登校して来たり、校内でコスプレしたり、
正門で不審者の格好をしてフェイクなビラ(ただの白紙)を配って校長室に
呼ばれたり、コスプレ衣装を作っていたせいで遅刻して正門にすがりついたり、
とにかく変なことばかりして目立っていました。
私と、同学年の彼が在学中に阪神が日本一になったのですが、彼は阪神ファン
だったらしく、友人たちとタイガースのはっぴを着て各教室を練り歩き、
「六甲おろし」こと「阪神タイガースの歌」を大合唱していきました。
当時ガチガチの巨人ファンだった私は、半分面白がりつつも「チクショー」と
怒りに燃え、「将来の結婚相手の条件」に「ゴキブリが倒せる人」だけでなく
「阪神ファン以外」という項目を足しました。
この中学校で起こったのが、私に向けられた「〇〇さん黒幕疑惑事件」。
13、14歳の女の子たちは恋するお年頃。ナイショにすることを約束して、
好きな人を打ち明け合う女子トークなんかをやるわけです。
クラスの女子数人で好きな人を語り合った数日後、大事件が…
みんなの好きな人がいろんな人にバレていたのです。
中学生女子にとって「好きな人がバレる」というのは大変なショック。
皆、真っ青になって激怒。私も気が気でない思いをしました。
ある日、その仲間たちが私のところに来て「あの子が犯人らしい。みんなで
問い詰めるから一緒に行こう」と言いました。どうやら言いふらした証拠を
つかんだらしいのです。
私は、皆で取り囲んで責める雰囲気に気乗りしなくて、「いや、私は
一対一で話すわ」と言って参加しませんでした。
疑われた彼女は実際犯人だったようなのですが、その後、彼女はなんと
私のことを「〇〇さんだけが文句を言いに来なかった。絶対おかしい。
〇〇さんが皆に私をいじめさせた黒幕に違いない」と言っていたそうで…
その彼女と親しい女子が、トイレで私を罵りながら個室のドアを蹴っていたと、
たまたま聞いていた友人が教えてくれました。
以降バカバカしいので結局文句も言いに行かず、その彼女と関わるのは
やめましたが、彼女が「中学の時、囲まれて文句を言われたり仲間外れに
されたり、いじめを受けた」と思っているのかもしれないんだな…と思うと、
いじめのうちの何件かは、周囲の人のほうがよっぽど被害者かもしれないと
思いました。だってこれ、私は被害にしか遭ってないよ。なんだ黒幕って。
この当時の私の「好きな人」は、クラスに1位2位3位と好きな人がいて、
でもその誰ともほとんどしゃべったことがなくて、1位の人が私の
「好きな人認定」の人でした。そんでクラス替えのたびにメンツが
総とっかえになるという、「好きとは何ぞや?」状態の女子でした。
こういう「人生を振り返る」みたいな場で具体的に「好きな人」の話が出て
くると、わりと白けるというか「他人の恋愛話をぐだぐだ聞かされるのは
嫌だな」という感じだと思いますが、この中学校で出会った初恋については
私の人生超最大のキーポイントなのでご容赦ください。
中学2年の私は、中学校の委員会の一番偉いやつ(笑)に入りました。
そこで出会った彼は、私の人生の土台となり道標となりました。
男子としゃべるのが苦手なうえに、「顔を見て話したら男子が嫌がる」
とかいう面倒くさい自虐にかられていた超~~暗い勘違い女…それが
当時の私の姿でした。女子が相手なら友人も多くいつも楽しい私なのに、
男子が相手だと途端に何を意識してか殻に閉じこもり、何やら気持ち悪い
変な態度で目も上げずにしゃべる変な奴。
しかし初恋の彼は、女子を分け隔てなく扱って、私に対しても普通に、
いや普通以上に優しく、「顔を見てしゃべったほうがいいよ」と言ってくれる
など、私を徹底的に相手して矯正して正常化してくれました。
そして、彼が素で言った「ウン、僕の友達みんないい人ばっかり」という
言葉は私を驚愕させました。
さきの「黒幕事件」でもわかるように、女子の「友達」の中では、いろいろ
ドロドロしたことが起こります。嫌いな人がいたり、でもそれを隠して
親しいふりをしたりしていて、私は決して「友達みんながいい人」なんて
言えませんでした。
しかし彼はそれを言ってのけ、しかも嘘には聞こえない。
