仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

(14)HP(理法【006】名称と形態(nama-rupa ):名色))

2020-02-28 16:40:11 | 日記
理法【006】名称と形態(nama-rupa:名色)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

今回の理法006(名称と形態)は、内容が難しいです。


先取りして、その一部を見てみます。


🔷名称と形態のために素直なこころ(=真如) を働かせることが出来なくなっている

🔷しかも自分自身ではそのことに気づいてさえいない
🔷名称と形態(nama-rupa)を滅尽することが即ち解脱

🔷その結果顕れるのが覚りの境地(=ニルヴァーナ)

🔷人は解脱するとその瞬間からまったく内外界の影響を受けない禅定の境地に入る

🔷(本当の)禅定とは、一旦揺れ動いたこころが元どおりに復帰する過程では無く、一切に関して何が起ころうとも最初からまったく動じない境地を指して言う言葉


⭕ホームページの引用始まり⭕


名称と形態(nama-rupa:名色)とは、ユング心理学(分析心理学)に代表される深層心理学の言葉を(説明理論として)借りれば「個人的無意識」と 「集合的無意識」の作用のことだと言って大過ないでしょう。 このような言葉が出てくるのは、覚りの境地に至った人が分析的に人の心を大きく3つの階層に 分けて考えた結果です。 すなわち、人々(衆生)が自分自身だと思っている自我意識やペルソナの作用が表層意識としての自我(自我コンプレックス)であり、その下層に位置する自我の他の可能性であるシャドウや抑圧されたコンプレックス人格などを含む個人的無意識にあたるのが「名称(nama)」です。  さらに、それらの下の層に位置して元型(アーキタイプ)群およびグレートマザーという形で人類全体を貫いて共通に存在する集合的無意識にあたるのが「形態 (rupa)」です。

これらについて、原始仏典の別の表現(テーリーガーター:尼僧の告白)では名称を「刀」、形態を「串」のようだと形容しています。 確かに、名称作用は自 我を脅かしてこころを動揺させる刀のようなものであり、ユング心理学に言うシャドウやコンプレックス人格が自我に及ぼす作用そのままです。 一方、形態作用は人類の歴史的経験のエッセンスというべきものであって、そのように凝縮されたイメージの潜在形成力が全人類を貫くように投影されていて、個々人が有す る縁に応じて適宜各自の自我意識に深い影響を与える集合的こころ(として認知される心的作用)のことですから、串という形容は実にまとを得ています。

なお、名称と形態を現代の言葉で平易に表現するならば、次のように言ってよいでしょう。

 名称作用: 一切を認識したときに同時に生じるある種の心的余韻作用
 形態作用: 一切を認識したときに同時に生じる心的変換・増幅作用(心的アレルギー作用)

ここで、心的余韻作用とは、肯定的には例えば思い出の味やなつかしい心地よさなどとして現れる認識ですが、否定的には嫌な思い出にもとづく不快な感情や嫌 悪、トラウマによる自己制御の困難などとして現れます。 一方、心的変換・増幅作用とは、肯定的には例えば極微量の出し汁の作用による味噌汁の旨みの認識や芸術的映画や音楽を鑑賞したときに生じる胸震わせる感動などとして現れるこころ細やかな快の認識ですが、否定的には理由もなくわきあがる怒りや恐怖、焦燥感などのいわば心的アレルギー作用として現れます。

やや強引に譬えるならば、心的余韻作用とは幻の如きものであり、心的変換・増幅作用とは錯覚の如きものであると言ってよいでしょう。 そして、この名称と 形態(nama-rupa)こそが、我ありという認識の根元(=我執)を為しているものなのですが、これらは実は自性ならざるものであると知られるので す。

