仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

(23)HP(理法【014】徳目)

2020-03-31 18:20:08 | 日記
理法【014】徳目


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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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⭕ホームページの引用始まり⭕

およそ世の中には、称讃さるべき4つの徳目がある。 その4つとは、「誠実」「堪え忍び」「施与」「自制」である。

誠実: 自らは世俗的に生きていて、世間の生活においては何事においても情緒が常に安定している人。 好意をもって人と接する人であり、見 かけの優しさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている悲しみを理解することが不得手で我が身可愛さに他の人に憎悪を抱きやすい。 このような 人に欠落している徳目が誠実である。

堪え忍び: 自らは友好的に生きていて、世間の仕組みや成り立ちに詳しく目先が利いて、予め知り得た事柄に対しては何事においても冷静に対 応できる人。 余裕をもって人と接する人であり、見かけの頼もしさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている寂しさを理解することが不得手で自 らの考えに愛着を抱きやすい。 このような人に欠落している徳目が堪え忍びである。

施与: 自らは享楽的に生きていて、世間の出来事に敏感で事件とその顛末に詳しく弁が冴えて、深く理解した事柄に対しては何事においても平 静に対応できる人。 孤高に生きて疑惑を抱えつつ人と接する人であり、見かけの面白さに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている空しさを理解す ることが不得手で他人を見下しやすい。 このような人に欠落している徳目が施与である。

自制: 自らは運命的に生きていて、世間の流れに敏感で将来の展望にすぐれていて、自分の気持ちと合致している限りにおいては何事において も嬉々として対応できる人。 楽しく人と接する人であり、見かけの美しさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている怯えを理解するのが不得手で 自らの心を高ぶらせやすい。 このような人に欠落している徳目が自制である。


総じて、徳とは人が心の奥深くにもっているところの、覚りの境地に向かう素直な心の発露を喚起する基本的心理要素のことである。 それは、通常は抑圧され ていて意識化されることが無いものであるが、縁に応じて不意に意識化されてしまう。 すなわち、自らの意に反して起こる不快感や嫌悪感などがそれである。  つまり、未だ覚りの境地に至っていない人々(=衆生)においては、徳目はいわば顛倒した心理機構として作用している。 それゆえに、人々(衆生)はそうとは知らずに徳をおろそかにしてしまう愚を犯すことになる。

徳行を為すことは難しい。 しかし、徳行に篤いことは人に確かな安楽をもたらす利益(りやく)があるのは確かである。


[補足説明]
ここに徳目を4つ挙げるのは、人々(衆生)の性格が大きく4つのタイプ(類型)に分類されるからである。 すなわち、「思考型」「感情型」「感覚型」「直 観型」の4つの性格タイプである。 このことについて学問的な興味がある人は、ユング心理学の「タイプ論」を参照するとよいであろう。

[補足説明(2)]
ある人にとって、4つのうちのどの徳目が欠落しているかについて直接に、あるいは間接にずばり指摘してくれる人がいる。 かれこそが<善知識>に他ならな い。 もし人が、善知識が発するその言葉を聞いて、自分が人生を密度としては半分も生きていないということに気づくならば、かれ(彼女)は今何を為すべき かについて思い至るに違いない。

⭕ホームページの引用終わり⭕


誠実

堪え忍び

施与(ほどこし与える)

自制(自らを制す)


理法の意味が分からなくとも、この四つの徳目を為していこうとすることが大事だと考えます。




(22)HP(理法【013】平等)

2020-03-30 06:19:00 | 日記
理法【013】平等



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⭕ホームページの引用始まり⭕


<平等>とは、互いに対等で等しい立場であるということです。 言い換えるならば、相手と立場が入れ替わっても構わないという究極のスタンスのことであると言ってよいでしょう。


