仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

(7)HP(理法【001】慈悲喜捨)

2020-01-29 13:05:40 | 日記
今回より、理法を1番から順に見ていきたいと思います。


理法 【001】慈悲喜捨

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

⭕ホームページの引用始まり⭕

【慈悲喜捨】

慈悲喜捨は、完成された円かなるこころ(完成された完備なこころ)の4つの側面です。 したがって、慈悲喜捨なるこころに生きることは、覚りの境地に至った人の行為そのものであると言ってよいでしょう。

慈: 慈しみの心。 相手に今それを完全な形で与えることが本当は無理であろうということを承知の上で、それにもかかわらずより最高のものを与えようとする其の心。 ものおしみ(飢渇)を制した其の心。

悲: 世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。 高ぶり(妄執)を制した其の心。

喜: 大事な局面において、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、伝え聞いた現代の人々および未来の人々も喜び、かつ賞賛するであろうという随時の確信を以て行為する其の心。 見下し(嫌悪)を制した其の心。

捨: 自らをあらゆる点において捨て去ることによってのみ完成する、やさしさの究極である其の心。 愛著(欲望)を制した其の心。


最初に書いたように、慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。 なぜならば、慈悲喜捨は覚りのこころそのものであるからです。 したがって、未だ覚りの境地に至っていない人(衆生)がそれを真実に理解することは実は不可能です。 それは例えば、(世間的な)喜怒哀楽の真実は、大人には理解できても子供には本当には理解できないことに似ています。 それと同様に、人々(衆生)は誰しも、(世間的な)喜怒哀楽については深く理解しているでしょうが、(出世間の)慈悲喜捨はそのような人間的な心の単なる延長上には無く、またそれは人々(衆生)が推量できるあらゆることのいずれにも属さないものであるゆえに、それを人々(衆生)が理解するよすががありません。 したがって、慈悲喜捨について覚りの境地に至った人が人々(衆生)にどんな説明をしたにせよ、その真意が人々に(直接に、直ちに)理解されることは無いでしょう。

ところで、慈悲喜捨は、その行為が為された後においてのみその真意が理解され得る性質のものです。 その様は、例えば赤色という色全体を理解してもらうために予め用意した赤色の幾つかのサンプルが、相手が赤色全体を理解して初めて、それらのどれもが赤色の良いサンプルであったことを後づけで了解することに似ています。 つまり、相手が赤色全体を理解しない間は、それらのサンプルが何を意図して提示されているのかという基本的なことさえ相手には理解されないことでしょう。 なお、すでに赤色を知っている人が決して手を抜いている訳ではありませんが、言ってみればそのような適当なサンプルしか予め示せないのは、赤色を知ることを欲しているそれぞれの人が、具体的にどの赤色で赤色全体を理解するかということを前もって予測することが誰にもできない性質のことであるからです。

それと同様な事情から、如来が人々(衆生)に対して行う慈悲喜捨の説明も、それについて適当に用意したいくつかの譬えを無作為に示すしか現実的な方法が見あたりませんが、慈悲喜捨は確かに存在するこころ(の働き)であることは間違いないことです。 人が覚りの境地に至ったとき、その人が慈悲喜捨が虚妄ならざる真実のこころであることを後づけで理解することは間違いないことであるからです。 そして、その様は、年端もいかない子供が初めて一つの赤色を正しく理解したときに、それと同時にすべての赤色を正しく理解するのだと断言できることと同様です。 それが起こるとき、それは一瞬間の出来事ですが、その一瞬間を境にその子供はおよそ世の中に存在するすべての赤色を残らず理解することでしょう。 そして、その理解は、何かを順次覚えていった結果として段階的に生じるのではなく、そのときがまさに到来したときに一挙にその理解が起こるという性質のものであるのは疑いのないことです。 同様に、人がブッダのこころを理解するのも一瞬間の出来事(頓悟)であり、そのときを境にその人はすべての覚りを理解することでしょう。


[補足説明]
無理を承知の上で敢えて仏教を哲学的に表現するならば、大きく二本の柱を立てることができるでしょう。 それは、「慈悲心」と「平等心」の二本柱です。 ここで、慈悲喜捨の慈悲は「慈悲心の柱」にあたり、喜捨は「平等心の柱」にあたります。 また、同じ事を別の言葉で表現するならば、「清浄心」と「本来清浄心」の二本柱を立てることができます。 ここで、慈悲喜捨の慈悲は「清浄心の柱」にあたり、喜捨は「本来清浄心の柱」にあたると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
慈悲の慈は外的に観察され得るこころ(外に出して憚ることのないこころ)であり、悲は内的にのみ見い出されるこころ(人にさとられてはならないこころ、人にさとられてしまっては完成し得ないこころ)です。 同様に、喜捨の喜は外的に観察され得るこころであり、捨は内的にのみ見い出されるこころです。

