弱い意欲しか持たない大多数の人々は、周りの空気を読んで大勢に追従する怠惰な生き方しかしようとしない。だから世界の命運を決めるのは彼らではない。
世界の舵取りをしたがるのは、強い意欲を持つ野心家だ。野心家は二種類で、悪人と「正義の人」がいる。
野心家について、ショ-ペンハウアーはこう云っている。
ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」(西尾幹二訳・中央公論社)第五十七節から引用。以下 57 と表記する(引用は青文字。それ以外は私の意見です)
どはずれた歓喜を覚える人物はまた激しすぎる苦痛をも味わわないわけにはいくまい。というのもこの双方は一つのことの表と裏であって、ともに精神の大きな活気を条件としているからである。
さまざまにやって来る苦痛のなかでも、なにものにもかえ難いこの肉体と意識(「私」)が滅び去らねばならないことこそ、自分にとって最大の苦痛である。
エゴの個別性という二重の錯覚を、積極的に肯定した悪人の生きんとする意志は、どうやっても避け得ない死によって自然から絶望的に裏切られる。
そうなる原因を、彼は自分の外界に探しだそうとするが無駄に終わる。
真の、また唯一の原因は、彼が錯覚によって初めから内部に抱かえていた自家撞着にある。
外部に、彼がその時々に発見する原因らしく見えるものは、単にそれが現われる機会因にすぎない。
悪人は、個別化の迷妄から自由になるにしたがい「正義の人」となる。
しかし、彼はまだ意欲を自覚的に肯定する点で、悪人とともに野心家と呼ぶべき同じレベルにある。
野心家の頭脳は、意欲とわかちがたく結ばれているものにすぎない。
認識はほとんどつねに意志にまるめこまれている。65
理性は、意欲に誘惑され、説得され、結局ほとんど常に屈服する。
理性は、今や屈服した我が身を取り繕い弁護するためだけに働く。
意欲を肯定した理性は、苦を厭い避けることが自己矛盾となるので、逆に苦を安直に(つまり通俗的なやり方で)神聖化する。
たとえばこうだ。
「苦あってこその楽しみなり」故に「苦は我が楽しみの一部なり」と彼らは厳かに宣言する。
意欲を肯定する者は必ず苦をも肯定するはめに陥るのだ。
今や欲望の召使いとなり果てた理性は、苦が人生を十全に味わうために不可欠の要素と認め受け入れた。
つぎに、それを大人として立派な姿勢だ、男らしい態度だ等々の自己賛美で飾り立てる。
これを下手の考え休むに如かずという。
「楽は我が苦なり」という聖者に対して、
野心家は「苦は我が楽なり」というからだ。
(My Favorite Songs)
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