いやいや、ご大層なタイトルがついていても、その実は家で眠っているネガプリントを、どうせならネット上に起こしてやろうか…という魂胆が始まりなだけなんでorz
…というわけで、日付が変わって今日は3月26日。
3月26日。
サブローの日(嘘)。
そういえば以前から、3月26日と聞くと、なんだか妙に胸のつかえがある日だと思っていて、何か思い出に残る日だよな…と思いつつも、何の日だかなかなか思い出せなかったのだけれど、ふとしたことで机回りを掃除していたら、2000年3月26日のオープン戦、川崎球場でのベイスターズ対マリーンズ戦のチケットの半券が思いがけず出てきたので、そういえばこの時、何枚か写真を撮って残してあるはずだ…と家中を探し回ったらようやくあったあった。
とゆーわけで、今日は3月26日にちなみ、川崎球場ファイナル、2000年3月26日の思い出を紐解いてみようかと。
ちなみに、おいらはスキャナーなどという文明の利器は生憎と持ち合わせていないので、写真はネガプリントのまま、デジカメで接写で複写するという荒技を使用したため、画像がかなり粗くなっていることをお許しいただきたく存じます。
この日、2000年3月26日のオープン戦は、元々ベイスターズとマリーンズのオープン戦が当初から組まれていたのは間違いなかったが、当初は横浜球場で行う旨の発表がなされており、川崎球場のスタンド取り壊しの報を受けて、急遽1ヶ月半くらい前に、川崎球場ラストゲームがアナウンスされたのだった。
この報道を聞いてもちろんおいらも色めき立ったのだけれど、肝心のチケットはどーすんべと。川崎まで買いに行くのは一苦労だぞ…と思っていたら、当時から親交があった…というか高校時代からの芝居仲間だった、以前「Mari-chak」というケータイ着メロサイト管理人だったふるかわ氏が、「川崎球場のチケット、行くなら買っておくよ」と有り難い声をかけてくれて、夜中の「道の駅やちよ」で有り難くいただいたことを、つい昨日のように思い出す。
というわけで、川崎球場に着いたのは朝8時くらいだったろうか。
川崎駅からバスで向かったのだけれど、朝8時だというのに球場前はえらい人出になっていて、今日は川崎競輪の開設記念桜花賞典レースの決勝戦だったかしら…などと愚にもつかぬことをふと考えてみたり。この時点で、内野入り口からの行列は、大通りから教育会館方面に伸びていたはずである。
【3月26日23時30分追記】※少しでもページを軽くするため、一部画像をサムネイル表示化しました。クリックすると拡大致します。
バックスクリーン裏の外野入り口からは長蛇の列が出来ていて、おいらが球場に到着した時点で、待機列は球場隣の富士見公園を半周しようとしていた。一列棒状でずらりと並んでいるから、前に何百人がならんでいるかなんて分からない。
なにせ、最初で最後の川崎球場なのだから。
さあ開場…。
…。
…。
川崎球場でこんなことを言うのも野暮というものだが…。
グラウンド狭っ!!
いやあ…。
足繁く野球場に通っていた当時とはいえ、通っていたのは千葉マリンや東京ドーム、西武ドームが中心だったから、狭い球場はこの頃はほとんど体験していない。小学生の時に何度か西宮球場に入ったことがあるけれど、あの頃はあの頃で野球場は広かったと思うし、ラッキーゾーンがあったからなおのこと狭かったはずなのに、小学生時分だから全くと言っていいほど「狭い」という記憶がないため、余計にこのグラウンドが狭いと感じるのだ。
全く同じような感覚は、この2年後の2002年に、福岡ドームの対マリーンズ戦を見た翌日に広島に移動し、広島市民球場で対スワローズ戦を見た時に強烈に覚えたぞ(笑)。
まだまだ客は入場中なので、外野スタンドを徘徊するなら今しかなさそう。
で、やっぱりもう一度度肝を抜かされるわけですな。
もはや説明不要。
本で見たことがある姿そのまんまです(笑)。
コレを見ただけでもうおなかいっぱい。
さて、スタンドが混まないうちに、いろいろと見て回ろう。
バックスクリーンを抜け、ライトスタンドに回ると、あったあった。
かーつ!かーつ!
フェンスを見てみると、壁になにやら埋もれているが、なんだこりゃ?