[例示]
例えば、二人で、一つの鯛焼きを分け合うとしましょう。 平等に分け合うためには、次のようにするとよいと知られます。

○ 一人が鯛焼きを半分に分割し、もう一人が好きな方を選んで自分のものにすること

このようにするならば、分割する方は出来る限りの工夫をして価値が同じになるように分ける努力をするであろうし、また選ぶ方の人はできるだけ利益が多い方を選ぼうとして目を凝らすことでしょう。 互いに嫌な思いをしたくなければ、1/2に分ける努力を怠るべきではないし、また選ぶ方も最良の選択を行う努力が必要です。 このように分け合うならば、互いの立場が逆でもよいと確信を以て言えることでしょう。 また、それぞれがどちらの立場を予め選択するにせよ、互いの立場は仮に決めたものに過ぎず、それの立場がそのままでも、あるいは逆になっても、どちらも不公平では無いと言い切れるに違いありません。 言うなれば、このようなやり方を平等と名づけ、その究極の「それ」が<平等>であると知られるのです。

ところで、平等を真に成り立たせるためには、両者がそれぞれの立場で持てる力を最大限発揮することが前提条件になるのだと言ってよいでしょう。 なぜならば、両者が互いに手抜きをしないで最善を尽くすことによってのみ、確固たる平等としての結論が出てくると言えるからです。 したがって、もしどちらかが(あるいは両者がそれぞれに)手抜きをするならば、見かけ上いかに精緻を尽くしたとしても、その結末はどこか不完全なもの、平等ならざるものに堕してしまうことでしょう。

なお、正しく確立された平等は、当事者にとっても、目撃者(ギャラリー)にとっても、その経緯と顛末を聞き及んだ同時代の人々にとっても、および未来の人々にとっても、すなわちそれを知ったすべての人々にとってのあり得べき模範事例となることでしょう。 そして、正しく確立された平等は、いかなる人々に評定されたとしても、最大級の評価を得ることになるでしょう。

このような平等の最大の利益は、「互いに争うことが無い」ということに尽きると言ってよいでしょう。 それは同時に、大いなる満足を生じ、大いなる安心(平安)の根拠となるのであると(知る人には)知られます。


[補足説明]
覚りの境地とは平等心を極めた境地であり、当然のことながら上記のような行為、条件、評価、利益を完全に備えています。 しかしながら、覚りの境地の実際は、上記で述べたような恣意的な行為、条件、満足および利益を含みつつもそれを遙かに超越した境地であり、想い計らうことなく得られる充足の行為であり、後悔の無い満足であり、究極の利益であり、不動のこころであり、この上ない安穏であると知られます。 つまり、覚りの境地はあらゆる(哲学的)見解の帰結では無いにもかかわらず、あらゆる(哲学的)見解を超えた結果を現出する不可思議な境地であると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
先に述べた鯛焼きを分ける話で説明すれば、ブッダはつねに分ける方の立場に立っています。 すなわち、ブッダの平等観とはこのように為されるべき行為の究極であり、この例で言えば鯛焼きはブッダによって完璧に二つに分割される結果が演出されます。 このため、選ぶ方は分割されたどちらを選んでも同じ結果を見ることになるのです。 つまり、ブッダは、相手(選択者)がどちらを選んでも同じ満足を得るように整えることが出来たということを以て、ブッダの行為としての究極の満足を得ています。 そして、実のところ、ブッダは因縁があってこのような立場で究極の満足を得る行為を為すことを常なる目的として(しかしそれを意識することなく)生きている存在であると知られます。 これを指して、たとえば法華経では、如来は「諸仏の誓願」に生きるのだと記しています。 ところで、同経典には「ブッダには食欲も嫉妬の心も無い」とありますが、これは鯛焼きを完璧に1/2に分割しようとする動機が、世間的な食欲や嫉妬の心から発したものでは無いということを言っています。 あるいはこのことは、究極の満足は食欲や嫉妬の心を動機として得られるものでは無いのであると言い換えても良いでしょう。 そして、それは、何でも(闇雲に)甘受するというような受動的なやり方ではなく、むしろ積極的に、主導的に関わり、自らの本心に従って行為することによって得られるものだと言えるのです。 すなわち、ブッダの境地は、我慢強い境地ではなく、そもそも我慢する必要がない境地であると知られます。

