昨日からちょっと落ち込んでおります。この気分、言ってみれば英語のupsetが一番しっくりくる感じの、怒りの混じった混乱というか、動転というか、何ともモヤモヤな気分。
発端は、毎日見に行く、お気に入りブログ
リジィ子のCA在住お気楽エッセイの記事の中、リジィ子さんが意図したはずのその日の記事の本題が印象もろともすべてぶっとんでしまうくらいのビックリが私を直撃。
曰く
>>でも、よく混乱を招くのが鍵括弧の中、quotationの中。
日本語は鍵かっこ内最後の文章に句点を打ってはいけない。
外側に打つのが鉄則だが、英語ではそれが中に鉄則、となる。
えええええええっ!?
そんなばかな!
…というのがまず最初の感想でした。だって、小学校のたぶん1年生の段階で、原稿用紙の書き方を習ったときに、
「カギカッコの中の、最後のマル(句点)とカギカッコの『とじ』は同じマスの中に入れて一文字とすること
。」 ←
この赤字部分のように
と確かに聞いた覚えがあったから。そして、その後の長い学生生活の中で、私は一度としてカギ括弧の中の最後の句点を省いたことはなかったはず。それというのも、『文章の最後に句点を置かない人はきっとトイレから出てもドアを閉めない(もしかしたら「水を流さない」だったかも)人です』という強烈な脅し文句と共に強迫観念のように私の身に染みついたせいです。子ども達が小さい頃、在宅でいくつかの印刷会社をかけもちで文字入力の下請けをしていた時期がありました。そのときも、やはり句点にカギカッコが常識とされていて、コンピュータキーボードだと2文字になってしまう
(ってことはつまりJIS規格では。」を一画として扱っていなかったわけですね)ために、わざわざ外字を当てはめて、一マスの中に句点とカギカッコを収めていました。
それが!今になって!!そんなバカなっ!!!
慌てて、本棚の前に立つと、片っ端から手元の本をめくり、調べてみた。
本当だ…
村上春樹も、リンボウ先生も、中野不二男も、沢木耕太郎も…みんな、会話文のカギ括弧の最後は、句点ナシで終わってる。
大げさでなく「目の前真っ暗」ショック。でもしつこく本棚を漁るうち、私が教わった通りの、句点にカギ括弧で会話文を作っている本もまたそれなりにあることもわかってきた。どうやら出版社に関わらず、その作家によるらしい。例えば、吉本ばなな、筒井康隆、それから翻訳本のいくつか(エビータや葉っぱのフレディをはじめ、つい先日ここでelmさんと盛り上がったナルニアや指輪物語の瀬田貞二さんの作品もすべて
。」派だった。そして、小学館世界少年少女文学全集も、もちろん、年代が違うせいもあるかもしれないけど、訳者に関わらず、すべて会話文の終わりは、句点にカギ括弧で統一されていた。少し安心。ドキドキした。ちなみに、カギ括弧の外側にマル(
」。←こういうの)というのはほとんどなかったのだけど、わずかに見つけたのは雑誌や小冊子類。これは少数派のようです。
もう一度本棚全体を見渡してみれば、もう圧倒的に全く勝負にならない割合で、句点ナシのカギ括弧閉じが優勢なのは間違いなく、やっぱりショック状態で。一体全体、どこで私は間違ってしまったのか?と混乱するばかりでした。
まがりなりにも、日本語を教えている身分というのは、言語のプロの端くれと言っても良いわけで、その私が今まであきらかな間違い
(*)を信じていたというのはどういうわけか?と大きくショックを受けたわけです。
ところが、答えは案外簡単に見つかりました。子ども達の教科書の本棚。小学1年から、中3まで、そして私の高校時代の教科書にいたるまで、日本の教科書は全教科に亘って、句点にカギ括弧で統一されているんです。
中でも驚いたのは、今中学2年の光村図書に掲載されている村上春樹の「ふわふわ」という作品。この作品の中で一度だけ出てくる会話文、
>>「なあんだ、ここにあったのか」と。
というのがあるのですが、この一文が、教科書にかかると、
>>「なあんだ、ここにあったのか。」と。
