仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

(28)HP(理法【019】やさしさの起源)

2020-04-28 23:40:00 | 日記
理法【019】やさしさの起源


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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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⭕ホームページの引用始まり⭕


やさしさはどこから来るのでしょうか? 人々は、「それは、きっと生まれてからこれまでに得た経験や人として持って生まれた人情に由来するのであろう」と 漠然と考えているかも知れません。 しかしながら、真実のやさしさは、人が個人的な経験によって獲得したものでは無いのであると知られます。 また、真実 のやさしさは、人類が長い年月を重ねて熟成させてきた文化、すなわち人情(感激)や人情のエッセンス(感動)から出てくるものでも無いのであると知られる のです。 真実のやさしさの起源(ルーツ)は、それらよりもさらに深いこころの場所と言うべきところにあって、各自の因縁によって突如として表層に突き上 げてくるものであるからです。

人々は、やさしさが顕わになるときには、それと同時に胸を震わせる深い感動を生起するものだと思い込んでいるかも知れません。 しかしながら、真実のやさ しさはそのような動揺した意識の中で現れるのでは無く、まったく揺らぐことのない研ぎ澄まされた意識の中で顕わになるのです。 実際に、覚りに向かいつつ ある観の終着点において人がその〈特殊な感動〉にひたっている間、心は完全に冷静であり、平静であり、まったく揺らぎがないことを知るのです。

真実のやさしさがもたらすこの〈特殊な感動〉は、それが「生まれて初めて味わった感動である」ということが本人に知見されるため、それがそうなのだと主観的に判別できるのです。

なお、人類が作為した世間的な「感激」や「感動」には、次のような共通点があると言ってよいでしょう。

 (1)繰り返し味わうと、飽きがきて感動(感激)しなくなる
 (2)どれもこれも突き詰めれば似たような「感激」であり「感動」であることに気づく

一方、真実のやさしさがもたらす〈特殊な感動〉には、(1)、(2)のようなことが無いのです。 それによっても、それが真実のやさしさによってもたらされた特殊な感動であることを知ることができるでしょう。


[補足説明]
それが生まれて初めて味わった感動であるということを指して、金剛般若経では『応無所住而生其心』、すなわち「住する所無くして、しかも其の心を生ずべ し」と述べています。 ここで、住する所が無いとは、いかなるものにも寄りかかることが無くしてという意味であり、平たく言えば生まれる前から内在してい る何かであるというべき「それ」という意味です。


⭕ホームページの引用終わり⭕


真実のやさしさを法の句として、表現するのが、善知識となり、それは

真実 のやさしさは、人類が長い年月を重ねて熟成させてきた文化、すなわち人情(感激)や人情のエッセンス(感動)から出てくるものでも無いのであると知られる のです。 真実のやさしさの起源(ルーツ)は、それらよりもさらに深いこころの場所と言うべきところにあって、各自の因縁によって突如として表層に突き上げてくるものであるからです。」

とのことです。

SRKWブッダの最新の著書「ブッダの世界観: しあわせの境地に至るために」によれば、法の句の出自である法界と呼ばれている場所とは、遺伝子の一部として存在しているという仮設を立てることができるとあります。



(27)HP(理法【018】安心・安楽・安穏)

2020-04-15 05:42:18 | 日記
理法【018】安心・安楽・安穏


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⭕ホームページの引用始まり⭕

人は、あるものにすっかりと心をあずけることによって、「安心」「安楽」「安穏」を得ることができます。



安心: 信頼する人(親や師)に心をすっかりとあずけることによって、安心を得ることができます。 しかしながら、心をあずける人がいなくなってしまうと、それと同時に安心も消え去ってしまいます。

安楽: 人類が共有する普遍的感動(人類の叡智)にひたりつつ、それを以て近しい人々に心をすっかりとあずけることによって、安楽を得ることができます。 しかしながら、安楽の根拠たる人類の叡智(集合的無意識の一側面)は、社会的・文化的背景の違いによって互いに軋轢を起こしやすく、それが唯一、最高の答えでは無いのだと知られます。 また、人類の叡智は、それ自体が時代とともに変化している常ならぬ性質のものであるために、それに依拠して得た安楽が長く続くことはありません。

安穏: 完成した正しい平等心を以て衆生に心をあずけることによって、揺るぎなき、虚妄ならざる安穏の境地(ニルヴァーナ)に至ることができます。 すなわち、かの人は智慧に生きることが安穏であると知るのです。 なお、智慧は人類が作為したものではないゆえに、如何なる文化の影響をも受けることがなく、またそれは時代とともに変化することもありません。 この智慧によって至った安穏(ニルヴァーナ)こそが、この世における唯一の、不滅の安穏の境地であるのです。


[補足説明]
安心は、人間関係にひたっています。 一方、安楽は現実の人間関係を敢えて排斥し、魂に生きる道を選んだ結果です。 これらは、どちらも人間関係ということに依拠した境地という点では共通しており、それゆえに移ろいゆくもの、無常なる境界に過ぎません。 しかしながら、安穏は人間関係自体から正しく離れた境地です。 すなわち、安穏は人(相手)と時と場所を選ぶことなく成立する不動の境地であり、この境地だけが如何なる他者にも依存せず自らのみを正しく依りどころにしているのです。

