⭕ホームページの引用始まり⭕
世の一切の感受、すなわち人々(=衆生)が六識(眼耳鼻舌身意)によって感受するすべてのことは、つまるところ苦であるということを一切皆苦と言いならわす。 ここで、一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことが、後にそれとまったく同じことを感受しても苦としか認知されないという意味ではない。 一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことがそのままの形で、それそのものがその本当のところは苦に他ならないということである。 実に、錯綜した認知が苦の真実を歪め、人々が苦をそのまま苦であると正しく認識することは出来なくなっている。 その不幸なありさまを知って、もろもろの如来はこの世はすべてが顛倒している(さかさまである)世界であると語るのである。
実のところ、人々にとって苦は苦として認知されることは無く、たとえ正しい認知を生じつつあったとしても結局は苦ではないものを苦であると誤認して認知する心の仕組みが出来上がっている。 そして、この誤認の仕組みこそが名称と形態(nama-rupa)の作用に他ならない。 その結果、人々には迷妄と妄執とがつきまとうことになる。
人々が名称と形態(nama-rupa)とを心に有する限り、一切皆苦の真実を正しく認知しその仕組みを理解することは期待できない。 たとえ、如来が説く「一切皆苦」という言葉を知っていたとしても、その真実を正しく認知し、理解することはできないであろう。 その様は、人が錯覚図形を見て、それが錯覚図形なのであると頭では分かっていたとしても、錯覚を生じて見えるという認識の事実そのものを回避することは出来ないようなものであるからである。 すなわち、今、この文章を読んで一切皆苦の錯綜したありさまについて心から納得した人であっても、一切皆苦の真実を正しく理解することは難しい。 それほど、一切皆苦の真実は、人々の理解するところから隔たっているのである。
しかしながら、ここなる人が聡明であって、一切皆苦の真実を知ろうと熱望し、次のように観じるならば、その観の完成に伴ってついには一切皆苦の真実を知ることができると期待され得る。
『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』
すなわち、お金持ちのあの人も、身分の高いあの人も、才能豊かなあの人も、経験豊かなあの人も、意地悪なあの人も、狡猾なあの人も、傲慢なあの人も、自由奔放なあの人も、脳天気なあの人も、若い力がみなぎるあの人も、美とセンスにあふれるあの人も、いかにも健康そうなあの人も..、その他のいかなる人であっても、この世には本当に楽しんでいる人、本当に喜んでいる人など誰一人としていないのであると観じ、その真実を見極めることが苦の覚知を促すのである。 そして、人が一切皆苦の真実をまさしく覚知するに至ったとき、かれ(彼女)はすでに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の近くにあるのである。
⭕ホームページの引用終わり⭕
この内容を一部再度取り出します。(一部表現を私が変えているところがあります。)
○世の一切の感受、すなわち人々(=衆生)が六識(眼耳鼻舌身意)によって感受するすべてのことは、つまるところ苦であるということを一切皆苦と言う。
○一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことが、時間が経過した後になって、それとまったく同じことを感受したときに、苦としか認知されないという意味ではない。
○一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことがそれそのままの形で、それそのものが本当のところは苦に他ならないということである。
○錯綜した認知が苦の真実を歪め、人々が苦をそのまま苦であると正しく認識することは出来なくなっている。
○その不幸なありさまを知って、もろもろの如来はこの世はすべてが顛倒している(さかさまである)世界であると語る。
○人々は苦を苦として認知することはできない。
○苦ではないものを苦であると誤認して認知する心の仕組みが出来上がっている。この誤認の仕組みこそが名称と形態(nama-rupa)の作用である。
○人々が名称と形態(nama-rupa)とを心に有する限り、一切皆苦の真実を正しく認知しその仕組みを理解することは期待できない。
これらの事実から、
○『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』
前回の(人々(衆生))のブログで再度取り出した内容と、スッタニパータの引用を再掲します。
○この世は、すべてが顛倒した(=さかさまになった)世界であるのだと(知る人には)知られます。
○この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまう。
○すなわち、人々(衆生)は好ましいものだと思って厭うべきものを選び取り、愛すべきものだと思って憎らしいものを選び取り、安楽に至る道だと思って自ら苦の道を選択している。
○ 衆生は、(実は自分ならざるものであると知られる)名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまう。
【スッタニパータ】
759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──
760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。 また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。 (正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。
762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。 解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。 善良な人々には開顕される。 あたかも見る人々に光明のあるようなものである。 理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。
764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。
765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。 この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。
前回の引用終わり
更に、いくつかピックアップします。
○人々(=衆生)が感受するこの世の一切の感受は、つまるところ苦である。
○この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまう。
○ 衆生は、名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまう。
○『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』
【スッタニパータ】
◯有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──それらは、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。
◯他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
◯覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。 善良な人々には開顕される。 あたかも見る人々に光明のあるようなものである。 理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。
太字下線部分ですが、「この世の一切の」、「有ると言われる限りの」という言葉に注目しました。
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祝福されて生まれ、畜舎に守られて大事に育てられ、美味しい飼料をつねに与えられていても、最期は屠られてしまうのが家畜である。 その最期の瞬間が来るまでは、家畜どもはまさか飼い主が自分の肉を狙っているとは思いもしないであろう。