小馬太郎兵衛@タコのイカ踊りぃっ!!

ブログの老後をユラユラ楽しむ悦楽ブログって言ったけどさ、もう一発くらい狙ってもいいのかな。やってもいいかな?

あれからもう幾年月

2007-01-17 05:46:00 | Weblog
阪神大震災から12年、「6434」の鎮魂の火(読売新聞) - goo ニュース

阪神大震災から17日でまる12年。6434人の犠牲を出した災禍から学び取った教訓を生かすため、兵庫県などでつくる「ひょうご安全の日推進県民会議」は16日、減災への取り組みを決意し、災害への備えを訴える「1・17ひょうご安全の日宣言」を発表した。
 神戸市中央区のHAT神戸で17日開く「ひょうご安全の日のつどい」で同県民会議企画委員長の河田恵昭・人と防災未来センター長が朗読する。

 同県伊丹市の昆陽池公園では、震災発生12時間前の16日午後5時46分から「追悼の集い」が始まり、小雨の中、犠牲者と同じ数のろうそくに火がともると、訪れた約300人が祈りをささげた。


早いもので、あれから今日で12年。
時の流れは、遅いと感じつつも、その実はやはり早いもの。
その頃に生まれた世代の子供達は、もう小学校6年生。この春からは中学生になる。

12年前のあの日。
おいらは、前年来崩していた体調が元に戻らず、微熱を出しては下がり、大丈夫だと思って出かけたら気管支炎を併発、ぜんそく持ちと相まって、入院一歩手前の所まで体調を崩していて、年明けに始まっていた専門学校の授業にも出られず、成人式には出たものの、体調がすぐれないという理由で、同窓生達との集まりを自重、やっと学校へ出られるという日だった。

朝起きるや、目に飛び込んできたのは、神戸の信じられない光景。
あらゆるビルというビル、いや、建物という建物が破壊し尽くされ、煙にかすんで摩耶の山々が霞んでいた。
神戸は…?
宝塚は…?
逆瀬川は…?

学校へ行く電車の中でも、通勤ラッシュにもまれながらも、考えるのは、そのことばかりだった。

心配にならないわけがないだろう。
俺が育った地が震災にやられているのは、紛れもない事実なのだ。
阪急今津線の線路の上に、山陽新幹線の橋桁が落ちた。
阪急伊丹駅は崩れ落ちた。
俺が育った街は、いったいどうなっちまってるんだ…。

しかし、この体調である有様。
何もしてやれることがない。
何も出来ない。
何かできるほど、体力的に有り余っていたわけでもなかった。
ただ、刻々と明らかになる信じがたい情報に、遠い空を見つめながら、思いを馳せることしかできなかった。
ただただ、遠い地から、同窓生の無事を願わずにはおれなかった。
それしかできない己の無力さよ。

神戸へ足を向けることが出来たのは、震災から1年近くたった、95年の12月まで待たなくてはならなかった。

…まあ、復興初日の阪神競馬に出かけたんだけどさあ…(殴)

部屋を探してみたら、1995年12月2日、1回阪神初日の競馬新聞と、数点の写真が出てきた。
一眼レフを抱えて出かけたのだから、写真はもうちょっと撮ってあるはずなのだが、いかんせん12年という時の流れ、どうやら一部は散逸してしまったらしいが、仮駅舎で営業する阪急伊丹駅や、復興初日で、遠景に工事機材で覆われたマンションが写る阪神競馬場の写真も残っていた。
これを元に、近日中に、復興初日の阪神競馬場の様子を回想してみようと思う。
家には残念ながらスキャナがないのだが、ネガプリントをデジカメで撮って出力しよう。11年以上も前の写真を眠らせておくのも、なんかもったいないし。
ただし、写真の品質は目をつぶってください(笑泣)。

未曾有の大惨事から、12年。
我々日本人は、防災の意識は変わっただろうか。
この前、北海道に津波警報が出たときに、避難しなかった人がかなり多かったと聞く。
確かに今回の津波も大きくはなかったから、結果的には事なきを得た。
それでいいのか?

あれから、12年。
今一度、6434名の尊き御霊に、黙祷を捧げる。

  


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