と句点が
わざわざ書き加えられているんです。
これほどまでに、学校の教育現場は、句点にカギ括弧閉じを重視している。(ちなみに、教科書にかかると、太宰治だろうが、他の高名作家であろうが、あますところなく、会話文にも句点がつけられます)
また、私は、赤毛のアンを何冊も所有していて、そのうち村岡花子訳が文庫本1冊と、前述の文学全集に入ったものと両方あるのですが、文庫版では、句点なし、全集版では句点あり、とやはりここでも揺れがあります。
日本語で困ったときの究極の指針である、国語審議会のサイトにpdfファイルがありました。
pdfファイル
http://www.bunka.go.jp/kokugo/pdf/kugiri.pdf
これによれば、確かに、会話文の最後には句点をつけてカギ括弧を閉じるのが、やはりスタンダードのようです。つまり、学校で教えていることが間違っているわけではない(はず)。
しかし!現状で、圧倒的な数の印刷物が違うルールによって綴られ、その現場では、学校で教えているルールを「間違い」と断じているというのなら、一体我々はどこでモノを学べばいいんでしょう???義務教育の教科書がスタンダードでなかったら、何を以て勉強すればいいのかな。
現状を無視して、古いスタンダードを押しつけている学校教育現場が悪いのか、それとも国語審議会が曖昧なままにしておくのが悪いのか、あるいは突っ走る印刷業界が悪いのか、はたまた、ルールというものがあってないような日本語そのものが悪いのか。←これはつまり国語審議会が悪いのか??
いや、何よりも今まで、脅迫観念的に自分の書く会話文に
。」を使ってきながら、世間どころか、自分の半径30センチにも溢れまくる印刷物のルールに気付かなかった
自分の鈍さってどうなのよ!?と情けなくなります。
どちらにしても、今まで自信を持って、「会話文の最後にはマルとカッコトジを同じマス目の中に書いてくださいね。」と指導していた私の立場はどうなるのだ!?ほぷちゃんもくっきーも、チンピラも、これからいったいどうやって喋ったらいいのだ?と私は大変に混乱中なのであります。
私が直接話法を使うとき、カギ括弧に入れるのが文章なら、迷わず句点で締めてからカッコで閉じていたけれど、単語とか、二語文程度なら句点を付けないこともあります。そういうことも意識して使い分けていたつもりだったけれど、無駄だったのかも。余談ですが、っていうか、余談と言えば全部余談なんですが、
。」派(笑)の本だと、たとえ一語文(単語だけ)でも「マリラ。」みたいに無理矢理マルが付けてあって、それもなんだかなあ、とは思います。
大部分の人には「どうでもいいじゃん、大げさな」と言われそうなことではあるのですが、やっぱりどうしてもこの問題、気になってしまいました。
本題と違うことにここまでひっかかってしまってリジィ子さん、ホントにごめんなさい。英語のpunctuationについては、私も一度は真剣にがっちり習ったのですけど、当時はその講義の英語がまたよく理解できない状態だったことも手伝って、記憶はボロボロなのです。
みなさん、マルはカギカッコの前に付けますか?後に付けますか?それともつけませんか?どこでルールを習いましたか?私、明日から犬たちのセリフ、どうしよう。
どうかご教示願います。あ、参考までに、混乱の中で見つけたサイト
http://kikitai.teacup.com/kotaeru.php3?q=2550797
そこからリンクされていたサイト
http://www.kotono8.com/2004/01/06kutoten.html
(*)「あきらかな間違い」ではないにしろ、数の上で圧倒的に少数派に転じてしまった状況のことです。
こんなときにこんなに咲いてくれたとっておきのほぷちゃんバラ。なぐさめてくれてありがと!
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