⭕ホームページの引用終わり⭕

たい焼きの例で、平等でないのは、次のときになります。

1 分ける人がいい加減に半分にする。
選ぶ人が全力で大きい方を得る。

2 分ける人が全力を尽くす。
分ける人がいい加減に選ぶ。

3 分ける人がいい加減に分ける。
選ぶ人がいい加減に選ぶ。

本文によると、上のようなとき、
 互いの立場が逆でもよいと確信を以て言えない。
 それぞれがどちらの立場を予め選択するにせよ、互いの立場は仮に決めたものに過ぎず、それの立場がそのままでも、あるいは逆になっても、どちらも不公平では無いと言い切れなくなる。
その結末はどこか不完全なもの、平等ならざるものに堕してしまう。

(21-2)HP(理法【031】一切皆苦の真実 続き)

2020-03-23 06:19:20 | 日記
文字数の制限のため、前回の続きをこちらに。

【法華経】
譬喩品 第三 大長者の家
(ここで記されているものが、一切皆苦を述べていると考えます。)


【維摩経】

みなさん。この身は無常であり、カもないし、堅固でもない。速やかに朽ちるものであって、たよりにすることができない。苦しみであり、悩みであり、もろもろの病の集まる所である。
みなさん。このような身は、明智の者がたのみとしないものである。
この身は聚沫(しぶき)のごとくであり、とらえることができない。
この身は泡のごとくであり、久しく存立することができない。この身はかげろうのごとくであり、渇きのような妄執から生ずる。この身は芭蕉のごとくであり、中には堅いものは存在しない。この身は幻のごとくであり、顛倒した見解から起る。この身は夢のごとくであり、虚妄の見えたものにほかならぬ。この身は影のごとくであり、業の縁から現ずる。
この身は響(こだま)のごとくであり、もろもろの因縁に属している。
この身は浮雲のごとくであり、須臾(しゅゆ)にして変滅する。この身は電(いなずま)のごとくであり、刹那、刹那にほろびて住(とど)まらない。
 この身には主人がない。地のようなものである。この身には我がない。
火のようなものである。この身には生命がない。風のようなものである。
この身には人格主体がない。水のようなものである。この身は実体ならざるものである。ただ地水火風という四大をもって(身体という)家をつくっただけである。この身は空であり、我と我がものとを離れている。
この身は精神的ならざるものであり、草木瓦礫のごとくである。この身は動かす活動主体がない。ただ風のような生気の力に回転されているのである。この身は不浄であって穣悪が充ち満ちている。この身は虚偽であり、かりに澡浴衣食をもって気づかっても、必ず磨滅に帰してしまう。
この身は災いである。
この身(を構成している四大の一つ一つ)に百一の病悩がある。この身は丘嘘の枯れ井戸のようなものである。老いのために逼(せ)められる。この身には定めがない。かならず死すべきものである。この身は毒蛇のことく怨(あだ)をなす賊のごとく、ひとのいない聚落のようなものである。五つの要素、十二のよりどころ、十八の領域がともにあつまって合成したものである。
 ひとびとよ。これは厭うべきものであるから、仏身をねがうぺきである。そのゆえはいかに、というに、仏身とはすなわち法身である。それは無量の功徳・智慧から生じ、いましあ、おちつき、智慧、解脱、解脱したと知る見解から生じ、慈しみ、悲(あわ)れみ、喜び、たいらかな心から生じ、なさけぶかさ、いましめ、たえしのび、柔和、つとめはげみ、おちつぎ、解脱、三昧、学識、智慧というもろもろの美徳の完成から生じ、方便から生じ、六神通から生じ、三つの明知から生じ、三十七のさとりのよすがから生じ、止・観から生じ、十の力、四つの畏れなきこと、仏にのみある十八の特有の性質から生じ、一切の悪いことがらを断じて一切の善いことがらを集めることから生じ、真実から生じ、精励から生じる。このような無量清浄の法から如来の身を生ずる。
ひとびとよ。仏身を得て一切衆生の病を断じようと欲するならば、無上のさとりに向う心をおこすべきである。」
このように維摩長者は、見舞ってくれた者どものために、かたのごとく法を説いて、幾千と数えられぬほど多くの人々をして皆無上のさとりをもとめる心をおこさせた。





