こちらの記事の続きであります。
北海道最後の地、函館を発車すると、車内は「青函トンネル突入は何時か」という雰囲気に包まれるけれど、あたしはどうやら青函トンネル突入の時間にモロ被りのタイミングのシャワールームを予約したらしく、まずはシャワールームの予約時間を待つ間に、車窓をじっくり眺めることにしよう。
函館までは、主に車窓左手がオーシャンビュー。
函館で進行方向が変わり、今度も車窓左手がオーシャンビュー。
しかも今度は太平洋や内浦湾ではなく、津軽海峡。
海の向こうは本州。
世が世なら、こんな真夜中に函館駅の連絡通路を走って青函連絡船に乗り継いだのかもしれないけれど、1988年春に「一本列島」を合言葉に、本州と北海道が青函トンネルで結ばれ、本州と四国が瀬戸大橋で結ばれ、まさにレールで直接本州と島が結ばれたのだが、時代はそれすらを超越し、東京から北海道まで青函トンネルを通って行こうなどという向きはもはや酔狂の部類に入り、格安航空会社の台頭で、レールをたどって遠距離旅行をするよりも、はるかに安く北海道へ飛べる時代である。
こうした時代の趨勢は、おそらくは北海道新幹線が開業したとしても、はたしてどれほど変わるだろうか…とは思う。
陸路をたどっての旅行が贅沢であるという点から、鉄道各社もクルーズトレインで顧客に訴求していこうという流れは、もはやあがなう事の出来ない時代の趨勢なのだろうか。
…そんなことを思いながら、ふと6号車のロビーカーに憩う。
列車は七重浜を過ぎたあたりで久根別川を渡ると、河口付近で併走する国道227号では、橋の上で衝突事故が発生したようで、消防車や警察の多数の赤色灯があたり一面を照らしている。
今日のような天気なら、橋の上は凍結しやすくなっており、スリップ事故が発生しやすい気候。どうやら行き交う車が見られないこと、付近の踏切では渋滞しまくっていたことを見ると、通行止めになっていたようである。
木古内を過ぎたあたりで22時30分を過ぎたのでシャワールームへ。
シャワールームの広さは…11年前の「あさかぜ」の頃の記憶と比べても、こんなもんだっただろうか。
あの時も特に狭さは感じなかったから、6分間お湯を浴びてさっぱりする分には申し分ない。
ゆっくりシャワーを浴びていたら、トンネルとスラブ軌道の甲高い音が間段なく響き渡るようになったので、どうやらこのタイミングで青函トンネルに入ったようである。
なるほど、これだけ甲高い音が響けば、いくら個室の中といえどやりたい放d…ゲフンゲフン(´・ω・`)
シャワーを浴びてこざっぱりし、8号車の自室へ戻る。
青函トンネルの中は高温多湿なので、窓一面はびっしりと曇り、車窓の眺めがあまりよくないのが難点。もっともトンネル内で車窓もへったくれもないとは思うが(・・;)
当たり前の話だが、行き交う列車のほとんどは貨物列車で、本州対北海道の物流は、この青函トンネルが任を負うところが大きい。
北海道新幹線開通後の青函トンネル、物流はどうするのだろう。
その中でも途中、明かりのある列車と行き違う。
一路札幌へ向けて走る、青森始発の急行「はまなす」である。
いまや日本に残る貴重な急行、それも最後になった夜行急行。加えてあちらは自由席から寝台車まで備える、古き時代の夜行急行の風情を存分に残している、文字通り夜行列車の最後の牙城と言っても差し支えないほど。
この列車に乗っている時点での「はまなす」の余命はまだ明らかではなかったが、その後のリリースで、今年3月ダイヤ変更での「はまなす」の廃止はなかった。
それとて北海道新幹線建設の進捗で、余命いくばくもないのはもはや火を見るより明らか。
できることなら、あちらの列車にも、廃止前にぜひ乗っておきたい。
連休の組み合わせ次第では、東京18時20分のはやぶさに乗れば間に合うから、乗りたいなあ…。できるなら寝台がいいかな。