[補足説明(2)]
安心は名称(nama:個人的経験)に立脚した精神の安定であり、安楽は形態(rupa:人類の集合的経験)に立脚した精神の安定であり、安穏は仏智(諸仏の誓願:作られざるもの)に立脚した精神の究極の安定です。

⭕ホームページの引用終わり⭕


安心・安楽ではなく、安穏を目指すべきであると読み取れます。


(26)HP(理法【017】善き言葉)

2020-04-13 05:59:40 | 日記
理法【017】善き言葉


⭕ホームページの引用始まり⭕

<善き言葉>には、特筆すべき特徴があるのだと知られます。 それは、次のことです。


○ 最初も良く、中程も良く、終わりも良い

明知の人は、<善き言葉>を聞き分けて、法(ダルマ)を識り究めるものとなれかし。


[補足説明]
言い過ぎず、言い足らず、丁度良く語られた無上の言葉。 落ち度の無い、後悔を生じない言葉であり、それゆえに語り聞いて後味のよい言葉、最上の美味なる言葉であると知られます。

⭕ホームページの引用終わり⭕

今回は短い理法ですが、
明知の人は、<善き言葉>を聞き分けて、法(ダルマ)を識り究めるものとなれかし。」

とあるので、聞き分けることによって、識り究めるものとなると、読み取れます。


(25)HP(理法【016】信)

2020-04-10 06:41:32 | 日記
理法【016】信

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⭕ホームページの引用始まり⭕


人が一切の疑惑を超えてこころに信じるべきことは、次のことであると言ってよいでしょう。

○ 人は実はやさしい

たといある人がどんなに冷たく、意地悪に見えたとしても、かれは実はやさしいのだということを信じるべきであると真実を知る人は語るのです。 なんとなれば、人(=衆生)は誰しも、自分ならざるもの(名称と形態(nama-rupa))に突き動かされている存在であり、本来の自分(本性)を出せないばかりか、善かれと思って愚かな選択をしてしまうのであるからです。 そして、誰であろうとも、同じ状況におかれたならば、かれと同じ行動を(善かれと思って)選択してしまうに違いないと言えるのです。 したがって、ある人がどんなに冷たく、意地悪に見えたとしても、決してその人の本質がそのようであるのでは無く、もしその人の立場に立たされたならば、自分も(善かれと思って)その人と同じ行動を選択してしまうであろうということに思いを馳せなければならないのです。

すなわち、

 □ この世には誰一人として冷たい人などいない
 □ この世には誰一人として意地悪な人などいない

のである。 すべての人が実はそのようであると根底において人を信じることが、<信>の本質であると言ってよいでしょう。 そして、それと同時に、自分自身も真実のやさしさを理解できる存在であるということを、自ら信じることが<信>の(もう一つの)本質であると言ってよいのです。 つまり、人を信じることと自らを信じることとは同時に確立すべきことであり、どちらか一方だけ立てるという訳にはいかないのです。 なぜならば、外的な信と内的な信は、実は本来一つの信の二つの側面であるのだと知られるからです。 そして、まさしくそのように<信>を理解できたときが真実の信を掴んだ瞬間であり、かれは同時に平等心の何たるかを掴んだのであると認めてよいでしょう。

世間においてどんなに楽しそうに見える人でも、かれのこころの奥深くには悲哀があり、苦が同時進行しているのだと知らねばなりません。 ある人が、いかにも傲慢で、いかにも自分勝手で、人の気も知らずに本人だけが楽しんでいるように見えたとしても、まさしくそのように見える人であったとしても、かれ自身こころの根底では苦しんでいるのだと知らなければならないのです。 たとい、本人に悲しみや苦しみの自覚が無くとも、やはりかれはこころの根底では苦しんでいるのだと知らねばなりません。 かれは根元的無知(無明)ゆえに、その末路において必ず苦に追い込まれてしまうことになるからです。 つまり、かれは、他の人から羨ましがられるような人ではなく、他の人がむしろ思いやってあげるべき人なのだと言えるのです。 いかにも傲慢に見える数多の振る舞いもかれの本意では無く、かれは自分ならざる衝動に突き動かされているのだと見なくてはなりません。 そして、こころある人は、そのような人をこそ他の誰よりもこころに信じて、真実に思いやって、慈しみ、味方になってあげるべきであると言えるのです。