[補足説明(3)]
阿摩羅識をルーツとする真実の慈悲喜捨は、阿頼耶識(いわゆる人類の集合的無意識)にもとづく感動や感動のエッセンスとは違っていることに注意しなければなりません。 それについて、中国の六祖慧能(ブッダ)は、阿頼耶識にもとづく慈悲喜捨に似て非なるものを「人の知恵」と呼び、本当の慈悲喜捨である仏智(仏の智慧)とは区別しています。(六祖壇教-法達の参門)

⭕ホームページの引用終わり⭕

「慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。」

と本文中にあるように、本来の意味での正しい理解はできないと考えられます。

もっとも、一番最初に掲載されていることから、とても大事な内容であることが想定されます。

補足説明には、慈悲心、平等心、清浄心、本来清浄心、阿摩羅識、阿頼耶識などの知らない単語が出てきますが、理法を読み進めていくと、説明が出てくるものもあります。

更に【001】の関連するものとして、ホームページの右側に『奇跡は?』があります。ヘレン・ケラーの話しから、例えとしてのお話しが書かれていますので、是非お読みください。


(6)HP(理法(理法精選 → 理法全リストへ))

2020-01-29 12:31:27 | 日記
標題のとおり、ブログを掲載したのですが、操作を誤り次に掲載するものを上書きしてしまい、元のものを復元できなくなってしまいました。

お読みの方にはご迷惑をおかけし申し訳ございません。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



理法のページの上部に

『理法精選  →  理法全リストへ』

とあります。

理法精選は、80件ほど
全リストは、340件ほど

となっています。

理法精選は、SRKWブッダが選んだものとなります。

これから理法を見ていくうえで、1番から順番に見ていくのか、それとも選ばれたものを見るのかというのがありますが、

このブログの5回目では、1番から読むのをおすすめしています。これは、たくさんの理法を見て、どのようにしたらいいか戸惑う方に向けて書いたのですが、自分でお読みになられる方針がある方は、その方法で良いのだと思います。

私が仮に今、この理法を初めて読むのだとすると、やはり、1番から読むと思います。

それは、どのみち全部読みたいので、順番に読む!!

と思うからです。


一休み(フルーツ)

2020-01-24 18:58:18 | 日記
南国フルーツ

今回は、SRKWブッダのホームページからではなく、別のお話しをします。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
例えばの話しとなります。

例えばフルーツの王様であるドリアンをめぐるお話し、

また、仮定の話しとして、ドリアンの産地を限定して南国の特定の一つの国だけにあり、行かないと食べられないとします。

このドリアンの特徴として、次のものをあげることができます。

○とても甘い
○トロっとしている
○とてもクサイ
○皮がトゲトゲしている
○フルーツの王様である
○濃厚である
○日本にはない
○その国に行かないとたべられない

などなど

また、ドリアンをめぐっては、様々な話しが付加的についてきます。

△トゲトゲの皮のむき方はこれがいいとか。

△トゲトゲでケガしたことがあると言う人もいるかもしれません。

△栄養学に詳しい人が、その成分を分析して説明するかもしれません。

△また、世界中を旅行している人が、他のフルーツと比較するかもしれませんし、タイでは、どのようにしてドリアンを手に入れるか説明するかもしれません。


人それぞれのそれまでのドリアンの経験によって、その表現方法が全く異なってきます。

たくさんの表現の中、もしも、その表現の全てを習得し、長期にわたり想像したとしたら、ドリアンを食べたことがない人自身に、その味わいや風味を再現することができるでしょうか?

私は、その味わいや風味は、全く再現することができないと思います。

一方、そのような表現を全く知らない人であったとしても、実際に食べればドリアンというものについて知ることができます

また、このドリアンをめぐっては、次のような状況が生まれることもありえます。

✕ドリアンを食べたことがある人の感想などを研究し、自分は食べたことがないものの、ドリアンに対する独自の解釈を発表する人もいるかもしれません。

✕私は特別なドリアンを食べたことがあり、このような私は特別であると主張するかもしれません。

✕ドリアンの特徴といくつか重複する特徴を持つ別のフルーツを食べた者が、私はドリアンを食べたと自称するかもしれません。

✕私についてくれば、ドリアンが食べられる。とりあえずその費用として○○円。

✕いろいろな経緯があり、ドリアンなどというフルーツはこの世に存在しないという人もいるかもしれません。

などなど


ここで例えば皆さんが、ドリアンを食べたことがあると仮定し、予備知識の全くない、もしくは、多少知識のある目の前の人に、

『ドリアンを、是非、食べてもらいたい』


と思ったら。どうされるでしょうか?