自由席に連結されている14系座席車ももちろん絶滅危惧種で、「簡易リクライニングシート」が残るのはもはやあの車両くらいではないか。
やがて、トンネルを抜ける。
ああ。
本州に戻ってきてしまった。
夜が明ければ、旅が終わろうとしている。
列車は、北海道新幹線の「奥津軽いまべつ」駅であろうと思われる場所辺りで北海道新幹線の高架とお別れし、再び在来線へ。
しばらくすると、線路が並ぶ小さな駅に静かに停車した。
どうやら津軽線の蟹田に停車しているようだ。
蟹田かあ…。
懐かしいねえ。
26年前、青森から快速「海峡83号」で渡道した折、蟹田で停車時間があったので改札へ出向き、木古内までの子供用のきっぷを記念に求めたっけ。
硬券だったので、3分の1くらいを切り取られて出されて、初めて子供用のきっぷを買ったのは間違いだったと気がつく13歳の冬w
やおら列車は眠り静まる蟹田を発車すると、また津軽海峡の沿岸を走る。
対岸は、もう北海道。
ああ…。
自室では嫁さんがすでに下段寝台で眠りについており、室内灯を消して、窓の明かりを気にすることなく車窓を思う存分楽しんでいるうちに、さすがに眠気が催してきた。
はしごを取り出して上段寝台に身を投げると、すぐうとうとしたようである。
…ふと、上段寝台の覗き穴から窓の外を見ると明るい。
どうやら青森駅に停車中であるようだ。
その前にどこか操車場みたいなところでしばらく止まっていた気がしないでもない。
昔の北斗星では、青森駅に入らず青森の機関区で機関車付け替えを行い、青森での方向転換がなかった列車も…あったよね確か(・・;)
このあたりでもはや体力の限界。
少々まどろむことにする。
……zzz……。
むう。
気がつけば朝の4時20分頃だっただろうか。
上段の覗き窓を開けてみると、ちょうどどこかの新幹線併設駅を通過中。
見たところ一ノ関ではないような…。
となるとここは北上あたりだろうか。
定刻では4時51分に仙台に到着するはずで、どうやら相当時分遅れているようだが、もちろん寝台の使用時間内なので放送はかからず推測の範囲内だが、おそらくは1時間ほど遅れていそうな気配。
そういえば青森付近でまどろんでいる最中、青森駅に入る手前で操車場付近でしばらく止まっていたように思えたのは、やはりなんらかの影響で抑止がかけられていたのではないだろうか。
まあいいや、どうせこれが最後の北斗星、最後の「ブルートレイン」の旅路。ここまで来れば途中で前途抑止運転打ち切りになろうとも、相当時分遅れようとも、ブルートレイン乗車という一大目的は達せられようとしており、もはやどうなろうともかまいはしない。いや天変地異は困りものだけれども。
また少々まどろむうちに窓の外が少しずつ明るくなる。
仙台に着いたのは5時50分頃で、やはり1時間程度遅れているようだ。
いつまでも惰眠をむさぼろうと思えばむさぼれるのだが、せっかく早起きをしたので、寝台状態でずっとセットされていた下段寝台を、昼間のソファに転換してみる。
寝台をあらよっと壁側へ持ち上げると、下から座り心地がよさそうなソファが現れる。
もとより寝台状態で座ることも不可能ではないが、座面が高く足がつかないためにどうにもリラックスできなかったのである。
さすがに背中までしっかりクッションが効いておりとても座り心地がよく、寝台状態のままで寝ているのももったいないような気がしてきた。
というより、こんなに座り心地のよいソファがあるのに、最初から寝台状態でやってくるのがもったいなく思えてくる。
外が明るくなると、宮城から福島県境を越え、盆地に入ってきた。
そろそろ食堂車では朝食営業が開始させるはずで、開店のアナウンスを待ちわびて食堂車へ出かけてみればすでに満席(・・;)
