今生きている人間は例外なく息をしている。
自分の吸う息吐く息を意識できないほど愚かな人間などいない。
自分の吸う息吐く息を意識できないほど愚かな人間などいない。
釈尊は、呼吸をただ観察することを説いた。
ブッダのことば
※
これはブッダが修行熱心な弟子達に、呼吸の観察だけで解脱までたどり着く道筋を一気に説いたものなので、呼吸瞑想法全体の極度の要約、いわば本の見出しの列挙のような内容になっている。
これだけで理解できる人はまずいないので、わからなくてもがっかりしないように。
…長く息を吐いたら、息を長く吐いたとハッキリと知り、長く息を吸ったら、長く息を吸ったとハッキリと知ります。
短く息を吐いたら、短く息を吐いたとハッキリと知り、短く息を吸ったら、短く息を吸ったとハッキリと知ります。
彼は当然「すべての体を知って息を吐く」、「すべての体を知って息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「カーヤサンカーラ(体を作るもの。身行。この場合は特に呼吸のこと)を静めて息を吐く」、「カーヤサンカーラを鎮めて息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、
彼は当然「ピーティを知り尽して息を吐く」、「ピーティを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、
彼は当然「ピーティを知り尽して息を吐く」、「ピーティを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、
彼は当然「スッカを知り尽して息を吐く」「スッカを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「チッタサンカーラを知り尽して息を吐く」「チッタサンカーラを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「チッタサンカーラを鎮めて息を吐く」「チッタサンカーラを鎮めて息を吸う」と心して練習し、
彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を喜ばせて息を吐く」「心を喜ばせて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を安定せて息を吐く」「心を安定させて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を解放して息を吐く」「心を解放して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「無常を見て息を吐く」「無常を見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「無常を見て息を吐く」「無常を見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「薄れるダンマを見て息を吐く」「薄れるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「消滅であるダンマを見て息を吐く」「消滅であるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「返却するダンマを見て息を吐く」「返却するダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて、このように練習します。
比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティサマーディに励めば、体の揺れ、心の揺れは当然あり得ません。
比丘のみなさん。私も同じです。私が悟る前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私が、ほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので、心も漏から脱しました。
比丘のみなさん。私も同じです。私が悟る前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私が、ほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので、心も漏から脱しました。
(以上引用終)
アーナパーナサティによって、ほぼ自動的に解脱に至るまでの非常に長いアウトラインをブッダが語っているが、やることは最初から最後までたったひとつだけだ。
自分の吸う息吐く息にサティを入れる
という単純作業を倦まず弛まず続けることだけだ。
しかし、やってみると、これが易往而無人(簡単なのに、やり遂げる人はめったにいない)だとわかる。
この時、唯一の助けになるのが苦聖諦だと気づく。
それは、
ブッダがなぜ真っ先に苦聖諦を説いたのか、
その深い理由
が初めて明らかになる瞬間だ。
じっさい、あなたの心が苦を知らなければ、幾ら言葉や文字で真剣に学んでも、数分間のサティすらまともに維持できないだろう。