(21)HP(理法【031】一切皆苦の真実)

2020-03-23 06:14:00 | 日記
理法【031】一切皆苦の真実


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前回のブログで「人々(衆生)」を見ましたが、関係のある【031】一切皆苦の真実を見てみます。

⭕ホームページの引用始まり⭕

世の一切の感受、すなわち人々(=衆生)が六識(眼耳鼻舌身意)によって感受するすべてのことは、つまるところ苦であるということを一切皆苦と言いならわす。 ここで、一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことが、後にそれとまったく同じことを感受しても苦としか認知されないという意味ではない。 一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことがそのままの形で、それそのものがその本当のところは苦に他ならないということである。 実に、錯綜した認知が苦の真実を歪め、人々が苦をそのまま苦であると正しく認識することは出来なくなっている。 その不幸なありさまを知って、もろもろの如来はこの世はすべてが顛倒している(さかさまである)世界であると語るのである。

実のところ、人々にとって苦は苦として認知されることは無く、たとえ正しい認知を生じつつあったとしても結局は苦ではないものを苦であると誤認して認知する心の仕組みが出来上がっている。 そして、この誤認の仕組みこそが名称と形態(nama-rupa)の作用に他ならない。 その結果、人々には迷妄と妄執とがつきまとうことになる。

人々が名称と形態(nama-rupa)とを心に有する限り、一切皆苦の真実を正しく認知しその仕組みを理解することは期待できない。 たとえ、如来が説く「一切皆苦」という言葉を知っていたとしても、その真実を正しく認知し、理解することはできないであろう。 その様は、人が錯覚図形を見て、それが錯覚図形なのであると頭では分かっていたとしても、錯覚を生じて見えるという認識の事実そのものを回避することは出来ないようなものであるからである。 すなわち、今、この文章を読んで一切皆苦の錯綜したありさまについて心から納得した人であっても、一切皆苦の真実を正しく理解することは難しい。 それほど、一切皆苦の真実は、人々の理解するところから隔たっているのである。

しかしながら、ここなる人が聡明であって、一切皆苦の真実を知ろうと熱望し、次のように観じるならば、その観の完成に伴ってついには一切皆苦の真実を知ることができると期待され得る。

 『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』

すなわち、お金持ちのあの人も、身分の高いあの人も、才能豊かなあの人も、経験豊かなあの人も、意地悪なあの人も、狡猾なあの人も、傲慢なあの人も、自由奔放なあの人も、脳天気なあの人も、若い力がみなぎるあの人も、美とセンスにあふれるあの人も、いかにも健康そうなあの人も..、その他のいかなる人であっても、この世には本当に楽しんでいる人、本当に喜んでいる人など誰一人としていないのであると観じ、その真実を見極めることが苦の覚知を促すのである。 そして、人が一切皆苦の真実をまさしく覚知するに至ったとき、かれ(彼女)はすでに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の近くにあるのである。

⭕ホームページの引用終わり⭕


この内容を一部再度取り出します。(一部表現を私が変えているところがあります。)


○世の一切の感受、すなわち人々(=衆生)が六識(眼耳鼻舌身意)によって感受するすべてのことは、つまるところ苦であるということを一切皆苦と言う。

○一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことが、時間が経過した後になって、それとまったく同じことを感受したときに、苦としか認知されないという意味ではない。 

○一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことがそれそのままの形で、それそのものが本当のところは苦に他ならないということである。