しばしロビーカーで待機することに。
列車は松川あたりを通過中。
西に見える山肌、おそらくは磐梯山だろうか、西側には雨雲がかかっている様子で、見事な虹が北斗星を出迎え、ロビーカーからは小さく歓声がわきあがる。
待つこと20分ほど、7時頃に空席が出来て案内される。
こちらが朝食のメニュー。和食も捨てがたいところだが、やはりここは洋食を選択。
洋食メニューはこちら。
モーニングコーヒーの香りに包まれながら楽しむ食事と車窓。
これを最高級の贅沢といわずして、なにを贅沢といえようか。
少なくとも日本で、コーヒーと食事と車窓を3つ同時に楽しめるのは、この当時でさえ他にカシオペアとトワイライトエクスプレスしか残されていないのだ。
しばしの朝食タイムを終え、郡山をすぎたあたりで自室に戻ると、しばらくして朝刊のサービスがやってきた。
河北新報だったから、仙台で積み込まれた新聞である。
家では現在朝刊は取っていないので、新聞を読むのもまた貴重な時間。
自室にも日が回るので、改めて自室内の撮影なんぞ。
イスに座って車窓に正対したたずむもよし、朝っぱらから酒を嗜むもまたよしw
一応、部屋用のコーヒーとして、札幌で買っておいた缶コーヒーも用意しておいた。
隣の缶入り味噌汁は、あくまで非常食w
でもどうやらその出番は必要なさそう。
上段寝台の覗き窓。
同じようなレイアウトの開放型B寝台では、このような覗き窓は設けられておらず、改造A寝台の利点といえば利点。
覗き窓がないと、いちいちはしごを降りて「今はどのへんだ」と、眠い目をこすりながらカーテンを開けなければいけないのだからこの覗き窓はなにげに便利。
壁面のパネル。ここでBGMやVTR音声などを切り替えます。
その隣は灰皿。
実はこの部屋、禁煙室ではありません(・・;)
寝台車の特性もあり、喫煙可の個室とはいえタバコのにおいはほとんど気になりませんでしたが。
昔はどこもタバコが吸え、むしろ禁煙車が珍しい存在だったくらいなのだけれど、分煙が社会的な傾向となった20年位前から、喫煙ルームの煙くささはより顕著になったと思う。
20年前に九州で乗った「ハイパー有明」の喫煙車が紫煙で文字通り煙っていたのを見て、こんなのに乗ったら喘息が悪化しちまうと思ったほど。
まあ、喫煙可の部屋でも、気にならなければ問題ないです。神田駅前の天下一品みたいにw
当初の遅れは1時間程度だったけれど、いつの間にか遅れは40分程度まで詰めてきており、10時20分頃に上野に着きそうな気配。
この遅れは、青森県内の強風の影響だそう。青森駅に入る前に操車場あたりで止まっていたのは気のせいではなく、おそらく青い森鉄道管内の風規制があって青森駅に入ることが出来ず、しばらく停車していたに違いない。
朝8時半過ぎに宇都宮を通過。岡本だったか宝積寺だったかで定期列車を待たせて通過しており、普通列車を待たせて遅れを取り戻していたのだろうが、内心「そんなに詰めなくてもいいのに」とは思うw
埼玉県内に入ると、ホームの旅客に目だって若年層が多い。今日は平日なのに…と思ったらさもありなん。今日は11月14日、埼玉県民の日なので、埼玉県内の公立各学校はお休みなのだった。
さて、大宮を過ぎたあたりで、大変名残惜しゅうございますが、下車準備に入りましょう。
はしごはこの掃除用具置き場、いやクローゼットにしまいこみます。
一切の荷物をどけると、テーブルはあれまびっくりこのような広さにw
列車は、上野駅定刻9時38分を40分ほど遅れ、10時20分頃に、静かに上野駅13番線に到着。
旅の終わりは個室寝台車。
その旅は、今、静かに終わろうとしております。
ツインデラックスがある8号車。
四半世紀もの間、首都東京と北の大地を結んできた車両は、改造から26年、新造からはすでに40年を経過しようとしており、くたびれるのは致し方なし。
