身近にも意見の違う相手、合わない相手というものはいる。
自分がAについて話をし、それについて意見を求めたり自分の意見を言っているのに、相手がまったく違うとらえ方、返し方をしてくるのはストレスになる。
それは、ひとつに、自分の「わかってもらいたい」というエゴ、もうひとつは、相手の理解不足や素直さ不足、というのが原因にあると思う。
自分のエゴについては、それは誰しもあるものだし、それ自体が悪いことではない。
ただ相手への伝え方、言い方は大事。
ひとりよがりで訴えるだけではダメだろうし。
相手の理解不足については、自分も相手に理解してもらう言い方、話し方がまず大事。相手自身も謙虚に「理解しよう」と話を聞く姿勢が大事。
しかし、相手の素直さ不足は、自分が話してるAの事柄が相手の意に沿わないことだったりすると、相手は素直にそれを聞けなかったりする。
聞く側の素直さ不足は、それはそれぞれの性格があって簡単には「これはこうするといい」という具合に解決できるものではない。
自分は別に相手を責めたりとがめたりするつもりがなくても、相手にはキツく伝わったりストレスになったりすることがある。
そこで、最初の「自分の意見をわかってもらいたいエゴ」も絡んでくる。
お互いそのエゴを出すと、なおさらこじれる。
自分はそういう意味で言ってるわけではないし、押しつける意味で言ってるわけでもない、普通に自分の意見を言ってるだけなのに、相手はとりあえずカチンときてたり自分の意に反することで素直に受け取れなくなり、お互いに自分のエゴを通そうとする。
それがエスカレートすると、理解するとか歩み寄る以前に、お互い敵対的な論議にもなり、論議できるならまだよくて、「もういい、話してもどうせわからんだろうから」なんて投げやりになったりあきらめたりしたら、わかるものもわかんなくなる。
相手に言われたことに反論するのはいい。
根拠や論拠をふまえ、ちゃんと自分の主張をするのはいい。
でも、そういう理詰めで結局“負ける”方もいる。
別に話のやり方に勝ち負けはないけど、わかりやすくこう表現する。
意見が違うこと自体は勝ち、負けの基準ではなく、結局ちゃんと反論したり筋道たてて主張できるか、が基準になる。よって、両者がそれぞれ“勝ち”になることもあるし、聞いて、答えて、の質疑応答がちゃんとできれば、それはそれで立派な主張、意見として相手に説得力を持って示せる。
政治家のそういう質疑応答もそうだ。
しかし、そうできない方は(“負けた”方)は、まともに反論できなくなり、えてしてその人から「もういい、うんざりだ」と言うものだし、しまいには「もうどうでもいい、スジを通そうとも思わない」なんて話自体を放棄するような、逃げるようなそういう終わり方になったりもする。
そういう“負けた”方の人がひねくれてたら、話の根本より相手の欠点や性格にまで及んで反論するしか術がなくなったりする。
そうなると相手をいかに不快にさせるか、いかに傷つけて言い勝つか、という目先のことだけで言い合いになる。元々の論議のことはもはやそこにはない。
言われた方もこれまたそれでカチンときて、「なんだと、そんなことをなんで今言うんだ」と理不尽さやストレスをさらに感じることになる。
そんな時の両者はただただ感情的になっていて、もはや話して解決、理解しようという気持ちはなくなってしまってる。
意見の相違から話が平行線のままになるなのはしょうがないとしても、話してて不快になったりカン違いがカン違いを呼び、「いや、違うって、だから~・・・」とうんざりするようなら、「もういいや・・・」とあきらめるのもひとつのテであると俺は思う。
それはそれで感情的になりより不快なやりとりをするよりは、よほどオトナの対応だとも思う。
しかししかし、これまた、それが、自分と相手とで同じタイミングでそうなれれば、話もそのまま収束しそうだけど、片方が一方的に「もういい、やめよ・・・」と終わろうとすると、もう片方は「こら、逃げるのか」となるものでもある。
よって、話してわかる相手、わからない相手というのは、実際に話してみてわかるもんだけど、話してわからない相手には、ある程度「もうこれ以上話さないでおこう」って自分の中で割り切って自分で自分をセーブすることも時には必要かとも思う。
話をしてて共感を得られないことはあっても、やはりカン違いやらガンコさやらで思わぬ方向に話が行くと、その弁解、説明、フォローで疲れることにもなる。
1で済んだ話が15くらい言い合いをすることになる。
どっちがどう悪いとかではなく、それは話す相手が悪かった、運も悪かった、と受け入れるしかないとこもある。
家族でも職場でもそういうことはある。
ちょっとした感覚の違いだったりボタンの掛け違いだったり、始まりは単純な軽いものでも、それがヘビーでうっとうしいやりとりになることもある。
それで純粋に素直に理解し合えたらいい、でもそうじゃなかったら、相手に嫌悪感を抱き、ただただ「関わりたくない」とイメージが焼きつくだけになることもある。それはある意味悲しいことだ。
この世の中、そういう「関わりたくない相手」、「話のわからない相手」というものはいるだろうけど、相手もそんな自分をそう思ってるのかもしれない。
ま、人間だもの、いろんなタイプの人間がいるし、そういう時もあるさ。
でも、人間だからこそ、同じ言語を使う間だからこそ、そのコトバをちゃんと使って、駆使して、理解し合えるようになりたいものだ。
それが根本的に大事だし、最低限のマナーでもあると思う。
なぜ相手が怒ってるのか、なぜ相手がそう思うのか、そういう相手のクレームなり意見なりをまずニュートラルな気持ちで聞く謙虚さや素直さも大事。
意見の相違がダメとかではなく、その違いを認めたり、相手が言うことを自分の利己的なフィルターを通さずに聞いてあげることも大事だな、と。
そういう自分の意に反することを言われることもあろう、でも、それを素直に聞かずして自分の成長が得られないこともある。相手が言ったことに対してまず自分がこう思ってた、自分はこうだと主張するのはいい、でも、それで世の中うまく回ってたら誰も苦労しない。
大事なのは、意見が違う相手でも、まず不愉快なやりとりになったり感情的になる前に、ちゃんと普通に聞くこと。
少なくとも、相手を粗末にするような、「人」と「人」のやりとりから外れるような、そういう態度や言動は、どんなに意見が違う相手に対してでも慎むべきである。
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