写真はタテで撮ったので、半回転させてどうぞ。
王さんの通算700号本塁打のレリーフでした。
しかし、ほれぼれするほどものの見事な同化っぷりで、気をつけて見ないと、これが王さんのメモリアルアーチを記念したレリーフだとはとてもとても気がつかないだろう。
少し引くと、ご覧の有様。
グラウンドでは、マリーンズがバッティング練習中。
うっすらと背番号8が読み取れるから、これは清水将海かな。
レフトスタンドでは、フェンス越しになにやら選手が少年ファン達に取り囲まれて、フェンスの隙間ごしにサインサービス中。
おいらの記憶が確かならば、これは吉田篤史投手(現横浜ベイスターズ投手コーチ)だったはず。
試合開始前にはスタンドも超満員。
この時、球場外ではチケットを持っているにも関わらず、未だに入れない人がいたという騒ぎが起きていた事実など、とっとと朝から並んで外野に潜り込んだおいらには知る由もなかった。
試合は川崎らしくもうむちゃくちゃ。
鴎 ○黒木、ロバーツ、清水直、藤田、ウォーレン=清水将、吉鶴
星 川村、●斉藤隆、福盛、森中、矢野=谷繁
HR 堀3号、4号、バリー2号、3号、初芝2号、3号、小坂1号、2号、立川3号、福浦2号
ついでなんで、この試合の両チームのスタメンなんぞも。
ロッテ
8平井
6小坂
7バリー
3石井
Dボーリック
5初芝
9福浦
4堀
2清水将
横浜
6石井琢
8波留
7鈴木尚
4ローズ
3駒田
9佐伯
Dメローニ
5進藤
2谷繁
スタンドの光景は、相手横浜はいつもと同じ応援風景だったのに対し、マリーンズ側は当然なんでもあり。もうまともな応援なんて、こんなお祭りの日に野暮なこと言うなといわんばかりの、素人御免の懐メロのオンパレード。ってーか、この日ばかりはさすがにおいらはついていけず、後から復習して後学用に活かすのみ_| ̄|○
さすがにこの写真にあるように、手持ち太鼓と鐘が出てきた時は感涙にむせびましたとも。
千葉マリンの内野席にも、21世紀に入る前までは、内野応援団が手持ち太鼓で客に三三七拍子を即していたっけな。懐かしい光景だこと。
…。
…。
時は流れて2009年。
川崎球場のスタンドは取り壊されたけれども、球場自体は残り、フェンスや照明灯の一部に立派に痕跡を残しつつ、今なおアメフトの聖地として、歓声がやむことなく今を立派に生きている。
関係過去ログ:2008年10月20日付忘れじの10.19川崎劇場
そしてその歴史は、千葉ロッテマリーンズが続く限り、昔は今に、そして今は昔に、その時を止めることなく、表裏一体として続いている。
…というわけで、日付が変わって今日は3月26日。
3月26日。
サブローの日(嘘)。
そういえば以前から、3月26日と聞くと、なんだか妙に胸のつかえがある日だと思っていて、何か思い出に残る日だよな…と思いつつも、何の日だかなかなか思い出せなかったのだけれど、ふとしたことで机回りを掃除していたら、2000年3月26日のオープン戦、川崎球場でのベイスターズ対マリーンズ戦のチケットの半券が思いがけず出てきたので、そういえばこの時、何枚か写真を撮って残してあるはずだ…と家中を探し回ったらようやくあったあった。
とゆーわけで、今日は3月26日にちなみ、川崎球場ファイナル、2000年3月26日の思い出を紐解いてみようかと。
ちなみに、おいらはスキャナーなどという文明の利器は生憎と持ち合わせていないので、写真はネガプリントのまま、デジカメで接写で複写するという荒技を使用したため、画像がかなり粗くなっていることをお許しいただきたく存じます。
この日、2000年3月26日のオープン戦は、元々ベイスターズとマリーンズのオープン戦が当初から組まれていたのは間違いなかったが、当初は横浜球場で行う旨の発表がなされており、川崎球場のスタンド取り壊しの報を受けて、急遽1ヶ月半くらい前に、川崎球場ラストゲームがアナウンスされたのだった。
この報道を聞いてもちろんおいらも色めき立ったのだけれど、肝心のチケットはどーすんべと。川崎まで買いに行くのは一苦労だぞ…と思っていたら、当時から親交があった…というか高校時代からの芝居仲間だった、以前「Mari-chak」というケータイ着メロサイト管理人だったふるかわ氏が、「川崎球場のチケット、行くなら買っておくよ」と有り難い声をかけてくれて、夜中の「道の駅やちよ」で有り難くいただいたことを、つい昨日のように思い出す。
というわけで、川崎球場に着いたのは朝8時くらいだったろうか。
川崎駅からバスで向かったのだけれど、朝8時だというのに球場前はえらい人出になっていて、今日は川崎競輪の開設記念桜花賞典レースの決勝戦だったかしら…などと愚にもつかぬことをふと考えてみたり。この時点で、内野入り口からの行列は、大通りから教育会館方面に伸びていたはずである。
【3月26日23時30分追記】※少しでもページを軽くするため、一部画像をサムネイル表示化しました。クリックすると拡大致します。
バックスクリーン裏の外野入り口からは長蛇の列が出来ていて、おいらが球場に到着した時点で、待機列は球場隣の富士見公園を半周しようとしていた。一列棒状でずらりと並んでいるから、前に何百人がならんでいるかなんて分からない。
なにせ、最初で最後の川崎球場なのだから。
さあ開場…。
…。
…。
川崎球場でこんなことを言うのも野暮というものだが…。
グラウンド狭っ!!