青森から機関車はEF510に替わっており、長躯駆けてきた相棒ともお別れ。
機関車に貼られているステッカー。
これで寝台列車とも、まず間違いなくお別れ。
さようなら、北海道。
さようなら、北斗星。
さようなら、ブルートレイン。
思えば、旅程を立てる段になり、「新婚旅行ならより豪華な列車がいい」と「カシオペア」が希望だったのだけれど、「北斗星」の定期列車運行廃止が正式にアナウンスされる直前にこの列車に乗るタイミングを得たのは、幸運だったと言う他ない。
これがわずか1ヶ月、或いは半月遅れただけでも、ここまでゆったりとしてブルートレインの旅を楽しむことが出来たかどうかは未知数、いや限りなくできなかっただろう。
それだけでも、当初僕が思っていたような「らしい旅」はできたのかな。
おかげで嫁さんも食わず嫌いだった夜行列車の旅をたいそう気に入ってくれて、後に繋がる展開になるのだから、僕が結婚を迎えるまでの展開共々、人生とは、汽車旅とは全く予想しづらい展開を含ませる麻薬のようなものであると、このとき人生39にして初めて思ったのであります。
「気まぐれない列車」であったはずが、実は、汽車旅そのものがとんでもない「気まぐれ列車」だったのではないか。
そう。
寝台列車の旅は、この日をもって、人生最後の体験。
……のはずだったw
その後、わずか一月を待たずして、別の展開が訪れることになろうとは、誰が想像しただろうか、いやないw
それはもうブログ上でネタバレしているので、今更どうこうということはありませんが、つまりは、そういうことだったのですw
それだけで、この旅は、僕たちにとってとても意味のあるものになったのではなかったのかなと。
最後に。
この旅を、もちろん嫁さんにも捧げますが、もうお一方。
故種村直樹先生に、この旅を捧げます。
北海道最後の地、函館を発車すると、車内は「青函トンネル突入は何時か」という雰囲気に包まれるけれど、あたしはどうやら青函トンネル突入の時間にモロ被りのタイミングのシャワールームを予約したらしく、まずはシャワールームの予約時間を待つ間に、車窓をじっくり眺めることにしよう。
函館までは、主に車窓左手がオーシャンビュー。
函館で進行方向が変わり、今度も車窓左手がオーシャンビュー。
しかも今度は太平洋や内浦湾ではなく、津軽海峡。
海の向こうは本州。
世が世なら、こんな真夜中に函館駅の連絡通路を走って青函連絡船に乗り継いだのかもしれないけれど、1988年春に「一本列島」を合言葉に、本州と北海道が青函トンネルで結ばれ、本州と四国が瀬戸大橋で結ばれ、まさにレールで直接本州と島が結ばれたのだが、時代はそれすらを超越し、東京から北海道まで青函トンネルを通って行こうなどという向きはもはや酔狂の部類に入り、格安航空会社の台頭で、レールをたどって遠距離旅行をするよりも、はるかに安く北海道へ飛べる時代である。
こうした時代の趨勢は、おそらくは北海道新幹線が開業したとしても、はたしてどれほど変わるだろうか…とは思う。
陸路をたどっての旅行が贅沢であるという点から、鉄道各社もクルーズトレインで顧客に訴求していこうという流れは、もはやあがなう事の出来ない時代の趨勢なのだろうか。
…そんなことを思いながら、ふと6号車のロビーカーに憩う。
列車は七重浜を過ぎたあたりで久根別川を渡ると、河口付近で併走する国道227号では、橋の上で衝突事故が発生したようで、消防車や警察の多数の赤色灯があたり一面を照らしている。
今日のような天気なら、橋の上は凍結しやすくなっており、スリップ事故が発生しやすい気候。どうやら行き交う車が見られないこと、付近の踏切では渋滞しまくっていたことを見ると、通行止めになっていたようである。
木古内を過ぎたあたりで22時30分を過ぎたのでシャワールームへ。