○錯綜した認知が苦の真実を歪め、人々が苦をそのまま苦であると正しく認識することは出来なくなっている。 

○その不幸なありさまを知って、もろもろの如来はこの世はすべてが顛倒している(さかさまである)世界であると語る。

○人々は苦を苦として認知することはできない。

○苦ではないものを苦であると誤認して認知する心の仕組みが出来上がっている。この誤認の仕組みこそが名称と形態(nama-rupa)の作用である。

○人々が名称と形態(nama-rupa)とを心に有する限り、一切皆苦の真実を正しく認知しその仕組みを理解することは期待できない。 

これらの事実から、
○『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』


前回の(人々(衆生))のブログで再度取り出した内容と、スッタニパータの引用を再掲します。

○この世は、すべてが顛倒した(=さかさまになった)世界であるのだと(知る人には)知られます。 

○この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまう。

○すなわち、人々(衆生)は好ましいものだと思って厭うべきものを選び取り、愛すべきものだと思って憎らしいものを選び取り、安楽に至る道だと思って自ら苦の道を選択している。

○ 衆生は、(実は自分ならざるものであると知られる)名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまう。


【スッタニパータ】

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。  また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。  (正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。  解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。  善良な人々には開顕される。  あたかも見る人々に光明のあるようなものである。  理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。  この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

前回の引用終わり

更に、いくつかピックアップします。

○人々(=衆生)が感受するこの世の一切の感受は、つまるところ苦である。

○この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまう。

○ 衆生は、名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまう。

○『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』

【スッタニパータ】

有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──それらは、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。 

◯他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 

◯覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。  善良な人々には開顕される。  あたかも見る人々に光明のあるようなものである。  理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。


太字下線部分ですが、「この世の一切の」、「有ると言われる限りの」という言葉に注目しました。


【ツイッター】

祝福されて生まれ、畜舎に守られて大事に育てられ、美味しい飼料をつねに与えられていても、最期は屠られてしまうのが家畜である。 その最期の瞬間が来るまでは、家畜どもはまさか飼い主が自分の肉を狙っているとは思いもしないであろう。




(20)HP(理法【012】人々(衆生))

2020-03-16 22:16:00 | 日記
理法【012】人々(衆生)


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⭕ホームページの引用始まり⭕


この世は、すべてが顛倒した(=さかさまになった)世界であるのだと(知る人には)知られます。 未だ覚りの境地に至っていない人にとってにわかには信じられないことでしょうが、この世は本当にすべてが顛倒した世界であるのです。 そして、この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまうのであると言ってよいでしょう。 すなわち、人々(衆生)は好ましいものだと思って厭うべきものを選び取り、愛すべきものだと思って憎らしいものを選び取り、安楽に至る道だと思って自ら苦の道を選択しているのだと(知る人には)知られるからです。 人々は、出世間(後悔することのない究極の立場)から見ればまったく愚かな選択をしている訳ですが、人々(衆生)それぞれががそれぞれの局面においてそれをそのように選択したときには、それがまさしく最良の選択肢であると実感せざるを得なかったのであると言って差し支えありません。 それは、例えば錯覚のように錯誤することが(生来的に)避けられないものであり、したがって人々が(善かれと思って)誤った選択をしてしまうことは本当に無理からぬことだと言ってよいのです。

[衆生の姿]
衆生は、さしたる根拠も無いのに誰かれとなく毛嫌いします。 それだけにとどまらず、衆生は自分のことを本当に思いやってやさしくしてくれる人に対してさえ誤った嫌悪や恨みを抱いてしまう存在なのだと(知る人には)知られるのです。 その様は、例えば知らないうちに目に見えないような細かい棘が無数に刺さった人が、その痛みを和らげようと思ってやさしくさすってくれている人をその痛みゆえに誤解してなじるようなものです。 あるいは、背中に大火傷を負った人が、傷口に軟膏をやさしく塗って手当してくれている人を激痛ゆえに逆恨みするようなものなのです。 衆生は、相手の気持ちを正しく推し量ることができないだけでなく、自分自身の本当の姿を知ることができないゆえに、このような誤った態度をそうとは知らずにとってしまうのだと言ってよいでしょう。

