釈尊の獅子吼「筏のたとえ」は、
河を無事渡りおえた人は筏を捨てて身軽に行きなさい
という教えだ。
向こう岸に渡り終えたら棄てるべき筏も、いまだ渡れないでこちら岸にいる者にとっては、この上なく大切にされるべき事情がある。
(親鸞聖人 教行信証・行巻『五会法事讃』引文 石田瑞麿訳より引用します)
(釈尊は)父の王にお話になって、「王。今坐禅を行って、ただ念仏をするのが当然です。どうして、心の念いを離れることと同じようになろうとして、念いのない境地をお求めになるのですか。仏の相好を観想しないで、真実そのものとしての法身をお求めになるのですか。文字を離れて、さとりをお求めになるのですか」と仰せられた。
(引用終)
<原文読み下し文>
父の王にいいてのたまはく、「王いま座禅してただまさに念仏すべし」と。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや。
金子大栄先生の解説。
(口語訳教行信証付領解 金子大栄著より引用します)
念を離れて無念は求められず、生を離れて無生は求められず、相好を離れて法身は知られず、教説を離れて解脱は得られない道理が示されてある
(引用終)
河を渡る前に筏を捨てると、当然だが、その人はいつまでたっても河を渡れない。
そんなマヌケがこの世にいるのか…けっこういっぱいいるんだな、これが。
学者タイプに多いね。
本人に河を渡る覚悟がなければ、釈尊から与えられた筏は邪魔になり、渡らずに捨てても面目が立つ理由を、なんかかんか探すようになる。
釈尊が厭えと説いている五蘊と貪瞋痴が大好きで夢中になっている自分をなんとか肯定するため、懸命に屁理屈こねて「世法即仏法」とか「このままでいい」とか『証明』する人。
こういう人達は、釈尊の教えがなぜ出世間法なのか、なぜ無我なのか、なぜ無常なのかが全部根本的に分からないので、人類の至宝である釈尊の筏が、かえって精神的負担でしかない。
大我・如来蔵・仏性・本覚思想・世間法即如来法…これ皆、苦労して彼岸に渡る意味が全然分からない人達が、五蘊と貪瞋痴の此岸に気分よく居続けるために作った、筏を捨てるための戯論だとおもう。
気分よく居続けることなんてできないんですよ、病気になるし死にますから。
でもそれも、魂は死なないなんてアホな妄想で自分を騙す。
他の場合なら、絶対のらないような低レベルのアホ話。
老病死に追い詰められ切羽詰まると
背に腹は代えられないと「利口に」計算して
魂(真の自分)は死なないなんてアホな妄想に
みんなでのれば怖くない
ということで。
人はがんらい、河を渡る(=修行する)気迫に欠けているから、この弊に気づいてもなかなか改めることができない。
(My Favorite Songs)
「ごはんができたよ」
個性とか独創とかはこういうことをいうのだろう。
音楽じゃないけど、連想したものはある。これ。
太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。