名称と形態(nama-rupa)を、こころを覆う障害としてとらえた般若心経では、それらをケイ(網頭らに圭)・ゲ(礙)と呼び、ケイが引っ掛かり、ゲ がさまたげるものであるとしています。 不快な心的余韻作用は、対象に関するまさに「心の引っ掛かり」であるし、心的アレルギー作用は目前の行動に対してまさにこころをさまたげるもの(心奥の障害)と言えるでしょう。 それは、たとえば特定の食べ物アレルギーのある人が、目の前に出された食事の中にアレル ゲン(その人におけるアレルギーの原因物質)が含まれているのではないかと疑い、食べる前から恐れおののくようなものです。 アレルゲンが含まれているかどうかは実際に食べてみなければ分からないことであるし、食べてアレルギー症状が現れたときには時すでに遅く、アレルギーの苦しみを生じることがもう避け られません。 このため、アレルギー体質の人は、目の前に出された食事を、何も考えずに摂ることが出来なくなってしまうことでしょう。 あたりまえのことが、あたりまえに出来なく無くなってしまうことでしょう。 これが、こころのさまたげです。 それと同様に、人々(衆生)にはケイ(網頭らに圭)・ゲ (礙)と名付くべき心的障害がつねにつきまとっているのであり、そのために素直なこころ(=真如) を働かせることが出来なくなっているのだと考えなければなりません。 そして、それゆえに人々(衆生)は、あたりまえのこころをあたりまえに表出できなく なっており、しかも自分自身ではそのことに気づいてさえいないのです。 この知り難きこころの障害の根元こそが、名称と形態(nama-rupa:名色) に他なりません。

ところで、名称と形態(nama-rupa)を滅尽することが即ち解脱であり、その結果顕れるのが覚りの境地(=ニルヴァーナ)です。 このため、人は解脱するとその瞬間からまったく内外界の影響を受けない禅定の境地に入ることになります。 なぜならば、それまで名称と形態(nama-rupa)にもとづいて起こっていた外界および内界との関わりによる「心的余韻作用」と「心的変換・増幅作用」が根こそぎ消滅するからです。 すなわち、(本当の)禅定とは、一旦揺れ動いたこころが元どおりに復帰する過程では無く、一切に関して何が起ころうとも最初からまったく動じない境地を指して言う言葉です。

なお、釈尊の原始経典の一節では、名称と形態(nama-rupa)によって生じるそれぞれの心的作用が表象作用と感受作用であると認め、解脱の境地を次のように記しています。

○ 身体を壊り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。(ウダーナヴァルガ)


[補足説明]
唯識でいう「末那識(まなしき)」は名称(nama)作用を呼び起こす根元であり、「阿頼耶識(あらやしき)」は形態(rupa)作用を呼び起こす根元で あると考えてよいでしょう。 これらの二つの識を超えた真実の識として、唯識では「阿摩羅識(あまらしき)」を立て、それに至り住することが解脱であるとしています。

[補足説明(2)]
いわゆる煩悩の正体を指して「客塵」と言うのは、集合的無意識宛に他の人々から日々送られてくる人類共通の業(カルマ)の様子を示しています。 このどこからともなくやって来て塵のように降り積もる業が、人類共通の精神的遺産として受け継がれたものの総体が、すなわち形態(rupa)であるからです。


⭕ホームページの引用終わり⭕


(13)HP(理法【005】尊敬されるべき人→周利槃特 )

2020-02-27 06:07:33 | 日記
理法【005】 尊敬されるべき人
〔関連するもの〕周利槃特(チューラ・パンタカ)の覚り


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

⭕ホームページの引用始まり⭕


覚りに至るためには、果たして書物や人づてなどで見聞きした知識や見識、あるいは分別、様々な人生経験などが必要なのでしょうか? 私は、それらは別に必要ないと考えます。

[チューラ・パンタカ(周利槃特)の覚りの話]
チューラ・パンタカは、物覚えの悪い人で、釈尊から教えてもらった覚りに役立つ詩をただ一つさえなかなか覚えきれず、詩の2行目を覚えた頃には最初の一行を忘れていたというほどであったと伝えられています。 しかしながら、チューラ・パンタカは釈尊から勧められて始めた「草履拭き」の作務をこなしていく中 で、見事に覚りに至ったということです。

[チューラ・パンタカは何を覚ったのか]
チューラ・パンタカの覚りは、釈尊の覚り、すなわちブッダとしての覚りと基本的には同じものであったろうと私は思います。 すなわち、それはニルヴァーナ の顕現であり、四苦八苦の滅尽であった筈です。 すなわち、人々(衆生)は釈尊から得たものと同じものをチューラ・パンタカからも得、釈尊が衆生から手に 入れたものと同じものをチューラ・パンタカも同様に手に入れたであろうと考えられます。

