哲学日記

不純な動機の善行も、なんもせんよりはずっとまし

200506の記事「暫出還復没070308記事の編集再録で、
 
親鸞聖人『教行信証』化身土巻に「涅槃経」の気になる教えが引用されている。

四つの善事あり、悪果を獲得せん。
悪い結果になる善行が四つある、というのである。

青字は経典引用文、黒字はおれの試訳)

一つには勝他のためのゆえに経典を読誦す。

相手を言い負かしてやろうと思って、仏教を勉強すること。

二つには利養のためのゆえに禁戒を受持せん。
金と名誉のために、立派な修行者をまねること。

三つには他属のためのゆえにして布施を行ぜん。
ひとを自分に靡かせるために、布施をすること。

四つには非想非非想処のためのゆえに繋念思惟けねんしゆいせん。
真の悟りでない「洗練を極めた煩悩」を目的に修行すること。
 
こういう善を実行してはつまらない。
 
このように書いたのだが
 
今の自分の考えは、次のように変わっている。

 

 

 経典を読誦す、禁戒を受持せん、布施を行ぜん、繋念思惟けねんしゆいせん

仏教を勉強する、立派な修行者をまねる、布施をする、専心瞑想する

 

これらの善行は、とにかくまず実行すべき事なのだ。

動機が不純だろうと、ちっともかまうことではない。

 

ブッダは

 

 

もしどこかのお坊さんが悟りを開いたと聞いたなら、
悔しくなってでも、慢心を持ってでも、自分も悟れるように精進しなさい。

 

と、教えている。

 

やれるだけ、実際に全力でやる

ことが決定的に大事だ。

 

 

始めのうちは

 

「俺・俺のもの」を後生大事に温存したまま懸命に努力することになり、ブレーキを踏んだままアクセルを吹かすような具合にな

 っても、かまわず続ければ、ブレーキを踏む足が、ふと緩むことだって起きるかもしれない。

そして、他ならぬブッダが、このことを保証してくれてるとおもうのだ。

 

 

 

 

 

「毒まじりの善」と云いたい奴には言わせておけ。

行いの伴わない「高級な信仰」は嫌いだ。

 

不純な動機の善行も、なんもせんよりはずっとまし。

 

そう思うようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)  

グラス・ルーツ。

「燃ゆる瞳」

グラスルーツではこの曲が一番好きでした。久しぶりに聴いた。やっぱりいい曲。


Temptation Eyes

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る