今日も訪問有難うございます。予告通り、「真田陣営」の光の世界に入って行きましょうね。
松の木のライトアップですね。
この様な、セッティングです。
忍者らしい、音楽が流れていて、結構、見ごたえがありましたね。
大阪なんで、通天閣をバックに入れての撮影です。
真田幸村
真田幸村は父・昌幸がまだ武田信玄の家臣であったころ、甲斐国甲府にて生まれた。本名、真田信繁。次男。信繁の名は「川中島の戦い」で散った信玄の弟・武田信繁(信玄に匹敵する名将で兄をかばって戦死した)を敬慕して父がつけたもの。幸村が8歳の時、「長篠の合戦」で武田軍は敗北し、この戦で父の2人の兄も討死した。1582年には「天目山の戦」で信玄の子・勝頼も自刃し、これで主君の武田家は滅亡する。
この戦の帰り、わずか300人で敗走する真田軍は北条軍4万と遭遇する。発見されれば瞬殺だ。すると15歳の幸村が「父上、私に策があります」と昌幸に進言した。それは無地の旗に北条方の武将の紋(永楽通宝)を描くことだった。しかし、味方のフリをして逃れても怪しまれたら終わり。だが、疑う隙も与えぬ方法があった。夜襲を掛けるのだ。真田軍は50人ずつ分かれ、6方向から襲撃して人数が多いように見せた。
北条側は旗を見て自軍の武将が裏切ったと思い大騒ぎ。その混乱に乗じて敵陣を突破した。6つの旗に銭が描かれたことから、これにちなんで幸村の旗印は「六文銭」の紋になった。また、三途の川を渡る船賃は6文とされ、当時は棺の中に六文を入れたことから、“真田隊はいつでも死ぬ覚悟が出来ている”という気概を象徴した。
少々、ご説明も入れておきます。
今日は、ここまで。
本日も、訪問有難うございます。
*このブログ「情熱親父の心晴天Part2」の写真・文章・記事全ての無断転載・コピーは、一切、固く禁じます。ブログのサブタイトルにもありますように著作権は管理人にすべてあります。御理解、ご了承くださいませ。
一日、1回応援お願いします。
にほんブログ村 元気の源。ランキングに参加してます。応援ポチ3つ押して頂けますと更新の励みになります。宜しくお願い致します。
にほんブログ村
人気ブログランキングへ こちらも、1日、1回応援お願いします。