ああ、こういう人っているんだ、と思いました。
そして、この恋はまるっきりかなわなかったけれど、この彼に出会えたこと
自体が自分の人生においてとんでもない幸福だと思うことができました。
その時、私に「幸せを敏感に感知するアンテナ」が生えたのです。
以降、「ああ、そうか、私って幸せな人生だなあ」と思って生きる時間が
圧倒的に増えました。
というか、自分を幸せだと思うことは、それまでいっさいなかった。
私はブスで損をしている、もっと認められたいのに恵まれてないし、
皆はいいよな…というような卑屈な感じ方しかできなかった…
それがぐるっと変わりました。
そう、私はいつだって良き友人に囲まれてきた。しかもたくさんの。
家族にも恵まれている。担任の先生のことだっていつも大好きだった。
自分が普通にすごく幸せだってことに、15歳で気がつくことができた。
それまでは本当に、アンテナが立ってなかったんだと思う。
彼には成人式で再会できたけれど、こんな「人生をありがとう」なんて
会話ができる機会もなく…。私は私の人生を「恵まれすぎて最高すぎる」
と思っていますが、それに気づく能力を授けてくれたのはこの、中学で
出会った初恋の彼なのです。今でも、人生を挙げて全力で感謝しています。
さて、コイバナ的述懐はそのくらいにしておいて。
高校受験を迎えた私は、「あなたは内申点が高いから、都立のレベルを
下げる必要はない。だから、ダメもとでも上の学校を受けると良い」と
中学校の先生に言われたものの、ダメもとの学校は全部落ちました。
進学先は、受験で行った際に仲間たちを震撼させた超謎の汚い都立高校に
決まりました。だって、物理的に各所汚くて壊れてるだけでなく、机の中に
ラグビーのヘッドキャップをかぶった白髪交じりのカツラ(しかもなぜか
黄色いテニスボール入り)が入っているような高校だよ!
受験生が動揺するから、そんな不審物は除去しとけよ!
ここは先生も生徒も変な人ばかりの高校でした。
昭和天皇が危篤の時に「いつ死にますかね」とうきうきしていた先生や、
初日の授業が「私の妻は、白血病で死にました」という身の上話だった先生や、
大学も驚くレベルの実験を次々に課して教科書をまったく開かない先生や、
大半の生徒が使わない道具を「交代で使うときたないから」と全員に強制的に
購入させる先生や、制服がない(みんな私服)なのに毎日スーツで完璧に
キメて登校する生徒や…かなり危険な無法地帯でした。
トイレには学生闘争時代の貼り紙が残ってるし(大学じゃなくて高校なのに!)
床は黒ずんでススが撒かれたみたいに汚いし、窓ガラスヒビ入ってるし、
カーテン下の方破れてなんか茶色くなってるし…物理的にも超汚い!!
そこに生徒が、教室の後ろの黒板の上に飲み終えた空き缶をなぜか並べるし、
運動部の連中が砂を吐き出すスパイクをぽんぽん投げるし…
教室の掃除は「学期に1回だけ」だし、ゴミ箱のゴミ回収は有志がやらないと
誰も、いつまでもやらないし…
夏は弁当を捨てた袋からショウジョウバエが生まれる騒ぎ!
私は時々ゴミ回収をやり、教室を自主的に掃除していました。偉い!
こんな高校だから、いろんなことが「生徒の良識に任せる」感じでした。
お昼は校外に買いに出ようが食いに出ようが勝手。
ここでも悪友たちとバカをやることが最大の楽しみだった私は、後輩たちと
お昼に最寄り駅まで10分の距離を急ぎ、ギリギリの距離まで電車に乗って
出かけていき、ジェラートを食べてダッシュで戻ってくるという無駄な
ミッションをクリアして盛り上がったりしていました。
「人生で一度はやってみたかった」という理由でエスケープもやりました。
同じく、早弁もしてみましたが、緊張してのどがつかえて生きた心地が
しませんでした。早弁は1回でいいやと思いました。
そうそう、この高校では、半分冗談半分本気の「カースト制度」がありました。
当時の都立高校には「学区」があり、学区内の高校にしか進学できなかったの
ですが、我が第四学区は「文京区、豊島区、板橋区、北区」からなります。
その中で一番やんごとないのは文京区様、次に高貴なのは豊島区さんで、
これはもう決まりと言うか論をまたない事実。では三位、四位は?
