哲学日記

無常は事実。しかし言葉にだまされる

 

 (蓮如上人 聞書102)より引用させていただきます。
仏法には明日と申すことあるまじく候う。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候うなり。

(引用終。強調は私です)


もちろん仏法だけの話ではない。
人生が成るか成らないかは「無常という事実」をどれだけ事実として痛切に感じられるかに、全てかかってる。

「有」「無」、「是」「非」、「修行」「安心」とかの言葉で、おれは自分をだましてしまう。

この「言葉にだまされるパターン」を何度も何度もくりかえしてきた。

極めててごわい。

無といってもその無があればまだ有だ。

迷いが深くなるだけ。

大事なのは言葉ではなく事実だ。


修行=悟り(修証一如)
だとすれば
言葉の修行=言葉の悟り、
ニセモノの修行=ニセモノの悟り、

になるのは当然だ。

 

以前自宅でふいに強烈な眩暈に襲われ、救急車で運ばれた時、骨の髄まで思い知った。

おれはいつのまにか無常を忘れていて、修行も安心もたんなる言葉だけだったと。
修行してる体裁をつくろって、これで悟ったも同じだと安心しようとする。

そんな悠長な話は、病気のひとつもすれば木っ端みじんに吹っ飛んでしまうのだと。


 

(正法眼蔵随聞記←二祖懐奘による高祖道元の教えの記録)

より引用させていただきます。

道を得ることは根の利鈍には依らず。

人々皆法を悟るべきなり。

ただ精進と懈怠とによりて得道の遅速あり。

進怠の不同は志の到ると到らざるとなり。

志の到らざることは、無常を思はざるに依るなり。
(引用終)


無常が本当にわかったとき、人は悟るってことだ。

悟れないのは「変わらないものはない」って事実を、ちっとも認めてない、実感できない、わかってないってことだ。

 

 

 

 

 

志の到らざることは、無常を思はざるに依るなり。

無常を思えば志が至る(さとりに達する)と道元禅師は教えてる。

 

ここで「無常を思う」とは「苦聖諦を体得する」と同義だ。

真に無常を思うほど志が至るためには、生まれ持った動物本能を制圧する特別例外的な強いエネルギーが必要で、それは苦聖諦を学んだ者のみに与えられるからだ

 

苦聖諦を学べば、

真に

無常を思う

ができるようになる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)  

 スローハンド・エリッククラプトンの「レイラ」は、はずせない名曲。 

Eric Clapton & Phil Collins - Layla [Live 1986]


www.youtube.com

 

(過去記事編集再録)

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