** 推測 **
チューラ・パンタカの覚りの経緯についての詳細は割愛しますが、要するに短い文章をも記憶することができないようないわば知能の薄い人々でも、慈悲喜捨のこころがあれば覚りを開くことができるという話です。 以下は、その顛末を私が推測したものです。

---------------
* 途中までの話は一気に割愛 *

釈尊) チューラ・パンタカよ。 そなたはこの布を使って、人々の履き物を磨くことを作務とするが良い。
チューラ・パンタカ) わ・か・り・ま・し・た

チューラ・パンタカは、その日から釈尊に来訪者があるとそれらの人々の履き物を誠意をもって磨く毎日であった。

チューラ・パンタカ) ふ・し・ぎ・だ。 このぬのは、はきもののよごれをただくっつけるだ。 そ・し・て.. このぬのはあらえばまたきれいになるだ。

 そのような日々が続いたある日..

来訪者) 釈尊よ。 私は、このことについて質問があるのです。 是非、教えを頂きたいのです。

 来訪者は、何かにとりつかれたように、釈尊に法を質問する。 釈尊は、これに応える。

釈尊) ....と私は説くのである。
来訪者) ありがとうございます。 あなたは、倒れる者を起こすように.... 

 来訪者は、釈尊の教えを受けて、安心し、穏やかになり、満面の笑みでその場を退席する。

来訪者) 私の履き物はどこへ? あった。 おお。 綺麗に磨いてある。 これは一体?  

 その横で、チューラ・パンタカが他の人々の履き物を一心に磨いている。

来訪者) チューラ・パンタカさん。 あなたが、私の履き物も磨いてくれたのですか?
チューラ・パンタカ) は・い。   そ・う・で・す・だ。

来訪者) ありがとう チューラ・パンタカさん。 {来訪者は満面の笑み}
チューラ・パンタカ) い・い・え。 ど・う・い・た・し・ま・し・て。 {パンタカも満面の笑み}

チューラ・パンタカ) こ・の・ひ・と・も.. ほかのひとたちとおなじように、くるときはすごいかおでやってきたけれど。 かえるときには え・が・おだっただ。  おしゃかさまはすげえだ。 おらも、おしゃかさまのようになりてえだ。

 そのような日々がさらに続いたある日

来訪者) 釈尊よ。 私は、このことについて質問があるのです。 是非、教えを頂きたいのです。

 来訪者は、何かにとりつかれたように、釈尊に法を質問する。 釈尊は、これに応える。

釈尊) ....と私は説くのである。
来訪者) ありがとうございます。 あなたは、倒れる者を起こすように.... 

 来訪者は、釈尊の教えを受けて、安心し、穏やかになり、満面の笑みでその場を退席する。

来訪者) 私の履き物はどこへ? ああ、あった。 おおっ。 綺麗に磨いてある。 これは一体?  

 この日も、その横でチューラ・パンタカが他の人々の履き物を一心に磨いている。

来訪者) チューラ・パンタカさん。 あなたが、私の履き物も磨いてくれたのですか?
チューラ・パンタカ) は・い。   そ・う・で・す・だ。

来訪者) ありがとう チューラ・パンタカさん。 {来訪者は満面の笑み}
チューラ・パンタカ) い・い・え。 ど・う・い・た・し・ま・し・て。 {パンタカも満面の笑み}

チューラ・パンタカ) きょうのこのひとも... ほかのひとたちとおなじように、くるときはすごくくるしいかおできたけれど。 かえるときには え・が・おだっただ。 おしゃかさまは、やっぱりすげえだ。 おらも、おしゃかさまのようになりてえだ。

チューラ・パンタカ) おらは。 どうなりてえだ? おしゃかさまのようになりてえだ? で・も..。 おらは、あたまがわるいだ。 だったら、おらは?  おらはどうするだ? なにができるだ? いや、おらはどうなりてえだ? そ・う・だ..。 おらは、おしゃかさまのように、ひとびとにえがおをあげてえ だ。 そして おらも、みんなのえがおがほしいだ。