シャワールームの広さは…11年前の「あさかぜ」の頃の記憶と比べても、こんなもんだっただろうか。
あの時も特に狭さは感じなかったから、6分間お湯を浴びてさっぱりする分には申し分ない。
ゆっくりシャワーを浴びていたら、トンネルとスラブ軌道の甲高い音が間段なく響き渡るようになったので、どうやらこのタイミングで青函トンネルに入ったようである。
なるほど、これだけ甲高い音が響けば、いくら個室の中といえどやりたい放d…ゲフンゲフン(´・ω・`)
シャワーを浴びてこざっぱりし、8号車の自室へ戻る。
青函トンネルの中は高温多湿なので、窓一面はびっしりと曇り、車窓の眺めがあまりよくないのが難点。もっともトンネル内で車窓もへったくれもないとは思うが(・・;)
当たり前の話だが、行き交う列車のほとんどは貨物列車で、本州対北海道の物流は、この青函トンネルが任を負うところが大きい。
北海道新幹線開通後の青函トンネル、物流はどうするのだろう。
その中でも途中、明かりのある列車と行き違う。
一路札幌へ向けて走る、青森始発の急行「はまなす」である。
いまや日本に残る貴重な急行、それも最後になった夜行急行。加えてあちらは自由席から寝台車まで備える、古き時代の夜行急行の風情を存分に残している、文字通り夜行列車の最後の牙城と言っても差し支えないほど。
この列車に乗っている時点での「はまなす」の余命はまだ明らかではなかったが、その後のリリースで、今年3月ダイヤ変更での「はまなす」の廃止はなかった。
それとて北海道新幹線建設の進捗で、余命いくばくもないのはもはや火を見るより明らか。
できることなら、あちらの列車にも、廃止前にぜひ乗っておきたい。
連休の組み合わせ次第では、東京18時20分のはやぶさに乗れば間に合うから、乗りたいなあ…。できるなら寝台がいいかな。
自由席に連結されている14系座席車ももちろん絶滅危惧種で、「簡易リクライニングシート」が残るのはもはやあの車両くらいではないか。
やがて、トンネルを抜ける。
ああ。
本州に戻ってきてしまった。
夜が明ければ、旅が終わろうとしている。
列車は、北海道新幹線の「奥津軽いまべつ」駅であろうと思われる場所辺りで北海道新幹線の高架とお別れし、再び在来線へ。
しばらくすると、線路が並ぶ小さな駅に静かに停車した。
どうやら津軽線の蟹田に停車しているようだ。
蟹田かあ…。
懐かしいねえ。
26年前、青森から快速「海峡83号」で渡道した折、蟹田で停車時間があったので改札へ出向き、木古内までの子供用のきっぷを記念に求めたっけ。
硬券だったので、3分の1くらいを切り取られて出されて、初めて子供用のきっぷを買ったのは間違いだったと気がつく13歳の冬w
やおら列車は眠り静まる蟹田を発車すると、また津軽海峡の沿岸を走る。
対岸は、もう北海道。
ああ…。
自室では嫁さんがすでに下段寝台で眠りについており、室内灯を消して、窓の明かりを気にすることなく車窓を思う存分楽しんでいるうちに、さすがに眠気が催してきた。
はしごを取り出して上段寝台に身を投げると、すぐうとうとしたようである。
…ふと、上段寝台の覗き穴から窓の外を見ると明るい。
どうやら青森駅に停車中であるようだ。
その前にどこか操車場みたいなところでしばらく止まっていた気がしないでもない。
昔の北斗星では、青森駅に入らず青森の機関区で機関車付け替えを行い、青森での方向転換がなかった列車も…あったよね確か(・・;)
このあたりでもはや体力の限界。
少々まどろむことにする。
……zzz……。
むう。
気がつけば朝の4時20分頃だっただろうか。
上段の覗き窓を開けてみると、ちょうどどこかの新幹線併設駅を通過中。
見たところ一ノ関ではないような…。
となるとここは北上あたりだろうか。
