ネットで大島渚の映画「愛のコリーダ」(ノーカット版)を見て、当時のことを思い出した。
ン十年前、映画館で最初に見た時、(辛気臭い映画だなあ)とおもった。
バックグラウンドから常に軍靴の音が聞こえる暗い時代に抗して咲いた狂花の話だから仕方ないとはいえ、あまりいい印象はもてなかった。
映画「愛のコリーダ 修復版」予告編
局部切断の「阿部定事件」を描き論争 大島渚監督 最大の問題作
しかし、
その後クインシー・ジョーンズがリリースした名曲「Ai no corrida」を聴いた時、
あのじめじめした辛気臭い映画に触発されて、こんなパワーあふれる明るいかっこいい!曲を作る人間がいることに、おれはひどく感動した。これこそが阿部定事件の本質を最も適格に捉えてると気づかされたからだ。
こんなぶっ飛んだ素晴らしい発想は、日本のどれほど才能ある作曲家でも、不可能だろうとおもう。
まさに、陽気に生きるためなら親でも殺すカラッとネアカなアメリカの面目躍如だとおもったのだ。
リアルタイムで聴いたやつはもっと短かった。これは良い感じの間奏を挟んだロングバージョンでこっちの方がさらにノリノリ。
QUINCY JONES Ai No Corrida ULTRASOUND LONGER 12 INCH MIX
ところで、調べたら、クインシー・ジョーンズのレコードはカバーで、オリジナルはチャス・ジャンケルというイギリス出身のミュージシャンだった。まあ映画にインスパイアされてチャス・ジャンケルが作曲しクインシー・ジョーンズが編曲して大ヒットしたということで。
作家の坂口安吾は
実際に阿部定と対談し、
「お定さん」の印象を、
ごく平凡な下町の女性で、
人見知りせず気立ての良い明るい性格
と書いてる。
より引用させていただきます。
いつごろから恋をしましたか、と私がきゝましたら、吉さんとあゝなるまで、つまり三十三かの年まで恋をしたことはなかった。あれが自分には一代の恋だった。然し、もし、これからでも、恋ができるなら、したいとは思っている。
そのときお定さんはこう附けたして言いました。世の中の大概の女の人は一度も恋をしないで死ぬ人も多いのだから、私は幸福なのだろう、と。
然し、お定さんは男が好きになった。そして、その男にだまされた、そういうことは十六七から何度もあったのですが、それを恋愛とは考えていないのです。そして、自分の愛する人に自分も亦愛された、相思相愛、つまり吉さんとの場合だけが恋であり、三十いくつで一代の恋を始めて知った。世の多くの女の人は恋を知らずに死ぬ人も多い、そう申しておるのであります。
又、お定さんは、自分はあのことは実際は少しも後悔していない、世の中の女の人はみんな、もし本当に恋をすればあゝなるだろうと思っている、みんな、同じものを持っている筈と申していました。
事実、あの出来事には犯罪性というものは全く無いように思われます。吉さんの方にはマゾヒズムの傾向があって房事の折に首をしめて貰う。殆ど窒息に近いまで常に首をしめて貰う例だそうで、たまたま本当に死んでしまった、お定さんは始めは気がつかなかった程で、そういうクライマックスで死んでいった吉さんを殺したような気がしないのは自然であり、むしろそのまま死んでしまった吉さんに無限の愛情を覚えざるを得なかったのは当然だろうと思います。まったく二人だけの至高の世界に於ける一つの愛情の完結みたいなもので、吉さんが死して自分と共に一つに帰したような思いもしたろうと思われます。
そういうアゲクに吉さんの虚しい屍体を置き残して立ち去るとすれば、最愛の形見に一物を斬りとることも自然であり、最も女らしい犯罪、女の弱さそのものゝ姿で、まことに同情すべきものゝ如くに思われます。
八百屋お七を娘の狂恋とすれば、お定さんは女の恋であり、この二つはむしろ多く可憐なる要素を含むもので、特に現実の女としてのお定さんというものは、たゞ弱く、ひたむきな、そして案外にもつゝましやかな女、極めて平凡そのものゝ女、そういう感じの可憐な人でありました。
私はお定さんのような事件は正しい意味で世間の人々が理解する必要があると考えていますが、だいたい男女の肉体生活の合理性というものが、もっと公開的に論議せられることが望ましいと思うものです。
(引用終)
煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲ものうきことなく、常に我を照したまう
真っ正直な煩悩具足のお定さんに幸あれ。
(過去記事編集再録)