哲学日記

渇愛/放っておく|スマナサーラ長老

【新企画】渇愛/放っておく|スマナサーラ長老の初期仏教テーマトーク(15 Aug 2021 ゴータミー精舎) - YouTube

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[感想] 

 犬は犬に生れて良かったと満足している。

蜘蛛は蜘蛛に生れて良かったと満足している。

虎に生れたかったのに残念だと、蜘蛛は思わない。

渇愛の威力によって、思えないようになっている。

 

全ての生命は渇愛に支配されているので、

 

地獄に生れても、地獄に生れて良かった

 

と思うようになっている。

 

これは智慧なんかじゃない。

 

世俗的人間は、若いうち渇愛にちょっと抵抗してみた後にすぐ屈服して、渇愛を心から肯定して改めて生き直す。

 

人生に目覚めるとは、結局

苦しい現実を喜んで生きようと自分で決心しなおすことだ

という、アホみたいな結論になる。
賢愚の別なくみんな口をそろえてそういう結論になる。

 

これを、人生の究極の智慧とみなし、サトリとはこれだろうと思って自画自賛している。

 

なんのこともない、

犬や蜘蛛が無自覚にやってる生き方を、人間は自分の意志で選択して、はっきり自覚してやってるに過ぎない。

 

そして、渇愛から目的を作り、さんざ苦労して

天界に生れたら、天界に生れて良かった

と思う。

 

他の人間は、それを「よそはよそうちはうち

と言いながら羨み妬み憧れる。

 

渇愛の奴婢ぬひどうしの内輪話であり、

これは智慧なんかじゃない。

 

 

 

苦しみには終わりがない。

渇愛は根絶しなければならない。

 

渇愛から目的を作ったらきりがない、

渇愛の根絶を目的に努力する。

 

その努力も渇愛だろうというのは、

味噌と糞をまぜこぜにする愚か者だ。

 

目的地に着くまでは、

目的地に行くという意欲が必要だが、

目的地に着けば、

その意欲は役目を終え消えている。

あたりまえの道理であり、

分からない方がどうかしている。

たぶん、絶対行きたくない気持ちを

馬鹿自慢してるのだろう。

 

 

 

 

 

 

さて、実践の極意は

 

放っておく

 

だ。

 

放っておくの反対は「執着する」

 

俺・俺のもの

を使わないのだ。

 

だから、無関心ではない

無関心は放逸であり、

放っておくは不放逸だ。

 

 

 

 

 

具体的には

 

サティ・今ここ・

ヴィパッサナー実践

 

だ。

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)  

天才ハマクラの
「花と小父さん」

 

乙女チックなファンタジーの中に、一種異様に気色悪いおっさんの情念が秘められてる。

 花と小父さん:植木 等 - YouTube

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