チューラ・パンタカ) だども。 それだったら... それだったら、おらはいつもみんなからえがおをもらってるだ。 そうだ おらは、ほしいものをもうもらっているだ。 だったら、おらはこれでええだ。 みんなから、えがおをもらえればそれでええだ。

この瞬間に、チューラ・パンタカは覚りを開いたに違いありません。


チューラ・パンタカが気づいたことは、次のようなことであったろうと思います。

 布は不思議だ。 布は履き物の汚れを一方的に吸い取るように見える。 そして、布は汚れても洗えばまた綺麗になって、また履き物を磨ける。 一方、お釈 迦様も、人々(衆生)の疑問や悪や汚れに常に晒されていてその汚れを一方的に吸い取るように見えるけれども、釈尊は汚されることなくいつも(心は)綺麗で ある。 そして、飽きることなく法を説かれる。 つまり、それは布に似ている。

 釈尊への来訪者は、来るときには苦の状態であるが、理法を聞いて帰るときには満面の笑顔で帰っていく。 ところで、自分(チューラ・パンタカ)に対して も、人々はいつでも,誰でも満面の笑顔をくれる。 〔やあ、この前は有り難う。 履き物が綺麗で気持ちよかったよ と〕 このように、最初は履き物を磨い てくれたお礼に笑顔をくれたけれど、今では道ですれ違っただけでも自分に対して無条件に笑顔をくれる。  だったら、自分も釈尊も同じことをしているでは ないか と。 自分は、最もほしかったものをすでに手に入れているではないか と。

[補足説明]
チューラ・パンタカの話が、ただこれだけのことであるならば、それはある種の哲学的見解に過ぎないでしょう。 しかし、実際には、恐らくチューラ・パンタ カはその瞬間にニルヴァーナの境地に至ったに違いありません。 その瞬間に、貪嗔痴が滅尽したに違いありません。 その瞬間に、まどかなる安穏を手に入れ たに違いありません。

[補足説明(2)]
釈尊とチューラ・パンタカ、二人に共通しているのは「誰に対してもやさしい」と言うことであり、「誰とも敵対していない」と言うことです。 それを心的に行為しているのが釈尊であり、物理的に行為しているのがチューラ・パンタカであると言えるでしょう。


⭕ホームページの引用終わり⭕


チューラ・パンタカの話しは、私が最も好きな話しの一つです。

世間的・社会的な成績、成果、知能、偏差値などなど、一切関係なく覚りの境地に誰でも到れることを示唆していると考えているからです。

SRKWブッダは、ホームページや書籍などから、また、実際の話しを聞いたとしても、世間一般でいうところの、知能が高く、社会的な成果も多々あった方と私は感じています。

令和元年、SRKWブッダに続いて新たに4人の方がブッダとなられましたが、この4方はそれぞれ、背景も異なり、また、世間一般で言うところの評価についても、多種多様であり、そこに世間一般で言うところの価値観による共通点は見出すことができないと考えています。

誰でも覚りの境地に到れる、ということはとても希望が持てることだと考えます。


また、SRKWブッダのホームページや書籍が仮によく理解できないとしても、悲観する必要が全くなく、それでも覚りの境地に到れると考えられます。



(12)HP(理法【005】尊敬されるべき人)

2020-02-26 05:57:05 | 日記
理法【005】尊敬されるべき人

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


⭕ホームページの引用始まり⭕

尊敬されるべき人とは、智慧ある人のことを言います。すなわち、覚りの境地に至った人あるいは善知識である人のことです。では、何故これらの人々は尊敬されるべき人と呼ばれるのでしょうか。

これらの人々は、図らずも慈悲喜捨を体現している人であるがゆえに「尊敬されるべき人」と呼ばれます。これらの人々は、真実にやさしい人であるがゆえに、誰からも「尊敬されるべき人」と呼ばれることになります。これらの人々は、本人がどのように思っていようが実は苦しんでいるのだと感じた相手に対して、彼らを最高の形で救うための答えを今何としてでも探し出してあげたいと無条件に考え、最高の答えを模索しようとこころから努力するやさしい人々です。それは、友に対しても、その他の味方に対しても、誰に対しても、敵に対してさえ区別無くやさしく振る舞う人々です。彼は、誰とも敵対するということが無い人です。彼は、人と争う心を(少なくとも心の根底において)微塵も持たない人です。そのような人であるがゆえに、誰もが(自らの利害、損得を越えて)彼を「尊敬されるべき人」と呼ぶに至るのです。