定刻では4時51分に仙台に到着するはずで、どうやら相当時分遅れているようだが、もちろん寝台の使用時間内なので放送はかからず推測の範囲内だが、おそらくは1時間ほど遅れていそうな気配。
そういえば青森付近でまどろんでいる最中、青森駅に入る手前で操車場付近でしばらく止まっていたように思えたのは、やはりなんらかの影響で抑止がかけられていたのではないだろうか。
まあいいや、どうせこれが最後の北斗星、最後の「ブルートレイン」の旅路。ここまで来れば途中で前途抑止運転打ち切りになろうとも、相当時分遅れようとも、ブルートレイン乗車という一大目的は達せられようとしており、もはやどうなろうともかまいはしない。いや天変地異は困りものだけれども。
また少々まどろむうちに窓の外が少しずつ明るくなる。
仙台に着いたのは5時50分頃で、やはり1時間程度遅れているようだ。
いつまでも惰眠をむさぼろうと思えばむさぼれるのだが、せっかく早起きをしたので、寝台状態でずっとセットされていた下段寝台を、昼間のソファに転換してみる。
寝台をあらよっと壁側へ持ち上げると、下から座り心地がよさそうなソファが現れる。
もとより寝台状態で座ることも不可能ではないが、座面が高く足がつかないためにどうにもリラックスできなかったのである。
さすがに背中までしっかりクッションが効いておりとても座り心地がよく、寝台状態のままで寝ているのももったいないような気がしてきた。
というより、こんなに座り心地のよいソファがあるのに、最初から寝台状態でやってくるのがもったいなく思えてくる。
外が明るくなると、宮城から福島県境を越え、盆地に入ってきた。
そろそろ食堂車では朝食営業が開始させるはずで、開店のアナウンスを待ちわびて食堂車へ出かけてみればすでに満席(・・;)
しばしロビーカーで待機することに。
列車は松川あたりを通過中。
西に見える山肌、おそらくは磐梯山だろうか、西側には雨雲がかかっている様子で、見事な虹が北斗星を出迎え、ロビーカーからは小さく歓声がわきあがる。
待つこと20分ほど、7時頃に空席が出来て案内される。
こちらが朝食のメニュー。和食も捨てがたいところだが、やはりここは洋食を選択。
洋食メニューはこちら。
モーニングコーヒーの香りに包まれながら楽しむ食事と車窓。
これを最高級の贅沢といわずして、なにを贅沢といえようか。
少なくとも日本で、コーヒーと食事と車窓を3つ同時に楽しめるのは、この当時でさえ他にカシオペアとトワイライトエクスプレスしか残されていないのだ。
しばしの朝食タイムを終え、郡山をすぎたあたりで自室に戻ると、しばらくして朝刊のサービスがやってきた。
河北新報だったから、仙台で積み込まれた新聞である。
家では現在朝刊は取っていないので、新聞を読むのもまた貴重な時間。
自室にも日が回るので、改めて自室内の撮影なんぞ。
イスに座って車窓に正対したたずむもよし、朝っぱらから酒を嗜むもまたよしw
一応、部屋用のコーヒーとして、札幌で買っておいた缶コーヒーも用意しておいた。
隣の缶入り味噌汁は、あくまで非常食w
でもどうやらその出番は必要なさそう。
上段寝台の覗き窓。
同じようなレイアウトの開放型B寝台では、このような覗き窓は設けられておらず、改造A寝台の利点といえば利点。
覗き窓がないと、いちいちはしごを降りて「今はどのへんだ」と、眠い目をこすりながらカーテンを開けなければいけないのだからこの覗き窓はなにげに便利。
壁面のパネル。ここでBGMやVTR音声などを切り替えます。
その隣は灰皿。
実はこの部屋、禁煙室ではありません(・・;)
寝台車の特性もあり、喫煙可の個室とはいえタバコのにおいはほとんど気になりませんでしたが。
