教会を建造するための王国の訓練

2025年01月12日 | 聖書にちなんだ話
教会を建造するための、王国の訓練というものがあります
私達は、教会が神の王国でもあることを、以前から聞いてきました。
神の王国と教会との違いは何でしょうか。
真の教会は王国であり、王国の出現が教会を生み出します。
王国としての教会とは、今日、教会がどうであるべきかを証しする、団体の、また一群れの、建造された教会です。
建造について語るとき、それは人の友情ではなく、人の組織でもなく、命、神の命の建造です。
この命は、キリストの死と復活を経過した命、命を与える霊となった、霊なるキリストです。
この命は、私達が主を信じ、受け入れた後に、私達の中に入ってこられました。
私達はこの命を持っているので、既に教会の一部ではあるのですが、王国としての教会には、行政の面、支配や統治といった、教会が一つにまとまる面、秩序の面、平和の面が必要となってきます。
そのためには、王国の訓練が必要です。
どのように私達は教会を建造するために、王国の訓練をするのでしょうか。
私達はキリストを享受する必要があります。
そして、その享受を祈りに移す必要があります。
その祈りは、主との交わりです。
私達は建造のために何が必要であるか、実は、私達は既に主から語られているかもしれません。
しかし、その達成のためには、少し祈っただけでは足りないかもしれません。
継続的に祈る必要があるのですが、継続的にキリストを享受することができません。
しかし、訓練とは、多くの失敗の後に、目標に到達する事柄です。
鍵は、私達が進んで十字架を負うこと、進んで、魂の享受を否むこと、進んで、主のみこころを取ることです。
これが表現されるとき、私達は団体の享受があり、調和のとれた王国を、徐々に、段階的に、少しずつ表現するようになります。
ペテロの見た岩としてのキリスト、そしてその上に立て上げる石のビジョンは私達と共にあるのですが、実行は、訓練を必要とします。
主日の集会で、私達は間違いなく、神の言葉に触れ、供給され、また力づけられています。
しかし、主に語られたことや、享受したことを、建造のためには祈ってきていないかもしれません。
あるいは、主に示されたことを、訓練の課題として、真剣に扱ってきていないかもしれません。
主は、彼との交わりの中で、私達を建造にふさわしく整えてくださいます。
どうか私達が集会に参加するたびに、享受したことを主に持ち出し、教会の建造のために、主が私達を整えてくださいますように。
団体的でありながら、調和のとれた、この世では見たことのない、また、この世には属していない神の王国が、私達の間に来ますように。


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