〔メモと感想〕
いつ死ぬかもしれん人間には、飲み食いを楽しむ以上の幸福はない。
などと言う奴は愚者だと、大多数の人々が知ってる。
理由は、
最大の苦しみの中で得る微々たる楽しみを評価しがたいです。(スマナサーラ長老)
しかし、
大多数の人々は、この評価しがたい生き方をしてる。
この経典は
emotional detachment-distancing
を推薦しています。(スマナサーラ長老)
世間の人々は、コロナ禍での
social distancing
(相手と物理的に離れていること)
さえ暗く感じ、嫌でしょーがないのだ。
emotional distancing
(感情にとらわれず離れていること)
など究極に暗いと感じ、想像さえしたくないだろう。
ブッダの明晰判明で真に革命的な教え。
(Suttanipâta 50 根本仏教講義23刺激論6「囚われずに歩む」より引用させていただきます)
外に見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、考えるものは、
美しく、おいしく、喜ばしいものである。
これらはあらゆる形をとって(様々に変化し)心を混乱させる。
欲望の対象(色声香味触法)には恐ろしい災いがあることを見て、あらゆるものから離れるべきである。
(以上)
だれもかも
色声香味触法は、美しく、おいしく、喜ばしい
とのみ思うだけで
色声香味触法には、恐ろしい災いがある
という端的な事実に気づく人が、古今東西怖いほど極度に少ない。
(スマナサーラ長老のSuttanipâta 50解説は「犀の角」を読む③1:38:35 を視聴してください)
孤独行の結論(人間関係の本質を説く)
Bhajanti sevanti ca kāraṇatthā, nikkāraṇā dullabhā ajja mittā;
Attaṭṭhapaññā asucī manussā, eko care khaggavisāṇakappo.(75)
今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
(以上)
「犀の角の経」《Suttanipata-Khaggavisaana》は
我々、パーリ語で仏教を学ぶ人々は最後の最後に学んでみようかな~と挑戦する一番、難しいものです。怖くて触りたくもない経典です。
私たちの頭で理解できる範囲の経典ではありません。
というスマナサーラ長老の警告を肝に銘じたい。
ちょっとした訳の思い違いより、こっちの思い違いのほうがはるかに深刻だ。
最高の目的とはなにを指すか、あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなくとは実際のところ、なにを指示しているか。
最初読んだ時、なんとなく気に入り「これは怖い」などと感じなかった。
意味内容を誤って把握していたのだ。
本を読んだくらいで命までとられまいと思うのは大間違いだ。
ブッダは蛇喩経で警告している。
蛇の尻尾を掴んだら噛まれて死ぬか、死ぬほどの苦痛に長く苛まれることになる。蛇を正しく掴まなかったからだ、
と。
(蛇喩経 片山一良訳)より
誤って把握されたそれらの法は、かれらに、長く不利となり、苦となります。それはなぜか。比丘たちよ、もろもろの法が誤って把握されているからです。 …
…
よく把握されたそれらの法は、かれらに、長く利益となり、楽となります。それはなぜか。比丘たちよ、もろもろの法がよく把握されているからです。
(引用終)
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。