カンマネの安心したいブログ

御巣鷹山・日航機墜落事故30年

IMG_5109④この事故を風化させてはいけない。
私が新入社員として社会人になった1985年にこの事故は起きた。あの時はフレッシュだった若手新入社員が30年も経ち、会社での過去の歴史を数えるより、定年退職までの年数を数えるほうが早くなってきた。私は特に家族や親類がこの事故の被害者であった訳ではないのだが、当初からこの事故の事が気になり、数年経つと深く研究するようにもなった。30年前は自分自身に遺族感情のようなものがあったからなのかもしれない。大学生のときに妹を病気でなくし、空虚感をもって過ごした大学時代後半。肉親をなくした喪失感を埋めて行くプロセスの途中だったのかもしれないこの時期に事故が起きた。520名もの方が亡くなった背景にはそれぞれの遺族がいる。それを自分にオーバーラップさせたのかもしれない。この世界最大にして最悪の航空機事故を風化させてはならない。二度とこのような事故が起こってはならない。語り継がなくてはいけない。今でも遺族は苦しみ続けている事を忘れてはならない。この区切りの30年に520名の御霊に再度哀悼の意を表したい。

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①事故の概要の振り返り ②事故調査報告書の内容と疑問③実際の事故原因の推測④この事故を風化させてはいけない。4つの大括りの仕立てで記していく。これを記載するに当たって擦り切れるまで読んで2冊目を買った、「御巣鷹の謎を追う」(米田憲司氏著)と「御巣鷹山と生きる~日航機墜落事故遺族の25年」(美谷島邦子氏著)を再読した。



①事故の概要について
当日のJAL123便は、羽田空港を18時00分に出発、離陸後は南西に進んだ後、伊豆大島から西に巡航、和歌山県串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分に到着するというフライトプランであった。離陸から12分後の18時24分、相模湾上空を巡航高度の24,000フィート (7,200m) へ向け上昇中、23,900フィートを通過したところで緊急事態が発生。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され(最期までコックピットクルーは分からず)その際ハイドロプレッシャーシステムの4系統全てに損傷が及んだ結果、油圧を使用したエレベーターエルロン操舵が不可能になってしまった。(ハイドロプレッシャーオールロス)フゴイドやダッチロールを起こした機体は迷走するとともに上昇、下降を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間ものあいだ20,000フィート (6,000m) 以上で飛行を続けた。(この事実は後ほど問題提起したい)

18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギアを降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000フィートから6,000フィートへと一気に15,400フィート (4,600m) も急降下した。その後、機体は少し羽田方面に向かうものの、埼玉県上空で左旋回し群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始めた。しかしJAL123便は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇し始めたが、18時56分23秒、右主翼と機体後部が樹木と接触した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346ノット (640km/h) に達していた。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾いた。同26秒、右主翼が地面をえぐり、同時に機体の分解が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。同28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき、18時56分30秒、高天原山の尾根(当時の正式な呼び方)に前のめりに反転するように衝突、墜落した。以上が離陸から墜落までの概要である。

墜落後の捜索の遅れがこの事故の最も問題のあるところで、先日もテレ朝で特集していた墜落現場の特定が遅くなったことが全ての疑惑に起因する。墜落から約20分後の19時15分頃、米空軍のC-130輸送機が、群馬・長野県境付近の山中に、大きな火災を発見と上空位置での横田タカン方位305度・距離34マイルを航空自衛隊中央救難調整所に通報。19時21分ごろ、航空自衛隊の百里基地を緊急発進したF-4戦闘機も墜落現場の火災を発見して、上空位置での横田タカン方位300度・距離32マイルを通報している。(タカンとはGPSがなかった当時の電波を利用した距離測定システムのこと)。上記の2機はそれぞれ現場との誤差は3.2km・5.5kmである。その後、百里基地救難隊のKV-107ヘリは46分後の20時42分に現場上空に到着した。報告は横田タカン方位291度・距離36マイルである。これの誤差は1.8km。当時としてはほとんど正確である。

にもかかわらず防衛庁の正式な(誤報が乱れ飛んで何が正式なのか分からなくもなっていたが)墜落の位置情報は「長野県南佐久郡北相木村」、「御座山北斜面」であった。これは現場との誤差はなんと8.7kmもあったのだった。映画「クライマーズハイ」でも描かれているが、早い段階から地元消防団や猟友会のメンバーは、墜落地点は御座山ではなくスゲノ沢だと分かっていたのである。なぜ米軍や自衛隊の報告を信じず(聞き流して?)はるか遠い場所を墜落地点としたのだろうか。結局、現場が確認、特定されたのは朝4時30分を過ぎてからだった。そしてさらに実際に救難活動が開始されたのは、墜落から14時間後の午前8時30分だったのである。もっと早く現場の特定が出来ていれば(出来ていたのに救助を遠ざけなければ?)夜中でも陸からと空から救難救助にあたり、もっと多くの人々が助かっていたのである。【概要の一部の文章はウィキペディアより引用し加筆、修正】


