主の祈り

2024年11月17日 | 聖書の言葉の紹介
 ヨハネ第17章において、主は私たちのために祈られました。そして今日に至るまで、彼の祈りは継続的に、成就するまで捧げられています。私たちは皆、主に祈られている者たちです。
 22節は言います。「あなたが私に与えてくださった栄光を、私は彼らに与えました。それは私たちが一であるように、彼らも一となるためです。」
   御父が御子の中に与えられた栄光は、復活において現されました。その同じ栄光が私たちを一にします。キリストの栄光が、彼の人性の殻が十字架上で砕かれた後に現れたように、私たちに与えられている栄光もまた、自己の殻が砕かれた後、現れることができます。ですから、私たちには復活の過程、復活の経験が必要です。
 23節は言います。「私が彼らの中におり、あなたが私の中におられるのは、彼らが成就されて一となるためです。それはあなたが私を愛されたように彼らを愛されたことを世の人が知るためです。」私たちが見る必要のある事は、主が私たちの中におられるのは、私たちが神を表現するためだけではなく、私たちが自己を否むためでもあると言うことです。
 どうして御子は御父を表現することができたのでしょうか?それは御子が御父の愛を知っていたからです。私たちは、団体的に神を表現するために御父の愛に触れる必要があります。御父の愛は、私たちをあらかじめ用意されている栄光にあずからせます。私たちは皆、栄光へとあらかじめ用意されていた、あわれみの器たちです。その用意された栄光とは、建造のために自己を否んだ後に表現される栄光です。
 私たちはヨハネ17:1を引用して祈ることができます。「父よ、時が来ました。建造のために自己を否む時が来ました。あなたの子の栄光を現してください。それは子である私があなたの栄光を現すためです。
 どうか私たちが団体的に建造された方法で神を表現し、栄光を現すことができますように、御父の愛とあわれみが、私たちすべてを、彼の栄光のために、守ってくださいますように。


2024/11/10

2024年11月10日 | 聖書にちなんだ話
キリストは復活であり、また一粒の麦です。私たちは復活と一粒の麦としてのキリストをどのように経験し、享受し、表現するのでしょうか?
私たちが復活を経験することができるのは、キリストが「復活の命」となられたからです。キリストは十字架の死を経験し、また経過されました。もし私たちがキリストの復活の命を持っておらず、さらには適応することがないなら、たとえ苦難や困難を通っても、それは十字架の経験とはならず、キリストを復活の命として経験することもできません。私たちが信じる必要のある事は、救われたと私たちの遭遇する、すべての事は、神を愛する私たちにとって、「すべてが共に働いて益となる」と言うことです。それは、神を愛する者たちには全てがプラスに働いているということです。神を愛するとは、神の御心の完成を愛することであり、それは神の長子としてのキリストと同形化されることであり、また、団体的にキリストの体の実際となり、新エルサレムに構成されていくということです。
復活の前提にあるものは、十字架の死です。そして私たちは、復活の命としてのキリストと一つとなり、キリストの十字架を経験した結果、復活の領域にもたらされます。私たちは自分が耐えることができないと思う苦難、困難、試みを前にして、動揺したり、慌てたり、諦めたりしてしまうかもしれません。しかし、私たちはただ、「主イエスよ」と、主を呼び、静まり、霊の中で、復活としてのキリストに触れるまで「落ち着く」必要があります。そのような時、主イエスの御名を呼び、御言葉を祈り読みすることが、私たちに十字架を経過させ、天然の命と力を終わらさせ、復活にもたらさせます。
一粒の麦としてのキリストを経験すると言う時、私たちが「多くの麦粒」であると言う事と、彼の命の継続、また複製であることを思い起こさせます。それは、私たちが彼と同じ表現を持つことを暗示しています。
私は特にヨハネによる福音書に啓示された、三一の神について印象づけられました。それは一粒の麦が生み出した神性と人性の合併が、御父の家、真の葡萄の木、その霊の子供であるということです。
御父の家として、私たちには存在するルーツがあり、私たちの源は父なる神です。私たちが源ではなく、御父が私たちの源です。
真の葡萄の木として、私たちはその枝として接ぎ木されました。ですから私たちは、今実を結ぶために存在しています。
その霊の子供として、私たちは成長する必要があります。私たちは神・人の種族として、日毎に内なるキリストの命を成長をさせる必要があります。
成長する過程で、私たちには聖書に書かれている、多くの教えが与える、多くの課題、多くのレッスンがあります。もちろんそれを成就してくださるのは内にいます、復活における、一粒の麦としてのキリストです。しかし、私たちは主に協力する必要があります。
私たちは1つ1つ、自分ができなかったことを主の光で照らされ、尊い血によって洗い清められ、自分ができないことを主の御前で認め、告白し、何度も何度も主に来て、供給され、満たされるというやりとりを続ける必要があります。その結果は、御父を源とすること、ぶどうの木の枝として実を結ぶこと、キリストの命が成長して神の相続人となり、神の嗣業となることです。
主を賛美します。