たとえ、ある人が自分のことを嫌っているとしか思えなくても、実際にはその人はあなたのことを狙い打ちして嫌っているわけではありません。 その証拠に、かれはあなただけでなく、特定の条件が整ってさえいれば誰をも嫌う人であるからです。 逆に、そのような特定の条件が整うことさえなければ、かれは誰とでも仲良く付き合うことでしょう。 もし、かれがあなたと同じ部署でなかったならば...、年齢がもっと離れていれば...、同性でなかったならば...、あるいは異性でなかったならば...、同じ目標を掲げていなかったならば...、あなたがかれに嫌われることはおそらく無いでしょう。 同時に、もしそうであれば、あなたもその人を嫌うことは無いでしょう。 それとは逆に、今現在はとても親しくしている人であっても、もしその人があなたと同じ部署であったならば...、年齢が近かったならば...、同性であったならば...、あるいは異性であったならば...、同じ目標を掲げていたとしたら...、あなたがかれに嫌われないとも限らないのです。 あるいは、あなたがかれを嫌わないとも限らないのです。 つまり、あなたが現実に嫌っているかれが座っているその(心理上の)ポジションに、別の誰かが座るならば、今度はその別の人をあなたは嫌うに違いありません。 このように、好き嫌いなどの感情は、自分ならざる事由で生起している形式論理的な世界に過ぎず、特定の誰かとあなたというユニークな人間関係において恒常的に顕れるものでは無いと知られるのです。 それゆえに、このことわりを理解する人は、他の誰かと接するときには予めその人を嫌うべきでは無いし、好きになれないとしても、根底においてはその人のまことを信じるべきであると言えるのです。

人がこのあり得べき<信>を自ら確立したとき、上記のことがまさしくそうなのだと知ることになるでしょう。 そしてそのとき、人は好き嫌いなどの感情を超えた、人間関係における本当の安心を知ることになるでしょう。

⭕ホームページの引用終わり⭕


抜き出しまとめてみると、


人間関係でいろいろあったとしても、その相手がいじわるで、冷たかったとしても、

相手の人(=衆生)は誰しも、自分でない何か(名称と形態(nama-rupa))に突き動かされて、本来の自分(本性)を出せないでいる。

誰であろうとも、相手と同じ状況におかれたら、同じ行動を(善かれと思って)選択してしまう。

本来の相手(本性)はというと、

○ 人は実はやさしい

と言える。

そのため、本来の自分も実はやさしい

相手も、自分も、本来やさしいということを理解できるということを、自ら信じることが<信>である。

となります。

ここで、

(名称と形態(nama-rupa))に突き動かされて、本来の自分(本性)を出せない。

とありますが、(名称と形態(nama-rupa))が脱落した、本来の自分(本性)が、ブッダということになるかと思います。




(24)HP(理法【015】大事(一大事))

2020-04-08 07:08:09 | 日記
理法【015】大事(一大事)


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1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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⭕ホームページの引用始まり⭕


<大事(一大事)>とは、そのことによってすべてが集約され、すべてが明らかになる局面のことです。

「何は無くてもこれだけは...」というその「それ」が大事なことであると知られます。 そして、大事なことが何であるかをはっきりと自覚した人は、僅かなもので多くのこと知り、僅かなもので多くのことを得て、僅かなもので種々さまざまな局面に正しく対応できるようになるのです。

ところで、大事な局面とはいざというときのことです。 すなわち、いざというときに自分の何たるかが分かり、いざというときに人の何たるかが分かるからです。 たとい普段は互いに言い争い、反目し、嫌っていたとしても、ことに臨んで、

 ○ いざというときに、乏しき中から少しでも多くを与えようとする人こそが富める人であると知られる

 ○ いざというときに、謂われのない非難を甘んじて受けて耐え難きを堪え忍ぶ人こそが賢い人であると知られる

 ○ いざというときに、人知れず事を為してしかも自分を誇らない人こそが誠の人であると知られる

 ○ いざというときに、思いつきでなく熟慮し、言いたいことを軽々しく言わずに言葉少なく真実を語り、敢えて出しゃばらない人こそが心強い人であると知られる

 ● いざというときにやさしい人こそが、<真実にやさしい人>であると知られる

のであるからです。

このように、いざというときにすべてが決まり、いざというときにすべてが明らかになるのです。

さて、およそひととして生まれた人が、一生の中で為すべき最も大事なことを<一大事>と名づけます。 なぜならば、もし人が<一大事>を得るならば一切が明らかとなり、一切の苦悩から解放されると知られるからです。 もし人生に生きる目的というべきそれを(言語表現として)認めるならば、人は自分の一生の中で遭遇するであろう多くの大事の中にあって、唯この一つのことを知るために生きているのだといっても過言ではないでしょう。 ところで、<一大事>を発見するのは自分自身ですが、それを「それ」だと教えてくれるのは善知識(=善き言葉,=善き行為)と名づけられるその人です。

それゆえに、明知の人は、よく気をつけて世間を遍歴する人であれかし。


[追記]
他の人が、あなたのことを大事に思ってくれているかどうかは最後まで分からないことであり、また実のところ、それをどうこうできるものでもないでしょう。 しかしながら、あなたが他の人のことを大事に思うことは、それはつねにできることであると知られ、少なくともそのことについて突き詰めることは誰しもが出来ることであると言ってよいでしょう。 決してけしかけるわけではありませんが、ここに人があって、もしこのことを知ってそれが本当に大事なことだと心から思うならば、かれは実に為すべきことを自ら見いだしたのであり、そのひととしての思いのあり得べき帰趨たる(ひとつの)<一大事>について深く理解したのであると言っても過言ではないでしょう。


⭕ホームページの引用終わり⭕


今回は引用だけで終わりです。