佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その9」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube
阿含・ニカーヤ経典の中,相応部六処篇で説かれている「教えのコア」
念をそなえ(一種のマインドフルネス)
正知をそなえて過ごせ。
(以上引用終。強調は私です)
おれは経典・相応部六処篇を所持しないので、手持ちの「仏教聖典」で探すと「阿含経 仏伝2、1-13)にこうある。
比丘等よ、比丘は正念にして自覚してあるべし。
…
比丘が自覚してあるとは何ぞや。
比丘等よ、比丘が出づるにも入るにも自覚を為してあり、前を見るにも後ろを見るにも自覚を為してあり、身を屈するにも伸ばすにも自覚を為してあり、衣鉢を取るにも、自覚を為してあり、食し、飲み、咀み、味ふにも自覚を為してあり、行き、止り、坐り、眠り、覚め、語り、黙してあるにも自覚を為してあり。
これ比丘等よ、比丘が自覚してあるなり。
比丘等よ、比丘は正念にして自覚してあるべし。
(以上引用終)
気になったことが一つあるので、まずそれを書く。
これは(つまり、どんなときにも)といいたいのだから、
動画で紹介されてる最古の原典相応部六処篇の「排泄するにも」は、後の引用時に、省略も割愛もしてはいけない部分だとおもう。
さて、本題。
不断の自覚。
目覚めているかぎり、常に「気づき」を失わず気をつけていること(=マインドフルネス)
これがブッダの教えの中心にある。
正念についても説かれている。
比丘等よ、比丘が正念にあるとは何ぞや。
ここに、比丘等よ、比丘は身に就きて身を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。受に就きて…乃至…心に就きて…乃至…法に就きて法を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。
これ比丘等よ、比丘が正念にてあるなり。
(同。強調は私です)
これって、脳を一瞬たりとも遊ばせるなってことだ。
われわれは、あれこれ妄想している時、脳が「働いている」と勘違いしている。
そうではない。
妄想している間、気づき、正念、自覚が失われている。
脳はやるべき仕事をサボって遊んでいるのだ。
いつも妄想遊びで疲れていて、やるべきことができなくなっている。
ブッダは、
気づき、正念、自覚に放逸の人は、死人に等しい
とはっきり言っている。
(【真理のことば】ダンマパダ21 中村 元訳)より引用します。
つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
(同 22)より引用します。
このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
(引用終。強調は私です)
「気づき」が抜け落ちれば、その時の自分は死ぬ。気づきを保持すればその間だけ正に生きている。
「気づき」だけが真実の本物の自分だという発見!
ブッダが「死者のごとくである」と断じたのは正に気づきのない人間の状態のことを云っている。真実の本物の自分がいない抜け殻状態だから当然死人に等しい。
マインドフルネスの成就には、片時でも気づきなしでボーッとするのは死に匹敵する恐ろしいことだという切実な感覚を養うことが必要だ。
このことをはっきりと知って
とは、そういう意味だとおもう。
そして気づきを安定して保持する絶え間ない努力を喜びたのしむ境地に至ればマインドフルネスを成就したといえる。いまだこの境地に程遠い残念なおれだが。
ブッダの遺言「怠るな」は、
サティを怠るな
という意味だ。
「今ここ(瞬間の現在)」に気づき続けよ
という端的な指示だ。
マインドフルネスの持続には特別な活力が絶対必要だ。これなしでは3分続けるのさえ不可能だ。
この特別な活力が生まれつき備わってる人は稀だが、そうでない大多数の人々も苦聖諦を学ぶと得ることができる。
だから、瞑想者は、最初、漠然と瞑想するより、自身に起こっている四苦八苦という具体的な事実に、完全に厭気がさすまで、はっきり気づくことを最優先すべきだ。
「不放逸」についてスマナサーラ長老の明解な説法があります。…ブッダ独自の用語「不放逸」は、日々の仕事を一生懸命やる事ではない。不断のサティのことだと。(→下のリンクをクリック。15分ほどの説法が聴けます)
https://docs.google.com/file/d/0B59ftD8hZk1UdTdWNkx4UnQtYnc/edit
マーヤーデーヴィー精舎関西定例瞑想会「Q不放逸ということば」
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。