また、衆生は自らに生じた苦を、苦を以て捨てようとさえします。 じっとしていればやがて治まるものを、闇雲に動いて苦を大きく深いものにしてしまいます。 あるいは、苦の原因を抜本的に取り除くことができずに一時的に気をそらすだけの行為でお茶を濁してしまい、知らぬ間に苦を増大させてしまうこともあるでしょう。 その悲惨な様子をそばで見ていて、思いやりをもってそのまちがいを指摘してくれる人がいたとしても、「そんなことは信じられない」とか、「そんな馬鹿な」とか、「それは不合理だ」とか、「他のどうでもよいことについてあるとかないとか」言って、苦から救ってくれる(可能性のある)人を自ら遠避けてしまいます。 悲惨なことであるけれども、衆生にはそのようにしか思えないゆえのことであると知られるのです。 その様は、例えば錯覚に陥っている人には直線が曲がって見え、あるいは同じ長さが違う長さに見え、または同じ色が違う色に見えるようなものであり、それと同様に、衆生の認識は無条件に顕れる錯覚に翻弄された状態にあって、自らの間違いを理性的に回避することは出来ないのだと言ってよいでしょう。

そしてまた、衆生に対して「まるで好むようになぜ苦を選択したのであるか?」と事後に問い正したとしても、その理由についてかれ自身が心ならずも虚言をはいてしまうことでしょう。 衆生は、(それを善かれと思って)苦を選択した自らの根底の衝動の真の理由を知らないからです。 それはたとえば、催眠誘導法によって後催眠効果の暗示を受けた被験者が、後催眠効果によって実行した自らの行動に勝手な理由を後付けする様子に似ています。 被験者は、自ら為した不合理な行動が催眠誘導の後催眠効果によって生じたものであるとは夢にも思わないからです。 衆生が、心ならずも起こす苦に向かって走る衝動の本質も、実はそのようなものであると言ってよいでしょう。 すなわち、衆生は、(実は自分ならざるものであると知られる)名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまうからです。 いずれの場合でも、勿論本人は大まじめであり、その真摯な態度は尊敬に値するものと言ってよいでしょうが、心ならずも苦に至る道を選択してしまうという結果自体はまったく愚かであるとしか言いようがありません。 そして、衆生はそれらのさまざまな結果として自ら後悔する事態に追い込まれてしまいます。 これが、衆生の真実の姿であり、苦の発生メカニズムに他なりません。 そして、先に述べたように、このことはこの世がすべてにおいて顛倒した世界であることから生じた根元的なことであるゆえに、衆生がそれを抜け出すことは容易ではありません。

こころある人は、これが人々(衆生)のありさまであるのだとこころに理解すべきです。

⭕ホームページの引用終わり⭕

この内容を一部再度取り出してみます。


○この世は、すべてが顛倒した(=さかさまになった)世界であるのだと(知る人には)知られます。 

○この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまう。

○すなわち、人々(衆生)は好ましいものだと思って厭うべきものを選び取り、愛すべきものだと思って憎らしいものを選び取り、安楽に至る道だと思って自ら苦の道を選択している。

○ 衆生は、(実は自分ならざるものであると知られる)名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまう。


この理法の関連するもの【錯覚】の補足説明にスッタニパータが引用されていましたので、ここで該当箇所を引用します。

【スッタニパータ】

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。  また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。  (正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。  解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。  善良な人々には開顕される。  あたかも見る人々に光明のあるようなものである。  理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。  この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。


ところで、前回のブログにターラー様からコメントをいただきました。そこで、これを機に、このブログのコメントに対する私の考えを、コメントさせていただきました。ここで再掲します。

私のこのブログは、既述の通り、主旨としては、SRKWブッダによるものを主になぞるものとなります。

私のコンセプトとしては、このブログでは、仏教に関するコメントについては、基本的に全て公開していきたいと考えています。

しかしながら、このブログの当初の方にありますとおり、SRKWブッダによるものについて、読んだばかりの方などを想定して書いていることから、仏教に関する専門的、学術的で難解な言い回しや、論争等についてのコメントの場合、ブログの対象者がずれてしまうため、公開しない場合があることを、予めご了承ください。」

なお、コメントの状況によっては上記考えを軌道修正する場合もあります。