いやあ…。
足繁く野球場に通っていた当時とはいえ、通っていたのは千葉マリンや東京ドーム、西武ドームが中心だったから、狭い球場はこの頃はほとんど体験していない。小学生の時に何度か西宮球場に入ったことがあるけれど、あの頃はあの頃で野球場は広かったと思うし、ラッキーゾーンがあったからなおのこと狭かったはずなのに、小学生時分だから全くと言っていいほど「狭い」という記憶がないため、余計にこのグラウンドが狭いと感じるのだ。
全く同じような感覚は、この2年後の2002年に、福岡ドームの対マリーンズ戦を見た翌日に広島に移動し、広島市民球場で対スワローズ戦を見た時に強烈に覚えたぞ(笑)。
まだまだ客は入場中なので、外野スタンドを徘徊するなら今しかなさそう。
で、やっぱりもう一度度肝を抜かされるわけですな。
もはや説明不要。
本で見たことがある姿そのまんまです(笑)。
コレを見ただけでもうおなかいっぱい。
さて、スタンドが混まないうちに、いろいろと見て回ろう。
バックスクリーンを抜け、ライトスタンドに回ると、あったあった。
フェンスを見てみると、壁になにやら埋もれているが、なんだこりゃ?
写真はタテで撮ったので、半回転させてどうぞ。
王さんの通算700号本塁打のレリーフでした。
しかし、ほれぼれするほどものの見事な同化っぷりで、気をつけて見ないと、これが王さんのメモリアルアーチを記念したレリーフだとはとてもとても気がつかないだろう。
少し引くと、ご覧の有様。
グラウンドでは、マリーンズがバッティング練習中。
うっすらと背番号8が読み取れるから、これは清水将海かな。
レフトスタンドでは、フェンス越しになにやら選手が少年ファン達に取り囲まれて、フェンスの隙間ごしにサインサービス中。
おいらの記憶が確かならば、これは吉田篤史投手(現横浜ベイスターズ投手コーチ)だったはず。
試合開始前にはスタンドも超満員。
この時、球場外ではチケットを持っているにも関わらず、未だに入れない人がいたという騒ぎが起きていた事実など、とっとと朝から並んで外野に潜り込んだおいらには知る由もなかった。
試合は川崎らしくもうむちゃくちゃ。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E | |
0 | 0 | 1 | 4 | 6 | 0 | 0 | 8 | 3 | 22 | 26 | 0 | |
1 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 13 | 0 |
鴎 ○黒木、ロバーツ、清水直、藤田、ウォーレン=清水将、吉鶴
星 川村、●斉藤隆、福盛、森中、矢野=谷繁
HR 堀3号、4号、バリー2号、3号、初芝2号、3号、小坂1号、2号、立川3号、福浦2号
ついでなんで、この試合の両チームのスタメンなんぞも。
ロッテ
8平井
6小坂
7バリー
3石井
Dボーリック
5初芝
9福浦
4堀
2清水将
横浜
6石井琢
8波留
7鈴木尚
4ローズ
3駒田
9佐伯
Dメローニ
5進藤
2谷繁
スタンドの光景は、相手横浜はいつもと同じ応援風景だったのに対し、マリーンズ側は当然なんでもあり。もうまともな応援なんて、こんなお祭りの日に野暮なこと言うなといわんばかりの、素人御免の懐メロのオンパレード。ってーか、この日ばかりはさすがにおいらはついていけず、後から復習して後学用に活かすのみ_| ̄|○
さすがにこの写真にあるように、手持ち太鼓と鐘が出てきた時は感涙にむせびましたとも。
千葉マリンの内野席にも、21世紀に入る前までは、内野応援団が手持ち太鼓で客に三三七拍子を即していたっけな。懐かしい光景だこと。
…。
…。
時は流れて2009年。
川崎球場のスタンドは取り壊されたけれども、球場自体は残り、フェンスや照明灯の一部に立派に痕跡を残しつつ、今なおアメフトの聖地として、歓声がやむことなく今を立派に生きている。
関係過去ログ:2008年10月20日付忘れじの10.19川崎劇場
そしてその歴史は、千葉ロッテマリーンズが続く限り、昔は今に、そして今は昔に、その時を止めることなく、表裏一体として続いている。
ページ容量が大きすぎてブラウザがフリーズ寸前
PowerBook G4を使ってる方が悪いのかもしれないけど。。。
今までのように、全部を「gooオリジナルサイズ」ではりつけると、軽くなるんだけど拡大縮小ができなくなるのよね。
いろいろいじってみますわ。
私もこの試合見に行っていたので、懐かしかったです。あれから、もう9年もたつんですねぇ。
私の席はネット裏のややベンチ寄り最前列だったので、もしかしたら記事の中の写真に写っているかもしれません。(判別は不能ですが(笑))
確かに、あの日は凄い人でしたよね。川崎があれほど賑わったのを見たのは、村田兆治が200勝に失敗した試合以来でした。
優勝から遠ざかりすぎていたロッテファンにとっては、紙テープを投げ入れるのに慣れていなくて、あの試合後、紙テープ投げ入れに失敗したのを思い出します。
また、ロッテネタの記事、楽しみにしています。では。
それが死ぬまで半永久的に来なければいいんですがね…。
>JB&ミィの父様
初のご訪問&コメントありがとうございます!
