『和英対照仏教聖典』(185頁14行~187頁15行)
より引用させていただきます。
人間世界において悪事をなし、死んで地獄に堕ちた罪人に、閻魔王(えんまおう)が尋ねた。
「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」
「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」
「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」
「大王よ、そういう老人ならば、いくらでも見ました。」
「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報いを受けるようになった。」
「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」
「大王よ、そういう病人ならいくらでも見ました。」
「おまえは病人というその天使に会いながら、自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにもおろそかであったから、この地獄へくることになったのだ。」
「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」
「大王よ、死人ならば、わたくしはいくらでも見てまいりました。」
「おまえは死を警(いまし)め告げる天使に会いながら、死を思わず善をなすことを怠って、この報いを受けることになった。おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならない。」(パーリ、増支部 3―35)
(引用終)
誰もが忌み嫌い恐れる老いと病と死が、実は三人の天使であったという気づき。
この目の覚めるような気づきこそ、仏教の始まりであり神髄だ。
また苦聖諦の聖は、この認識の仕方の劇的転換に名づけた言葉だ。
「俺、俺のもの」と死は、けっして共存できない。
ほとんどの人は「俺、俺のもの」がなにより大事なので、不滅の魂などでっち上げ、無理くりに死を無いことにしている。彼らは、そうするしかないと頑なに思いこんでいるのだ。
しかしここで、死こそ確実だというあたりまえの事実を真っすぐ認める勇敢な者がいれば、彼は必然的に「俺、俺のもの」こそが怪しいと気づく。
そう気づかせてくれた死等の苦は、実は聖(擬人化すれば天使)だという鮮やかなパラダイムシフトが起きる。
(My Favorite Songs)
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