板橋区と北区のカースト上位争いは、まるで「翔んで埼玉」の埼玉と千葉の
ような状態でした。
いや~確かに、板橋区在住の私の中学校までの通学路は、大半、片側が住宅で
もう片側は畑だよ。雨上がりには手のひらより大きいカエルが必ず道端で
1匹以上死んでいたよ。福岡の友達が遊びに来た時、「板橋農協」の看板を
見て「ええっ! 東京にも農協ってあるの!」と驚かれ、我が家の近所を見て
「すごい、東京に畑がこんなにある!」とさらに驚かれたよ。でも!
「板橋区は北区より圧倒的に人口が多いし、人口密度も高いんだよ! 人が
多く密集して住んでるほうが都会に決まってるだろ!」
「なんだと、北区には山手線が通ってるんだぞ、板橋区はかすってもない!」
まあ、こんなアホな戦いが時々勃発してましたな。
さらに先生まで戦いを煽る煽る。地学の先生が、星の観察の際に、
「文京区、豊島区の人たちは、夜でも明るくて星が見えないと思うので、
夜暗くて星がよく見える板橋区や北区に行くといいですね」
とか満面の笑みで言うわけ。そこで文京区豊島区の人たちがわざとウンウンと
大げさにうなずき、板橋区民北区民が罵り合いを始めるという構図でした。
私がこの高校で何の部活に入ったかというと…
あの、幼稚園時代に「カワイ体操教室のはずが、なぜかピアノ教室に
申し込まれてしまった事件」から10年以上を経て、とうとう「体操部」
に入ったのです!
実際は、美人の先輩に「クッキング同好会でお菓子を作って、その分を
体操部で運動して消費するのよ(ハート)」と勧誘されて「そっかあ…」
と篭絡され、体操部に連れていかれたうえにクッキング同好会も兼部したの
ですが。後から漫画研究会にも入って、3足のわらじになっちゃいました。
そしてこの体操部で、私の人生の大きなターニングポイントが…
私、体の柔軟性は案外あって、初期のころにやる「倒立前転」や
「倒立ブリッジ」が意外とできちゃいました。さらに、女子の新入部員
7、8人のうち3番目に、最初の空中技「前方転回」もできたのです。
もしかしてスポーツできる子だったの? と思いましたが…
筋力不足、体重オーバー、なのに前方転回がちゃんと着地できてしまった
私の脚は、衝撃に耐えきれませんでした。着地を決めたはずなのに、
ぐりっと膝がねじれるような感覚があり、私はばったり倒れました。
「これ絶対脱臼したよな」が最初の感想。しばらく立てませんでした。
部活が終わるまで見学して、帰りはなんとか自宅の最寄り駅までたどり着き、
弟の乗ってきてくれた自転車で帰りました。
私は弟と二人乗りで帰りたかったのですが、カッコいい弟に見事、ラブラブな
二人乗りを拒否られ、自転車を渡されて一人で帰りました。我が家は駅から
ずっと下り坂なので(逆に、行きは全部登り!)自転車があれば、ほぼ
こがないで帰宅できるのです。
翌日、痛みは引いたし歩けるものの、腫れがひどくなったので病院に行くと
「前十字靭帯断裂」の診断。
高校1年生の夏休み~新学期は、手術と2か月の入院で台無しになりました。
そして、手術で腱を移植したり骨を移植したり金属を打ち込んだりして、
翌年の冬に金属を抜く手術をしたりしたので、以降、怖くてスキーが
できなくなりました。もともとスキー好きじゃなかったからいいけど、
大学生になって何度もサークルでスキー旅行に行ったのに、ふもとで
仲間たちを待つだけの時間を過ごす哀れな人でした。
また、そのためにスポーツにより消極的になりました。
ことごとくスポーツに縁がなかった、ということなのかなあ。
3つも部活に入っていた私ですが、文化祭の実行委員もやりました。
合羽橋に使い捨て食器類の仕入れに行ったり、模擬店の仕入れに関する
事務手続きや会計をやったり、すべての支払いが文化祭の後だったり、
各所に何十万円の支払いをしたりと、これまでまったく経験のない
小売店の仕事のようなことができて、とても面白い活動でした。
(うちの高校の「模擬店」は文化祭実行委員会のみが運営可だったので
規模が大きかったのです)
いろいろあった高校時代ですが、私の人生に一番影響があったのは、