2024/11/04

2024年11月04日 | 心に残った聖書の言葉
 ヨハネ第7章37節は言います、「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、「誰でも渇く者は、私に来て飲むがよい。」
 祭りは何かを記念して開かれるものです。今年の夏、多くの場所で多くの祭りが開かれました。そしてその祭りにはすべて、終わりの日がありました。あるいは祭りの締めくくりの時間が設けられました。その時、楽しかったと感じる人がいれば、なんとなく虚しさを覚える人もいたと思います。主イエスはそのような時にこう言われました、「だれでも渇く者は私に来て飲むがよい」。
 人は満たされている時、「潤っている」と感じます。逆に欠乏している時、「渇いている」と感じます。もし人が渇いたら、主イエスに行くことができます。どのようにしたら主イエスに行って飲むことができるのでしょうか?また何を飲むのでしょうか?
 続く38節はこう言います、「私の中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から生ける水の川々が流れ出る」。

今日いち-2024年11月4日

2024年11月04日 | 聖書の言葉の紹介
わたしはいつも、わたしの前に主を見ていた.          使徒行伝2:25

主からの語りかけを受ける

2024年10月28日 | 聖書にちなんだ話
主は命を与えるために、その霊となられました。
ですから、今日、主は命を与える霊として、私達に語られます。
そして、彼の語る言葉は、霊であり、命です。
主は私の言葉は、魂であるとは言わず、霊であると言われました。
主のの語られる言葉が、「霊」であるとは、どういう意味でしょうか。
主は、私達の最も深い部分である霊に触れることができるということです。
人が何か言葉を語るとき、その人の語った言葉は、その人そのものを表しています。
主が語られた言葉が「命」であるとは、主が命そのものであることを意味します。
どのようにして、私達は、主からの語りかけを受けるのでしょうか。
私達は、御言葉に来て、その言葉を語られた主、復活の中の、その霊となられた主に触れる必要があります。
ある人は、「主は私達の霊の中に生きておられるので、その主に聞き従えすれば十分である」というかもしれません。
しかし、私達の中に生きておられる主は、どれほど私達を通して生きておられるでしょうか。
もちろん、私達のうちにいますキリストは、私達と一つです。
それでは、キリストは私達を通して、どれほど生きておられるでしょうか。
私達が食べるキリストは、命のパンであり、命の供給のためであり、彼が私達を通して生きられるためでもあります。
私達は内なるキリストの命を顧みて、命で構成されることに協力しなければなりません。
もし、私達が、内にいますキリストを顧みないなら、キリストの命は私達の内側で制限されたままであるかもしれません。
ですから、私達も自動的に、自分自身を、自己を生きてしまいます。
キリストはご自身の言葉を既に語られ、それは聖書の中に書かれています。
しかし、キリストは私達の中で、再びご自身の言葉を語ることを願っておられます。
それは、私達の内側で、キリストの命が供給され、私達を通してキリストが生きられるためです。
私達が祈りの中で、主の御名を呼び求め、御言葉を短く区切って読み、また主の御名を呼び求めて、また、御言葉を短く区切って読むことは、本当に私達を養います。
私達は、聖書の言葉に来るとき、命を得るために、主に来る必要があります。
なかなか御言葉に触れられないときや、思いや感情が強く働いてしまい、御言葉を読む気さえ起きないとき、私達は、短く祈ることによって突破することができます。
「主よ、御言葉を読む気さえ起きないほど、私はイライラしています。」、あるいは、「主よ、あなたの、この御言葉は、受け入れることができません。」
その祈りの後、主は入ってきて、私達を命で養ってくださいます。
詩歌210番の2節後半は言います。「吐き出すなら、なが命は満ちる」
空にされた私達を満たそうと、主はいつも待っておられる故に、主を賛美します。