[特徴]
尊敬されるべき人には、いろいろなタイプの人がいます。勿論、健常者もいるでしょう。しかしながら、そうで無い人もいることでしょう。病気で健康を害している人。事故などで怪我を負った人。後天的に、あるいは生まれながらにして身体障害者である人。やや知能が低い人。その他、あらゆる見かけの人々が尊敬されるべき人であり得ます。身体や頭脳の障害は、尊敬されるべき人を損なうものではありません。 なぜならば、尊敬されるべき人の特徴とは「心に障害が無いこと」であるからです。

[心に障害を為す要因]
意識(我:自我)の下にあって、心に障害を為す要因には大きく二つの種類があります。一つは引っかかり(ケイ)を生じる「個人的無意識」すなわち原始経典に言う「名称:nama」にもとづく障害であり、もう一つは障害(ゲ)を生じる「集合的無意識」すなわち原始経典に言う「形態:rupa」にもとづく障害です。尊敬されるべき人のこころである真実なる素直なこころ、すなわち智慧、すなわち法(ダルマ)は、それらのさらに奥底からそれらの心的障害を超えて突きあがってくるものです。このようなことから、例えば般若心経では、尊敬されるべき人の境地(覚りの境地)を指して心無ケイゲの境地、すなわち心に引っかかり(ケイ:網頭らに圭)とさまたげ(ゲ:礙)が無い境地であると述べているのです。 つまり、尊敬されるべき人とは、名称と形態(nama-rupa)にもとづく心の障害が無い人、あるいはその障害が少ない人のことを指して言う言葉です。


⭕ホームページの引用終わり⭕


善知識は、

図らずも慈悲喜捨を体現している人

真実にやさしい人

本人がどのように思っていようが実は苦しんでいるのだと感じた相手に対して、彼らを最高の形で救うための答えを今何としてでも探し出してあげたいと無条件に考え、最高の答えを模索しようとこころから努力するやさしい人

友に対しても、その他の味方に対しても、誰に対しても、敵に対してさえ区別無くやさしく振る舞う人

誰とも敵対するということが無い人

人と争う心を(少なくとも心の根底において)微塵も持たない人


であるとのことです。


そのような人が発した次のような真理の言葉は、他の人に期せずして善なる道(=覚りの境地に通じる道)を与え、


<善知識>は、それが発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉として特徴づけられ、誰ひとりと して後悔の念を生じることの無い完全な結末をもたらす。


「そのような人であるがゆえに、誰もが(自らの利害、損得を越えて)彼を「尊敬されるべき人」と呼ぶに至る」

とあり、誰もが、尊敬されるべき人と認識できるに違いないと、読み取れます。

ブッダも善知識と同様に、誰もが、尊敬されるべき人と認識できるに違いないと、読み取れます。






(11)HP(理法【004】観)

2020-02-06 07:41:31 | 日記
理法【004】観


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

⭕ホームページの引用始まり⭕

【観】
観は、言ってみれば思索を超えた思索であり、人をして覚りの境地に向かおうとするこころを培うのに役立つものである。なんとなれば、観がまさしく完成しつつあるときに、過去に出会った一大事因縁を想起することを得たならば自ら解脱に至ると期待されるからである。

しかし、観は覚りの修行法そのものではない。つまり、観を完成するだけで覚りの境地に至ることは無いと知らねばならないのである。しかしながら、分かり難いかも知れないが、正しい観によって培われた徳豊かな心はいわば覚りの前提であることは間違いないことである。

なお、世間においては、観を止(シャマタ)および観(ヴィパッサナー)の二つに分けて別々に論じることも聞き及んでいるが、実際には止・観はその両方が相補的に存在するのが本当の姿(実相)である。 → 補足説明(2)を参照。 したがって、本稿では止・観を個別に論じることは行わず、併せて観と表現する。また、観はいわゆる瞑想(メディテーション)や気づき(サティ)とは無関係である。

