哲学日記

人は獣脳の機嫌とってる、苦を愛す奴隷

【仏教切り抜き】私たちは獣の脳に支配されてる/原始脳に脅される毎日 - YouTube

 

 
たとえば
人間は決して死を受け入れることができない。
自分は不滅の魂だと妄想してる。
これはいじめ乃至戦争の根本原因だ。
 
たとえば
「逆も真なり」は論理の初歩的誤謬であると学んでるのに、決して認めてない。
 
口先でいくら否定しても、彼らの行動によって、毎日自分で明確に証明してることだ。

 

たとえば

「フィクションを信じる力」などと美化する。

エゴの本能的捏造(真っ赤な嘘)を

自覚的に崇拝し、ためらわず実行しろ

と励まし合ってる。

無明の酒をもっと飲め飲めと

互いに勧めてる姿だ。

 

これらから巨大で深刻な禍が生じて、
人間を自業自得で苦しめ続けてる。
人間は苦しみの中で、
さらなる苦しみを求め
夢中になってる。
 
人間
 
ひたすら生きんとする盲目の意志
 
の奴隷である。
 
身体や心がやりたがることは、
自分がやりたいことと同じじゃない。
さあいよいよ死ぬというその瞬間とき
誰でも気づけるが、
それではあまりに遅い。

 

【仏教切り抜き】生きていたいから五感が作り出す幻覚に執着する - YouTube

 

 

悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ 中村 元訳 第2章第9節「耕 作 者」
より引用させていただきます。

(悪魔・悪しき者は、このようにブッダに語った)
修行者よ。眼はわたしのものです。色かたちはわたしのものです。眼が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

嗅覚作用はわたしのものだ。香りはわたしのものだ。嗅覚作用が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

舌はわたしのものだ。味はわたしのものだ。舌が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

身体はわたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

心はわたしのものだ。心で考えられるものも、わたしのものだ。心の接触から起こる識別領域は、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか。
(以上引用終)

 

 

対象
色声香味触法の六境(六外処)

感覚
眼耳鼻舌身意の六根(六内処)

六境六根合わせて十二処という。

 

対象と感覚が触れて生じる6種の
識別領域
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六識

十二処とこの六識を合わせて十八界という。

 

十八界(六境六根六識)は、この世の一切を意味する。

したがって悪魔は、ブッダに

 

この世の一切はわたしのものだ。

誰一人わたしから脱れられない。

そなたも、どこに行こうと

わたしから脱れられない。

 

 

と脅してるのだ。

 

この世の一切が悪魔のものだということは、

ブッダも初転法輪の初めから、明確に認めてる。

(そのうえで、こうしたら悟れたという唯一の道を発見し、説き広めた)

言うまでもなく、悪魔もこれを認め、誇っている。

 

では、

いったい、だれが認めないのか?

 

悪魔の策略に気づきたくない、

世間の人々なのだ。

 

悪魔の支配下で絶えず苦しみながら、

その苦を愛し夢中になってる。

やがて必ず自分を殺す刺客を、

恋人のように慕ってるのだ。

彼らは

自分を信じてないから、

誰一人悪魔から脱れられない。

 

自分を信じられないのは、

心の底に恐れがあるのに、

それを不誠実な態度でごまかしてるからだ。

心の恐れを、ごまかさずにいられないのは
「人は死んでも、自分だけは死なない」

と思ってるからだ。

嘘を信じようと無理をするから、

自信がもてなくなり、
自灯明の人生を歩む
ことが根底的にできなくなってる。





 


病なんの処にか在る。

病は不自信の処に在り。
(臨済禅師)
 

 

「修行が進まないのは、お前が自分を信じないからだ」
と臨済禅師は断言してる。

釈尊の「自灯明」の重要さを説いてるのだ。


臨済禅師の「自信」といい、釈尊の「自灯明」といい、とてつもない奥行きのあることばだ。

 

 

 

自分を深く信じるためには、
自分に対して一切ごまかしがあってはいけない。

自分の心は自分ではない。

自分の心にごまかされないように、
よく注意すること(satiが大事です。



憎む人が憎む人にたいして、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、よこしまなことをめざしている自分の心が自分に対して自分でなすほどには、それほどひどいことをしない。
(ブッダの感興のことば31・9中村 元訳)

 

 

 

 

「人は死んでも、自分だけは死なない」
と邪な心は盲目的に渇望し、

自分を根底からごまかしてる。

この状態で、自分を信じることは不可能です。

 

 

母も父もその他の親族も、正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてはくれない。
(ブッダの感興のことば31・10)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs)

 
(過去記事統合増補編集再録)
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