中学の美術部からの友人で、体操部、クッキング同好会、漫画研究会、
文化祭実行委員会の全部で一緒だった親友が美人だったことでしょう。
美人と2人で仲よくしていると、ま~あ男子が周囲に寄ってくるのなんの。
もちろん彼らとしては私なんて眼中にないのですが、ないがしろには
できないということです。親友目当てでセットで「コンパ」に呼ばれたり
するのです。皆さんご苦労様だこと。
そして、そういう中で(女性としてでなく人としてですが)私をすごく
高く評価してくれる男子が出てきてくれたりもしました。
「〇〇ちゃんホントにいい人だね! ファンになっちゃったよ」
クラスの中心的存在だった男子の1人がすごく惚れ込んでくれて、
いつも気にかけてくれて、何かあればフォローしてくれて、
「仲間内で入学してから綺麗になった人の話をした時、〇〇ちゃんも入って
たよ」等のうれしい話を教えてくれて、私を引き上げてくれたと思います。
当時私はチャゲ&飛鳥が好きだったのですが、この彼に「飛鳥だけで
充分なのに」ということを言ったら、「そんなことはないよ、彼らは
チャゲの上手さに支えられてるところも大きいよ」という話をして
くれました。確かに、そう言われて視点を変えて聴いたら、曲としての
完成度の高さを下支えしているのはチャゲなんだ、と理解できて、
自分の視野の狭さを反省しました。
こういう華やか系の男子が私にとても良くしてくれたという経験は、
私の自己卑下に満ちた性根をまた新たに矯正してくれたと思います。
プチモテも経験して、今で言ったらほぼストーカーな気に入り方をして
くれた人と、友達のふりをして卒業後に「実は…」という電話をくれた人が
いたりもして、私は「ブスで暗くて気持ち悪い勘違い女」から「普通の女子」
に脱皮できたと思います。中学校で男子への接し方を矯正してもらい、
「幸福感知アンテナ」を授かったことで、いろんな世界が開けました。
好きになったり好かれたり、実は双方向で噛み合っていたベクトルも
あったのですが、結果として高校時代に交際と言える関係に至った男性は
いませんでした。デートとは定義しないものの実質デートと言える外出は
けっこうあったのですが。
もう、中学までの私とは全然違います。これも「幸福感知アンテナ」で
素直に幸福や喜びを感じて表出できるようになった賜物と思っています。
私はあまり年上の人に可愛がられるタイプではなく、同世代とグループで
仲よくして、後輩に慕われる傾向があります。
結果として「終の棲家」となった漫画研究会では、弟分として私を慕って
くれる1つ下の男子、今も公私とも絶大な信頼を置いている1つ下の女子、
のちに親友となる2歳下の男子など、大いなる出会いが多数ありました。
なお、我が母校、愛すべきおかしな都立高校は「4年制」と言われていて、
1浪するのは当然という文化でした。先生も受験で使えない変な教え方
ばっかりするし。
そのせいにするわけではないのですが、中学で成績上位だった私が、
そういうレベルの子が集まるこの高校では「ただの人」以下の劣等生でした。
「勉強がわからない」「答えが出ない」ということを初めて経験しました。
クラスで平均点が35点の数学のテスト(100点満点で平均点がそれと
いうのもテストとしてどうなのか!)で、17点しか取れなかった時には、
あまりのショックで東武東上線の終点、寄居まで乗っていくという
現実逃避をしたりもしました。
「そうか、私って、特別な優等生でもなんでもなくて、ただの人だったんだ」
この高校で、私がリアルに実感して理解したことです。
でも、ただの人でしかないけれど、私って楽しくて幸せで、いいよね…
高校時代には、もうすっかり自己愛とパワーにあふれる私になっていました。
そして「4年制」の定説どおり、私は見事浪人しました。
でも「高校の後輩たちともう1年、一緒に遊んでいられる」という感じで
全然悲壮感はありませんでした。
こうして私の人生が大きく変わった中学、高校時代はおしまい。
恋愛は結局、片想いに毛が生えた程度のことしかなく、十代の女子としては
物足りない青春時代かもしれませんが、本当に充実した時期でした。