[観の環境と姿勢]
観は、目を普通に開けて行えばよい。 すなわち、目をつぶったり、あるいは半眼にしたり、どこかの一点を見据えたりする必要はない。またこのとき、特に部屋を暗くする必要は無く、文字が読めるような通常の明るさで問題ない。観は、できれば静かな場所で行うのが良いが、周囲の音や声が特に気にならないのであれば無理に静寂な場所を探す必要はないものである。また観に際して、呼吸を意識的に整えようとしたり、座り方にこだわったり、背筋を無理に真っ直ぐに伸ばしたりする必要もない。つまり、観は楽な姿勢をとって行えばよいのである。

[観の対象]
観は、衆生(苦にあえぐ人々)を観じることである。このとき、架空設定した衆生の姿を観じるのである。 ここに、観において衆生を架空設定するのは、最も悲惨な境遇にいる純粋な衆生の姿を観じるためである。すなわち、純粋な衆生は余りにも悲惨な境遇にあって、かつ余りにも無知であるために、自分自身が悲惨な境遇にいることさえ認識してはいない。つまり、純粋な衆生は自分を救って欲しいなどとは夢にも思っていないのである。そのような衆生を、如何にして救うかについて観じるのが観の本質である。

[慈悲観]
観において、あなたが慈悲に生きることを決心するならば、ついには慈悲心(清浄心:発菩提心)を得ることができるであろう。この決心は、他ならぬ自らがブッダになろうと決意することによって確立される覚りに向かう発心である。すなわち、慈悲観とは、衆生の真実のすがたを目の当たりにして、決して逃げることなく真正面から対峙し、この上もなく悲惨な衆生の苦を如何にして取り除くかについて思索を越えた思索をすることを意味している。この観によって、ブッダの魂が培われる。

[平等観]
衆生を対象とした観において、平等を極めるならばついには平等心(本来清浄心:完成された発菩提心)を得ることができるであろう。この観の終着点において、「衆生」と「ブッダ」は互いに平等の地位と尊厳とを確立するに至る。この観において、衆生は完璧に死ぬことで完全に生かされ、ブッダは完璧に生きる(真に目覚めている)ことで分別を超えた喜捨の本当の意味を理解するに至るのである。このとき、衆生はブッダに全面的にすがりつき、一方ブッダは衆生を全身・全霊で受け止めると同時に、甘んじて苦を受け止めている完成された衆生(へつらわない衆生と名づく)をこころから尊敬することとなる。ここに至って、観を行っている人は、ブッダの立場も衆生の立場もどちらの立場も究極においては対等で変わりが無いことに気づき、自らの立場としてどちらを選択してもよいとさえ思うのである。すなわち、どちらの立場も、究極では優劣を付けられない平等なレベルでのこころの充実と尊厳が安立していることに気づくのである。これを、完成された平等観と名づく。この完成された平等観を知ることが覚りに向けた観の主たる目的であり、そのようにして自ら得たこころこそが完成された発菩提心(ほとんど菩提心そのものと言ってもよい)に他ならない。なお、この観を行う人はあくまでもブッダの立場に立って観ずるべきである。決して誤って衆生の立場に立ってはならない。この観によって、ブッダの行為のもといが培われるのである。

[特殊な感動]
正しく為し遂げられた観の終着点において、人は「生まれて初めて味わう特殊な感動」を知ることになる。その特殊な感動は、生まれて初めて味わったものであるというはっきりとした認識(智)を自ら生じるのである。その特殊な感動は、世間的ないかなる感動とも違っていることをはっきりと理解することであろう。そして、この特殊な感動を知ることが、実は観の本当の目的であったのだと知るのである。