人によってやり方が異なることが想定されますが、次のような言葉などが発せられるかもしれません。

Aさん
「フルーツの王様、是非たべてみな!」

Bさん
「私は実に様々なフルーツを食して来た。フルーツ以外にも美食を極めてきた。このような私が、感服した最高の物がドリアンである。」

Cさん
「オラこんなうまい果物食べたこともなかったよ! ま〜うんめ〜から、たべてみ!」

Dさん
「とにかくクサイんだよ。これがフルーツの王様かってくらいに」

Eさん
「とにかくタイに行ってみたら、とっても美味しいフルーツに出会えるよ」

Fさん
「このような栄養構成のフルーツ、興味あるでしょ」


などなど

そのすすめ方は、結局のところ、そのすすめた人のそれまでの、経験を踏まえたものにならざるを得ません。

例えば、文学表現に優れた人であれば、華麗な文章によるでしょうし、旅行者であれば旅行記の中にでてくる…。などなど。

ドリアンを食べたことがない人が、よく文学を理解し、華麗な文章を書く人でも、ドリアンの文学的表現を見て何も感じないかもしれません。

逆に、Cさんのような素朴な感想に興味を持つかもしれませんし、また、Dさんのドリアンがクサイというところに、興味を持つかもしれません。

一体どのような言葉によって、目の前の人がドリアンを食べようと思い、実際に食べることになるかは、想像できませんが、一方、食べてほしいと思った人は、その人の全力でそのことについて表現することとなると思います。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


以上でフルーツのお話しはおしまいです。

ここで、ドリアンを例えにしましたが、他のフルーツでもお話しは同じです。

また、このフルーツについて、若干の違いはあるものの、ブッダの説くものと対比して考えることができると私は考えています。

🔶フルーツを食べなければ、分からない。→ 解脱しなければ分からない

🔶フルーツを食べれば分かる → 解脱すれば分かる

【ツイッター】
解脱は、自分自身の身に体現されること(現象)である。したがって、それが起きた時にははっきりと覚知される。修行者は、その訪れを静かに待てばよい。因縁によってすべてが起こる。じたばたする必要は無い。

🔶フルーツをすすめようとして、人それぞれ表現のしかたが異なる。 → 仏によって、その表現が異なる。(法華経の文学的表現。金剛経の短い中に凝縮した表現。六祖壇教、原始経典などなど、全て趣きが異なる。)

🔶どういう話しによって、そのフルーツを食べることになるのか。→ どの経典によって最終的に解脱するのか。

🔶例え表面上、そのような表現を仮に取ってなかったとしても、本当にフルーツを食べてもらいたいと思っている人は、表現如何にかかわらず、食べてもらいたいとの主旨が、首尾一貫する。 → 例え表面上、そのような表現を仮に取ってなかったとしても、本当に衆生が解脱することについて説く仏であれば、そのことについて首尾一貫する。

🔶フルーツを食べてもらうため、その人の全力を表現に投入する。 → 解脱のために必要な表現を全力で投入する。(巧みであるか、稚拙であるか問わず。)



ところで、トロピカルフルーツは南国にありますが、仏は、南国のように飛行機に乗る所や西方にあるのでなく、自分の中にあるようです。

【六祖壇教】
一念の心が平直なままであること、それが衆生が仏となることである。わが心中にちゃんと仏はいるのだ。



(5)HP(理法)

2020-01-22 12:30:40 | 日記
今回は、ホームページの理法を見てみたいと思います。

理法はホームページトップの正法の一つ下のアイコンを押すと出てきます。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


開いたページの一番上にある「理法精選」の文字をクリックすると次の説明が出てきます。

ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。

⭕ホームページの引用始まり⭕

【理法】

理法のページは、現代に生きるブッダ(如来)である私(SRKWブッダ)が現代の人々に向けて現代における理法を列記し、現代に生きる人々(衆生)を覚りの境地にいざなうことを目的として設置したものです。 しかしながら、このページに掲載したそれぞれの理法項目を読み、勉強し、努力したとしても、ただそのことによって人々(衆生)が覚りの境地に至るわけではありません。なぜならば、覚りの境地に至るプロセスの真実は、次のようなものであるからです。

