出世間の幸福とは、渇愛を無くすこと #shorts #スマナサーラ長老 #初期仏教 #jtba - YouTube
満たされてないという気持ちを治しちゃう。
いわゆる渇愛ですね。…
究極の幸福…渇愛がある程度でいること。
[感想]
渇愛はありふれたものだが、異常欲だ。
この異常欲から離れることは
小欲であり無欲ではない。
渇愛がある程度で満たされるとは
小欲知足のことだ。
ヒバカリと竜くらい、とんでもなく違うが、世間は混同してる。
完全な小欲知足は、身の程を知るという
弱者のひねこびた保身術じゃなく、
最高の幸福を得たブッダに現れる
自然な生活態度だ。
すなわち、小欲知足は
悟りの姿だとおもう。
渇愛の追究に幸福はないと明晰判明に知った者に、初めて垣間見える積極的境地だ。
この境地に、実際に達するのは容易ではない。
実は小欲知足になるは簡単なのだが、
易往而無人の消息があり、
それゆえ体得者は極めて少ない。
※易往而無人
Google生成AI[SGE]の応答
「易往而無人」は、仏教の用語で、「往き易くして人無し」という意味です。『大無量寿経』に登場する言葉で、阿弥陀仏の誓願を信じる者はたやすく極楽往生できるが、実際にはそういう者はごくまれであることを意味します。
また、念仏は極楽へ往き易い行なのに、真に行ずる人が少ないことを戒めた語でもあります。
苦痛のない状態にあって、しかも退屈がなければ、大体において地上の幸福を達成したものと見てよい。
それ以外はすべて架空だからだ。
(ショーペンハウアー「幸福について」橋本 文夫訳)
平均人は、「苦痛のない状態」を幸福と感じ続けることができず、じきに退屈→不幸感というまちがった道へ入ってしまう。
快楽を求めて、「苦痛のない状態」をあっさり捨てる。
つまり、今や不幸感ではなく本物の不幸へ、すなわち苦痛の状態に陥る。
その後、この現実の不幸から運よく逃げおおせた者は「幸福」を感じる。
しかし、その「幸福」は、いちばん最初の「苦痛のない状態」よりましなものだろうか。
ここのところを、妄想せず、事実を直視できる人間は驚くほど少ない。
自然破壊に加担せずに、ほんとの幸福を感じるのは、
小欲知足
以外ありえない。
(My Favorite Songs)
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