[補足説明]
覚りの前提として、観の完成が不要な人も存在している。彼らは、生まれながらにして観が完成している人であり、善知識と呼ばれる。

[補足説明(2)]
止・観は両方が相補的に同時にあるのが本当の姿であるというのは、例えば電磁波が電界と磁界の片方だけで存在せず、両方が相補的(相依関係)であることによって初めて物理的に実在するということに似ている。(マックスウェル の電磁方程式)そして、電磁波はこの相補性ゆえに伝播するための媒質を無理に必要とせず、自分自身の相補性だけで真空中を伝わって行くことができるのである。(いわゆるエーテルは不要)止・観が相補的であるということも、これに似ている。つまり、止・観は片方だけで自立的に存在できない境地であり、もし存在するときには両方が相補的に同時に存在するものであるからである。すなわち、正しい止(シャマタ)があるときにのみ正しい観(ヴィパッサナー)があり、正しい観が確立したときにのみ正しい止すなわち坐禅(不動の境地)が顕れるのである。このことについて、釈尊の原始経典および慧能の六祖壇教ではそれぞれ次のように記している。

○ 明らかな智慧の無い人には精神の安定統一がない。精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。精神の安定統一と明らかな智慧とが{同時に}そなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。{そのような}修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。個人存在を構成している諸要素の生起と消滅を正しく理解するのに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。(ダンマパダ)

○ ── 善知識よ、われわれの法門は禅定と智慧の両方が根本である。ゆめゆめ誤って禅定と智慧を別だと考えてはならない。禅定と智慧は一体であって二つではない。すなわち、禅定は智慧の主体であり、智慧は禅定の作用に他ならない。智慧が発露するときこころは禅定の状態であり、禅定の状態は智慧によって顕現するからである。善知識よ、これが禅定と智慧が同等なものであるという意味である。覚りの境地を目指す人は、禅定によって智慧が生まれるとか、あるいは智慧を身につけることによって禅定が達成できるとか言って、禅定と智慧を互いに別だとあらかじめ考えてはならない。そのような考え方をするものは、本来一つのものを二つに分けて考える愚を犯しているのである。(そのような見解にとらわれている限り、)いくら口では善いことを言っていても心は善くないことになって、禅定と智慧が離れてしまうのである。こころでも口でも等しく善を想い善を語り、内と外とが一つであってこそ、禅定と智慧は一体となるのである。自らのこころで覚って仏道を行ずるのであり、そのときにはそのようなことについて論争すること自体が無くなるのである。禅定と智慧とがどちらが後だ先だと論ずるのは、そもそも自分を見失ったもののことだと知らなければならない。 ── (六祖壇教)

注記){ }内は当サイトの起草者が付与。

⭕ホームページの引用終わり⭕


似た修行は前から続けていたが、観の修行はその日が初日で、その初日に特殊な感動を生じられた如来がいらっしゃいます。

SRKWブッダのホームページの下の方に、SRKWブッダが著した電子書籍があります。その中に、『観』という標題の書籍もあることから、観が重要であることを伺い知ることができます。

また、ツイッターで「観」のキーワードで抽出すると様々なツイートが出てきます。観の説明の補足に使われると良いかと思います。

【ツイッター】
観(=止観)は、一つの修行法として認められ得るが、決定的な修行法というわけでは無い。つまり、観(=止観)の完成を見なくても慧解脱出来ることが分かったからである。

人間の尊厳を完全に明らかにし、理解することが、修行の本体である。観(=止観)も、省察も、仏教にまつわるあらゆる考験も、すべてはこの一点に集約されるであろう。そこに、苦の本質が明らかとなり、同時に苦の解決も見る。ここに、一つの解脱を生じる。

(10)HP(理法【003】円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ))

2020-02-04 07:30:51 | 日記
理法【003】円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