昔はどこもタバコが吸え、むしろ禁煙車が珍しい存在だったくらいなのだけれど、分煙が社会的な傾向となった20年位前から、喫煙ルームの煙くささはより顕著になったと思う。
20年前に九州で乗った「ハイパー有明」の喫煙車が紫煙で文字通り煙っていたのを見て、こんなのに乗ったら喘息が悪化しちまうと思ったほど。
まあ、喫煙可の部屋でも、気にならなければ問題ないです。神田駅前の天下一品みたいにw
当初の遅れは1時間程度だったけれど、いつの間にか遅れは40分程度まで詰めてきており、10時20分頃に上野に着きそうな気配。
この遅れは、青森県内の強風の影響だそう。青森駅に入る前に操車場あたりで止まっていたのは気のせいではなく、おそらく青い森鉄道管内の風規制があって青森駅に入ることが出来ず、しばらく停車していたに違いない。
朝8時半過ぎに宇都宮を通過。岡本だったか宝積寺だったかで定期列車を待たせて通過しており、普通列車を待たせて遅れを取り戻していたのだろうが、内心「そんなに詰めなくてもいいのに」とは思うw
埼玉県内に入ると、ホームの旅客に目だって若年層が多い。今日は平日なのに…と思ったらさもありなん。今日は11月14日、埼玉県民の日なので、埼玉県内の公立各学校はお休みなのだった。
さて、大宮を過ぎたあたりで、大変名残惜しゅうございますが、下車準備に入りましょう。
はしごはこの掃除用具置き場、いやクローゼットにしまいこみます。
一切の荷物をどけると、テーブルはあれまびっくりこのような広さにw
列車は、上野駅定刻9時38分を40分ほど遅れ、10時20分頃に、静かに上野駅13番線に到着。
旅の終わりは個室寝台車。
その旅は、今、静かに終わろうとしております。
ツインデラックスがある8号車。
四半世紀もの間、首都東京と北の大地を結んできた車両は、改造から26年、新造からはすでに40年を経過しようとしており、くたびれるのは致し方なし。
青森から機関車はEF510に替わっており、長躯駆けてきた相棒ともお別れ。
機関車に貼られているステッカー。
これで寝台列車とも、まず間違いなくお別れ。
さようなら、北海道。
さようなら、北斗星。
さようなら、ブルートレイン。
思えば、旅程を立てる段になり、「新婚旅行ならより豪華な列車がいい」と「カシオペア」が希望だったのだけれど、「北斗星」の定期列車運行廃止が正式にアナウンスされる直前にこの列車に乗るタイミングを得たのは、幸運だったと言う他ない。
これがわずか1ヶ月、或いは半月遅れただけでも、ここまでゆったりとしてブルートレインの旅を楽しむことが出来たかどうかは未知数、いや限りなくできなかっただろう。
それだけでも、当初僕が思っていたような「らしい旅」はできたのかな。
おかげで嫁さんも食わず嫌いだった夜行列車の旅をたいそう気に入ってくれて、後に繋がる展開になるのだから、僕が結婚を迎えるまでの展開共々、人生とは、汽車旅とは全く予想しづらい展開を含ませる麻薬のようなものであると、このとき人生39にして初めて思ったのであります。
「気まぐれない列車」であったはずが、実は、汽車旅そのものがとんでもない「気まぐれ列車」だったのではないか。
そう。
寝台列車の旅は、この日をもって、人生最後の体験。
……のはずだったw
その後、わずか一月を待たずして、別の展開が訪れることになろうとは、誰が想像しただろうか、いやないw
それはもうブログ上でネタバレしているので、今更どうこうということはありませんが、つまりは、そういうことだったのですw
それだけで、この旅は、僕たちにとってとても意味のあるものになったのではなかったのかなと。
最後に。
この旅を、もちろん嫁さんにも捧げますが、もうお一方。
故種村直樹先生に、この旅を捧げます。
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