《仏教哲学》「無我」なのに、自分を守る理由――スマナサーラ長老との対話、仏教の教え|ブッダの智慧で答えます(一問一答) - YouTube
仏教史の中で誤解されたことは一度も無いのです。
(スマナサーラ長老)
この質問者は、言葉の字面にひっかかってるだけだ。
ブッダは(おかしいことに、多くの人が知らないが)
我具足の不可欠
を明言してる。
※我具足
健全な我を具足すること。仏道修行に必須の七具足のひとつ
我具足とは、
現代語で言えば「自己確立」のことだ。
ブッダは
悟りを目指す準備段階として
自己の確立
が必要不可欠だと明言してる。
「自己の確立」は、本来無い自己を立てるのだから、矛盾ではないかとか、最終的に消える(ないし最初から無い)「自己」をわざわざ起こすのは迷うための苦労でないのかとか言う人がいる。
そういう人は、言葉の字面に迷ってるに過ぎない。
戦後生まれの日本人が子供のころから教えられてきた西洋的文脈でいう自己確立の内実は
「自分は、今までぼんやり生きてきたが、これからは人間として自覚的にしっかり生きていこう」
と決意することだ。これは、仏教が昔から説いてきた「菩提心を起こすこと(発菩提心)」と同様の心理状態だから、言葉にとらわれない限り、矛盾は何もない。
自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものだ。
自己確立もできない者に、自己をならふも自己をわすれるもない。
そういう人は、言葉の字面に迷ってるに過ぎない。
戦後生まれの日本人が子供のころから教えられてきた西洋的文脈でいう自己確立の内実は
「自分は、今までぼんやり生きてきたが、これからは人間として自覚的にしっかり生きていこう」
と決意することだ。これは、仏教が昔から説いてきた「菩提心を起こすこと(発菩提心)」と同様の心理状態だから、言葉にとらわれない限り、矛盾は何もない。
自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものだ。
自己確立もできない者に、自己をならふも自己をわすれるもない。
日常人は、周りの空気を読むことしか知らず、悪い意味で自分がないので、まず自己を確立する必要がある。
無我の話はその後にするべきものだ。
ターン・プッタタート講義、あるいは法話「誰のために生きるのか」より引用させていただきます。強調はわたし。以下同様。
自分の善に厭きたら、「本当には自分ではない」という話を教えます。だから無我の話、自分がない話は後になります。私たちは自分がある教義を十分信じた後、それから、仏教の自分がない話を学びます。
[引用終]
自分の善に厭きたら←ここまでたどり着く人、道徳に厭きるほどの人がまず少ない。
それどころか現実はさらに悪化して、最高学府の教育を受けても、道徳の意味さへ知ろうとしない獣レベルの輩が激増してる。
しかし今は、獣レベルの人間達を嘆く時ではないだろう。
ターン・プッタタートの真に重要な話は、まだこの先にあるからだ。
今は先に進もう。
[引用続き]
…私たちがまとめてヒンドゥーと呼ぶ、バラモンやヴェーダの人たちは止めるのを認めず、自分という言葉を変えようとしないので、彼らにはまだ自分があり、善くなっていく自分があります。自然に感じる自分ではありません。
彼らも同じように、自然に「俺、俺のもの」と感じるものは本物ではなく、無明であり、煩悩なので捨てなければならず、その種の自分を捨てた時、本当の自分、永遠の自分に出合う、と教えます。だから彼らには永遠の自分があります。そして永遠の自分になって終わります。
[引用終]彼らも同じように、自然に「俺、俺のもの」と感じるものは本物ではなく、無明であり、煩悩なので捨てなければならず、その種の自分を捨てた時、本当の自分、永遠の自分に出合う、と教えます。だから彼らには永遠の自分があります。そして永遠の自分になって終わります。
本当の自分・永遠の自分では、まだ無明から全然自由になってない。真我・大我も我に違いないからだめだ。たんなる表現の、言葉の問題じゃない。
神我・真我・大我に落ちて、グループ呆けしてしまうのは、しっかりした自己の確立をしないで、半端な気持ちで、無我の話を受け入れるからだ。
[引用続き]
「自分、自分のもの」という感覚は誤った知識です。そして強く執着するので、知識があってもないのと同じで、間違って知っていれば、心を重くする問題を生じさせます。
[引用終]
知識があってもないのと同じ←真我・大我だろうと我があればこうなる危険がある。
[引用続き]
私は、人は六処(目・耳・鼻・舌・体・心)に触れるものがある時、時々煩悩があり、時々信じることがあり、時々苦があり、時々無明があると信じます。みなさんがどちらを信じるか、自分で考えてください。私は、四六時中煩悩があったら、全員狂って死ぬと見ています。全員狂って死滅し、ここに来て座っていません。試しに絶えず煩悩があってみてください。少なくても神経症になって訳が分からなくなり、あるいは狂って死にます。
だから私たちには、心に煩悩がない時間がたくさん、十分たくさんあります。心に煩悩がない時間を維持して、そして何をするにも、「私は何をするにも煩悩でしない」と言えるまで増やしてください。勤勉に勉強するにも、煩悩で勤勉にしないで、知性で勤勉にしてください。知性ですれば大丈夫です。煩悩でなければ苦はありません。煩悩の力でしないで、知性の力でしてください。
[引用終]だから私たちには、心に煩悩がない時間がたくさん、十分たくさんあります。心に煩悩がない時間を維持して、そして何をするにも、「私は何をするにも煩悩でしない」と言えるまで増やしてください。勤勉に勉強するにも、煩悩で勤勉にしないで、知性で勤勉にしてください。知性ですれば大丈夫です。煩悩でなければ苦はありません。煩悩の力でしないで、知性の力でしてください。
(補足)
ちょっと整理しておきたい。
『平均人→野心家(悪人→正義の人)→聖者』が人間の成長パターンだ、というのがおれの持論です。
野心家の心理として現れるのが「自己の確立」で、野心家の最終形である「正義の人」の心理として現れるのが「発菩提心」です。
したがって、「自己の確立」は「発菩提心」を含む、より広い概念です。
ちょっと整理しておきたい。
『平均人→野心家(悪人→正義の人)→聖者』が人間の成長パターンだ、というのがおれの持論です。
野心家の心理として現れるのが「自己の確立」で、野心家の最終形である「正義の人」の心理として現れるのが「発菩提心」です。
したがって、「自己の確立」は「発菩提心」を含む、より広い概念です。
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