⭕ホームページの引用始まり⭕

この世に生きる誰しもが、死ぬよりも以前に到達すべき安穏の境地。すなわち、ニルヴァーナの境地(覚りの境地)は、略して説明すれば次のような境地である。

敢えて仏教用語を用いて説明すれば、図らずも慧能が六祖壇教の中で述べているように、三毒が三学に転換した境地と言える。すなわち、次のような境地である。

 貪が消滅して戒に転換した境地
 瞋が消滅して定に転換した境地
 痴が消滅して慧に転換した境地

また、他の用語で表現するならば、次のように言うこともできるであろう。

 情欲が消滅して具足戒(無相戒)に転換した境地
 嫌悪が消滅して不動心に転換した境地
 迷妄が消滅して清浄心に転換した境地

さらに平易な表現では、次のように言ってよい。

 まったく、きょろきょろしない境地
 まったく、いらいらしない境地
 まったく、じたばたしない境地

さて、ニルヴァーナの境地では次のようなことが体現される。

● いずこからか不意にやって来る衝撃音や怒声、罵声にまったく驚かない(どきっとしない)
● 突然、目の前に飛び出た衝撃的映像にまったく驚かされない(ひやっとしない)
● 顔が触れ合うほどの至近距離に、他人が近づいてきても嫌でない(ぞわっとしない)
● 全世界において嫌いな人が一人もいないと確信する(親族や我が子のように見える)
● 他の人の行為に、影響を受けない(おののかない,じれない,せかされない)
● 他の人の行動に、いかなる悪意をも見出せない(悪意が何かさえ思い出せない)
● 他の人の表情に、嫌な顔を見出せない(誰の顔をも目をそらさずに見つめることができる)
● 他の人の表情に、真実の笑顔を見出せない(目が笑っていないと感じる)
● 他の人のくすぐりなどに、煩わされない(自分でくすぐっているのと同じ)
● 争いに巻き込まれることが無くなり、また他の人々の争いを見かけることも無くなる
● (大好きだった人も)お酒を一滴たりとも飲めなくなる(気取りではなく、本当に飲めない)
● あらゆる味わいが余韻を残さず、同時に嫌な味も無い(味や旨みは正常に分かります)
● 時間の遅延、停滞が気にならない(例えば、予想外の渋滞に巻き込まれても平気)
● 過去に為したことについて、気にやむことが一切無くなる(くよくよしない)
● 未来のことについてとくに思い悩むことがない(あくせくしない)
● 身体の中心軸が通り、重心が安定し、つまづかない(動作が基本的に対称的になる)
● ため息をつくことが出来ない(演技さえ出来ない)
● (時を経て)声が響く声になる
● (時を経て)瞳が透き通ってくる
● すべてがそれしかないぴったりのタイミングで起こる
● [諸天および神々が何としてでも仏を守護する]

つまり、ニルヴァーナの境地とは(悪しき、余計な、煩いを生じるような)識別作用が滅尽し、完全にくつろいだ、ときほごされた、怒ることのない、一切と争 わない境地である。したがって、いかなる手段を以てしても、ニルヴァーナの境地に至った人を驚かせたり、動揺させたり、怒らせたり、争ったりすることはできない。

また、ニルヴァーナの境地は、一旦そこに至ればその後は一瞬たりとも途切れることなくその人を安穏たらしめる境地であり、ニルヴァーナを知る人は一瞬たり ともニルヴァーナ以外の境地に堕して住することはない。つまり、ニルヴァーナの境地を維持するために継続して行うべき世間的な努力は何も必要無い。ニルヴァーナの境地は、人類が作為せざる一大事因縁によってのみ顕現する出世間の境地であり、それゆえに一旦そこに至ればあらゆる世俗のことがらから正しく離れることができる境地であると知られるのである。

⭕ホームページの引用終わり⭕

ニルヴァーナに関連し、次のような記述がありました。(このブログで既に紹介したものを含む。)

【覚りの境地(2019改訂版)】
🔷一切の苦悩の滅である。そこに至れば憂いがない。

【ダンマパダ】
🔷192 これこそ安らかなよりどころである。これこそ最上のよりどころである。このよりどころにたよって、ひとはあらゆる苦悩から免れる。

【スッタニパータ】
🔷486 「生まれることは尽きた。清らかな行ないはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。

【ウダーナヴァルガ】
🔷第4章3 たえず思いをこらし、つねに健く奮励する、思慮ある人々はニルヴァーナに達する。これは無上の幸せである。
🔷第21章1 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関してつねに汚されていない。すべてを捨てて、一切の恐怖から解脱している。

【ツイッター】
🔵世人は、仮に世界中の財を我が物とし、かつ世界の唯一の統治者になったとしても満足しない。覚った人は、余計なものが終滅した境地をつねに楽しむ。