● 人をして安穏の境地に至らせ、そこに安住せしめる不滅の法(ダルマ)の存在とその威力についての正しい信仰があり、その法を知って自らがブッダになろうと決心する正しい発心を起こした人が、徳行において精励し、聡明であって、真実の教えを聞こうと熱望し、善知識が発する法の句を聞いてそれが正法そのものであることに気づき理解し、諸仏の智慧を一つでも自らのものとするならば、ついに覚りの境地に至る。

すなわち、人が覚りの境地に至るために本当に必要なのは、正しい発心を起こすこと、善知識と巡り会うこと、(一大事因縁によって)正法を理解することの3つのことであり、知識や学問によるのではないからです。 したがって、覚り以前において現代のブッダ(如来)が語る(あるいは過去のブッダが語った)理法を多く少なく知っていて、それらを頭で理解していることは必ずしも必要なことではありません。つまり、(少なくとも言葉で示されたところの)理法など知らなくても覚りの境地に至ることはできるのです。そして、これら3つのことについては、サイトのメインページの左側に対応するボタン(素質、正法、善知識)を個別に用意しており、その中でそれぞれの真意を説明するとともに、過去の如来の言葉として釈尊の原始経典や大乗経典から、および慧能の六祖壇教から必要充分な引用をし尽くしています。したがって、このサイトを閲覧する人が覚りの境地に至ろうと欲するときには、これら3つのボタン、すなわち素質、正法、善知識のボタンを適宜押してその内容を参照することで、文字として表し得る必要充分な情報を手に入れることができるでしょう。

しかしながら、実際には、発心、正法、善知識についてその内容を何となく理解することは出来ても、それらの本当のところを領解して、それを心から信じることはやはり難しいであろうと思います。なぜならば、覚りの境地について微かなことさえも実感せず、あるいは覚りの境地について微かなことさえ思い至っていない人にとって、これら3つのことをそのままに信じ切ることは理性的にも心情的にもほとんど不可能であろうと思うからです。

そこで、私は、現代に生きるブッダ(覚者,如来)である私自身が現代の人々に向けて現代における理法を語ることで、それらを読んだ人が法(ダルマ)が本当に存在するということを信じ、また人は誰でも欲するならば覚りの境地に自ら至り得るということを信じられるようになって欲しいと考えるようになりました。勿論、過去の如来が語った理法については、現存する原始経典や多くの大乗経典、あるいは主要な論典として膨大な記述が残っており、その中で理法は漢訳、和訳を含めて言葉としては正しく伝えられていると言ってよいでしょう。したがって、人が単に(過去の仏が語った)理法を知りたいと思うのであるならば、それらの文献を精読することでそれを達成できることでしょう。しかしながら、そうは言っても、やはりそれらの文献をそのまま現代の人が読んで理解するには難があろうと思えます。その理由は、それらの経典や論典が書かれた時代と現代とでは、時代背景の違いなどが無視できないほど大きいからです。そのために、そこで記述されている方便、すなわちいろいろな譬え話やモチーフ、テーマ、登場人物のキャラクターなどが現代人にはそぐわないものになっていると思えます。このようなことを鑑みて、私は、ここに現代に生きるブッダ(如来)が現代の人々に向けて現代における理法を敢えて列記することに意義があると考え、それを実行することにしました。

ところで、先に述べたように、理法は法の句(智慧:仏智:無分別智)そのものではありません。それゆえ、繰り返しになりますが、(如来が語る)理法自体は覚りの境地に至るために必ずしも必要なものではありません。したがって、このページに列記した理法は、あくまでも皆さんが覚りの境地に至る正しい道を歩むための補助となるものに過ぎないのです。とは言え、理法はそれを語ることに意味も意義のある方便であって、虚論,空論ではありませんが、これにとらわれてしまうと本当のこと(智慧:仏智:無分別智)が分からなくなってしまう危惧があります。 それは、例えば自転車に補助輪を装着したままでは、自転車を本当の意味で乗りこなすことはついに出来ないことに似ています。なぜならば、補助とは、極めて初期の段階にのみ有効・有益なものであり、その行為に対する恐怖心が克服されたならば不要になったもの、邪魔以外の何ものでもないということを忘れてはならないのです。そのような意味合いから、この理法のページに書かれたことがらを(直ちに)理解できないからといって、それを一々悲観するにはあたりません。ただし、ここに書かれた理法に根本的な疑義を生じた場合には、そのことについて原始経典や大乗経典、および論典などを読み、その上で疑義事項についての観を行って、それを解決すべきであるとは言えるのです。