②事故調査報告書の内容と疑問
運輸省航空事故調査報告書の要約は以下のとおり。『本事故の原因は、同機が事故の7年前(1978年)大阪空港着陸時に起こした尾部接触事故の修理に際し、ボーイング社により行なわれた後部圧力隔壁の上下接続作業の不具合にあり、7年間の飛行でその部分に多数の微小疲労亀裂が発生、次第に伸長し、この飛行で隔壁前後の差圧が大きくなった時点で亀裂同士が繋がり一気に破壊が進み、2乃至3平方メートルの開口部ができたものと推定される』 すなわち単純に「ボーイング社の所為」という事。映画クライマーズハイで「ちょっと出来すぎちゃいませんかね、この話」という佐山(堺雅人)の台詞があるが、まさに出来すぎている。事故後わずか1ヵ月後にボーイング社は自らの非を発表している。「乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名」「死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故でも世界最多」「であるうえに史上最悪」な事故をいとも簡単に認める航空会社。下手したらどこの国からも買ってもらえなくなり倒産するかもしれないほどの重大事故にもかかわらずこの迅速さ。

「ここはひとつ、全面的にそちらのせいという事で。未来永劫あんたのとこから飛行機買うからさ。エアバスのシェアは小さくするからさ。本当の原因を発表したら大変なことになるからさ。ね、今回は借りということでおたくのせいって事にしといてよ」と、誰かがそう言ったとはどこの新聞にも著作にも書いてはいない。ボイスレコーダーで機長は何度もディセンド(緊急降下)と叫んではいるが、実際は降下していない(降下できなかった)現実を直視する必要がある。事故の経緯の欄で書いたように、当該機は20,000フィート (6,000m) 以上を20分近く飛行している。事故調の報告書は圧力隔壁に穴があいて急減圧が起こったとある。要は地上から一気にエベレストの8合目の高度に、丸腰で連れて行かれたということ。気温マイナス40度、空気は地上の半分。そんな状況だったら寒くて仕方がなく、全員が高山病になるはず。生存者の証言によるとそれほど寒くはなく高山病の症状もない。そして何よりコックピットはボイスレコーダーによると最期までマスクなしで操縦しているのだ。これは急減圧自体がなかったことの証と言えるのではないのか。



③実際の事故原因の推測
この事故に関する書籍を数多く読んだと記した。中には米軍のミサイルで撃墜されたとか機内の要人の暗殺だったなど、荒唐無稽なストーリーもある。ただ私はこの事故(事件)の真相は以下のとおりだと思っている。前述のとおり、圧力隔壁の破壊が先で垂直尾翼を飛ばしたとする事故調の報告書にはやはり無理がある。急減圧は発生していなかったという方が自然である。圧力隔壁が壊れたのは墜落のショックからだと考えられる。それではなぜ垂直尾翼が飛んだのか。それはボイスレコーダーの「オールエンジン」の箇所に答えがある。その一言は何回聞いても「オレンジギア」か「オレンジエア」である。「オレンジ」の「ギアもしくはエア」はあの飛行物体しかない。当該機は外的要因で垂直尾翼を失ったと思われる。ただ結局のところ全ては推測に過ぎないので、これ以上ここで述べる事はここでは避けたいと思う。なぜこのような疑惑が多いのか。それは機体の残骸を相模湾の底から全てを引き上げていないからである。全ての疑いはそこにある。どれだけコストがかかろうが、どれだけ日数がかかろうが、相模湾から残骸を引き上げ徹底的な現場現物検証が必要だったはずなのだ。

2013年7月に運輸安全委員会事務局長名が、世間のいろいろな疑問に対して34ページ立てで解説を出した。急減圧の存在を流体力学の論理で解説し、急減圧はあったが感じないこともあるという事を一応は学術的論理的に説明した。さらにコックピットで酸素マスクをつけなかった理由は、理屈を幾重にもこねながらも最終的にはよく分からなかったとしてある。これだけ後になって書類を出してきたのは、遺族も世論もあまりに納得できない事故調の報告書だったからだ。この書類をもって遺族の皆様は決して納得は出来ないと思う。どうにも報告書に強引に合わせていく、いわば後付け的な言い訳にしか見えないからだ。
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