万事このようなサイトでございますが、どうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m
紙テープ、投げましたねえ…。
なにせ初めての経験でしたから、芯を抜かないと人に当たるとメチャクチャ痛い…ということすら知らないほどの無知でした。プロレスで見慣れた光景のはずなのに(笑)。
あれから9年が経過し、マリーンズも優勝を果たすなど、時代はこの9年間で大きく変化しました。思えば早いものですね…。
川崎球場に、まだ当時の痕跡が一部でも残っているのはうれしい限りです。
またゆっくり、川崎球場の名残を楽しみつつ、アメフトでも見に行こうかと考えております。
またのご来訪をお待ち致しております。
ありがとうございました。
“西宮球場”
のチケット半券が出てきまして…懐かしい~ww。
当時、私は表向きにロッテファンとは言えず…パ・リーグファンとして~コソコソと生息しておりました。
唯一!阪急ファンの友達が居まして、年に数回程、西宮球場等へ出掛けてはブレーブスを応援(付き合い上)してました。
川崎球場は、87シーズン夏に青春18きっぷ+大垣夜行で一度だけ参戦の記憶があるだけで…、それが最初で最後の参戦記憶ですなぁ~。
とはいえ…、歴史の紐を解くと⇒旧・大洋ホエールズも川崎球場を本拠地にしてた球団な訳で。
ロッテオリオンズと大洋ホエールズ…。
…時代は流れて現在は⇒千葉ロッテマリーンズと横浜ベイスターズ。
どうも~私が、この2球団がほぼ同じ位に好きなのは(当然!ロッテ寄りですが)⇒“川崎臭”が今も尚!私の鼻に香って来る気がするんですよねぇ~(≧▽≦)ゞ。
時代は流れ…跡形も無くなってしまった西宮球場。
せめて…川崎球場は、姿・形…面影だけは生涯~残して欲しいモノですなぁ~。
いや懐かしい…。
秋葉原のヨドバシ上の書店で、ベースボールマガジン社のプロモーションが行われていて、復刻版の阪急ブレーブスのキャップが売られておりまして…。
12800円ですがorz
その並びには、初芝ネ申サイン入りユニフォームが、85000円だったか89500円だか、べらぼうな値段で並んでいるのはなんだかなあ…と思いますね。このご時世にそんな値段をつけて売れるのかしら?
この川崎球場の試合は、ベイスターズとマリーンズだったからこそ、川崎球場で対戦する意義があったのですよね。ベイスターズも歴史を紐解けば大洋時代、横浜移転前は川崎が本拠地でしたからね。
川崎球場の痕跡は未だに残っています。
関東に来られた際は、ムーンライトながらを横浜で途中下車して川崎に立ち寄ってから千葉マリンへ来られることを、強くお勧めします(笑)。
私はフリー編集者の揖斐條太と申します。
本年12月、東京にございます洋泉社という出版社から『昭和プロ野球「球場」物語』と題したムック書籍の刊行を予定しております。
その中で管理人様のホームページを拝見し、お写真を転載させていただけないものかと思い、恐れながらご連絡をさせていただきました。なお、掲載に当たり、協力者としてお名前のクレジットを掲載させていただき、完成書籍を贈呈させていただきたく考えておりますが、その他、規定等ございましたらどうぞお申し付けください。
なお、転載させていただきたいのはこちらに掲載されていらっしゃいます「川崎球場」のお写真です。突然のご連絡は失礼かと存じましたが、大変貴重なお写真を掲載されていらっしゃいましたので、メールをさせていただきました。
不躾をお許しいただき、よろしくご検討いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。※まずは企画書などご覧いただきたいと存じますので、大変恐れながら下記のアドレスまでメールを頂戴できればと存じます。お手数をおかけいたしますがどうぞよろしくお願いいたします。
揖斐條太
isuzu-newpower-z@kxb.biglobe.ne.jp