人がそのようにしてついに覚りの境地に至ったとき、その人はここに列記した理法のすべてについて心から納得が行き、合点するに至ることは間違いありません。言ってみれば、理法のもう一つの役割とは、人が覚りの境地に正しく至ったことを本人が自己確認するためのチェックリストであるのだと言ってよいでしょう。

[追伸]
実は、覚りのチェックリストにあたるものも、いくつかの代表的経典の記述として残され、伝えられています。それらの一部を、引用してここに列記しておきます。

● まさに住するところ無くして、しかも其の心を生ずべし の其の心であること
● 覚れる人は争うことが無い
● ニルヴァーナの境地とは、貪瞋痴の滅した境地である
● 覚りとは、三毒(貪瞋痴)が三学(戒定慧)に変わった境地である
● 功徳とは、見性することに巧みであり、素直なこころが徳そのものであることを云う
● 智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない
● 識別作用が止滅するのである
● いろいろのことについて明らかな智慧を得る
● すべての苦しみから脱れる


⭕ホームページの引用終わり⭕

理法についての記述が書いてありました。

仮に、この内容がよく分からなかったとしても、個別の理法ですら、引用中にあるように、

「(如来が語る)理法自体は覚りの境地に至るために必ずしも必要なものではありません。」

とあるので、気にしなくて良いのだと思います。

お読みになる方にとって肝心だと思うところだけ、お読みになる方が押さえておけば良いのだと思います。

また、仮にここで、肝心なことがお読みになった方の中に見当たらなかったとしても、それも問題ありません。

理法の中や、別の経典の中などに見出すことが十分にありえるからです。

難しい文章に出会って、それで自分の気持ちが折れてしまっては、大変残念です。

チューラ・パンタカの例があるように、一般的に世間で言われる学力等と、この道は異なるのであれば、文章の難しさに気持ち(志し)が惑わされる必要は全くないことになります。

今後、このブログで紹介する個別の理法についても全て同じスタンスでいるべきだと私は思います。


「難しくて気持ちが折れそうになるなら、パス! とりあえず次に!」

「難しくて、挑戦しがいがあるなと思ったら、更にその内容を探求へ!」

などなど

やり方はきっと人の数だけあるのだと思いますが、道の歩みを皆様ごとに、進め続けていただきたく思います。

(4)HP(素質)

2020-01-17 08:07:17 | 日記
今回は、ホームページの素質を見てみたいと思います。

素質はホームページトップの善知識の一つ右のアイコンを押すと出てきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。

⭕ホームページの引用始まり⭕

【素質】

 人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。したがって、覚りの素質などというものは何ら存在していない。しかしながら、実際には、世において覚りの境地にすみやかに至る人とそうでない人がいるのは厳然たる事実である。この事実を鑑みて、すみやかに覚りの境地に至った人には何らかの素質があったのだと後づけで認められ、(死ぬよりも前に)ついに覚りの境地に至らなかった人には素質が無かったのだと認めざるを得ないであろうと言うのであるならば、その時に限り、その意味においてのみ<覚りの素質>ということを論じることができるのである。

 <覚りの素質>とは、一言で言えば素直な人であるかどうかということである。なんとなれば、素直な人だけが、ことに臨んでその素直さゆえに善なる行為を 為し遂げるのであると言えるからである。かれのその行為は、自分ならざる如何なるものにも依拠することなく為されたものであり、それは(強いて言えば)かれ自身のこころの奥深くから突き上げてくる「それ(=真如)」によって発動したものである。それは、およそ人(=衆生)なれば誰しもが執著するところのあらゆる心理的障礙を超えて為される行為である。それは、人を超えた真実の行為に他ならない。それゆえに、それを為し遂げた本人でさえ、行為の本当の理由 (行為の動機たる潜在的素因とも言うべき「それ(=真如)」)の真実を説明することは出来ないのである。それどころか、かれは、自分が為し遂げた行為の本当の意味に気づくことさえない。「それ(=真如)」の発動は、不可思議なる因縁によるものであるからである。

 <覚りの素質>に関する具体的記述は、例えば法華経-方便品第二の中に見ることができる。そこでは、生まれながらにしてすでに発心している人、あるいはこの世において発心し、今生において間違いなく覚りの境地に至るであろう<素質ゆたかな人>の特徴を次のように記している。


******************
*** 引用(法華経-方便品第二の和訳経典から)
******************

{前を略}

 ── 生ける者達の中で、諸々の過去の仏に出会って、教えを聞いて布施し、戒を守ることや、忍耐や、精進や禅定や智慧などによって種々に福徳を修めた、 かかる諸々の人々は皆、仏道を完成するであろう。諸仏がこの世を去っていても、もし人に善軟の心があれば、この様な諸々の生ける者達は皆、仏道を完成するであろう。諸仏がこの世を去っていても、その遺骨を供養する者があって、万億種の塔を建てて、金・銀・頗梨と、しゃこと瑠璃と、攻魂(朱色の珠)と流璃珠とをもって、諸々の塔を清浄に広く美しく飾り立て、或いは石造の廟を建て、栴檀と沈香、木椅その他の香木や瓦や泥土で塔を建てるとしよう。 もしくは、広野の中で、土を積んで仏の廟を建立し、或いは童子がたわむれに砂を集めて仏の塔をつくるとしよう。これらの諸々の人らは皆、仏道を完成することであろう。 もし人、仏の為に諸々の像を建立し、彫刻して三十二相を備えた像を完成すれば皆、仏道を完成するであろう。 或いは七宝でつくり、銅、赤白銅、白銅、鎗、錫、鉄、木、陀土、或いは膠や漆を染ました布によって美しく飾って仏像を作った人々、この様な諸々の人らは皆、仏道を完成するであろう。 三十二相の一々を百の福相によって飾った仏画を壁に自ら描き、もしくは人に描かせた人々は皆、仏道を完成するであろう。 或いは童子の戯れに、或いは草木及び筆、或いは指の爪で仏像を描いた人々、 この様な諸々の人らは皆、次第次第に功徳を積み、大悲の心を備えて皆、仏道を完成し、ただ諸々の菩薩のみを教化して、無量の人々を救うであろう。 もし人、塔や廟の宝像や仏像に花や、香や、幡や、天蓋を、心から尊敬して供養し、もしくは人をして音楽を奏させ、鼓を打ち、角笛や法螺貝を吹き、斎や、笛 や、琴や、竪琴や、琵琶や、鏡や、鋼鉄など、この様な諸々の妙音を悉く鳴らして供養し、或いは歓喜の心をもって仏の徳を讃える唄を歌い、ないしは、一つの 小音をもってしても皆、仏道を完成するであろう。 もし人散乱した心で、しかも、たった一本の花で仏像を供養したとしても、次第に無数の仏を見るであろう。 或いは人あって礼拝し、或いはまた、ただ合掌のみし、ないしは、片手のみを挙げ、或いはまた少し頭を下げて、これによって像を供養したとしても、次第に無量の仏を見、自ら無上道を完成して、広く無数の人々を救い、心も体も余す処なく滅した永遠の平安に入ること、薪が尽きて火が消える様である。 もし人、散乱した心で塔や廟の中に入り、一度南無仏と称すれば皆、仏道を完成するであろう。 諸々の過去の仏が、現在しているとき、或いは世を去られたのちに、もしこの教えを聞く事があったならば皆、仏道を完成するであろう。未来の諸々の世尊達 は、その数を量ることも出来ないが、この諸々の如来達もまた、方便して教えを説かれるであろう。 一切の諸々の如来は、無量の方便をもって、諸々の生ける者達を救って、他の汚れなき智慧に入れられるであろう。 もし教えを聞く者があれば、一人として仏にならぬ者はないであろう。諸仏の立てた誓願は、自分が実行した仏道を、普く生ける者達に、同じ様にこの道を得させたいというのである。──

{後略}

** 引用おわり

 また、六祖慧能による覚りの素質の説明は、六祖壇教に見られる。

 →  慧能(ブッダ)による<素質>の説明

⭕ホームページの引用終わり⭕

素質についてですが、SRKWブッダの著書の中に、それに関する記述があるので、下に紹介します。

【覚りの境地(2019改訂版)】
私も覚れるのか? これが三つ目の基本的な問いである。
この問いは切実である。多くの人々が周到に覚りに達する中にあって、もしも自分だけが取り残されて覚れないとしたならば……などと考えをめぐらせたとき、気後れし、恐ろしくてとても問えないだろう。しかし、勇気ある人はこの問いを果敢に発するに違いない。もちろん、この切実な問いに対しても如来は明確に答える。

『およそ言葉を解し言葉を用いることができる人であって、かれが望むならば覚れない人など一人もいない。』

これがその答えである。