佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その22」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ) - YouTube
〔感想〕
原始仏教経典に
ある夫婦が可愛い一人息子と共に
荒野の道を行く
という話があります。
これは人生のたとえでもある。
途中で手持ちの食料が尽き「三人とも死んではならない」と考えて、一人息子を殺して食べ、荒野の残りを越え渡ることができたと。
この世の食べ物は、まさしくこの一人息子のように見るべきだと。
食べ物は戯れ、嗜好、愛着、容色などのために食べるべきではなく、ただ荒野を越え渡るために食べるべきものだと。
気ままな無駄食いを日常としてるおれにとっては、想像を絶する異様過激な教えです。
しかも、これはまだ、説法の出だしにすぎないのです。
佐々木閑先生の解説を注意深くお聴きください。
四種の食が順次に説かれ、最終的に『識別作用から生じる食』をどう見るべきかに話が及びます。
実践的には、おれは、話のしょっぱなでつまずいており、先に進めないのですが、それでもよくよく聴けば、仏道修行者にとって、真実その通りだとおもう他ない明晰深遠な説法だとおもいます。
心にしみる原始仏典 子の肉(『サンユッタ・ニカーヤ』SN12.63)
より最初の部分を引用させていただきます。
5.比丘たちよ、たとえば、夫婦二人が、わずかの食糧をたずさえて、曠野の道を出かけるとしよう。かれらには、可愛い子供が一人いる。
6.さて、比丘たちよ、曠野を行くかれら夫婦二人には、わずかの食糧しかなかったので、それらがすっかり尽きてなくなったまま、行かねばならないだろう。かれらには、曠野の残りを越えていくことはできないだろう。
7.さて、比丘たちよ、かれら夫婦二人には、このような(思い)があるだろう。 「わたしたちにあるわずかな食糧は、すっかり尽きてなくなってしまった。この曠野の残りを越えていくことはできない。わたしたちは、この可愛い一人息子殺して、乾し肉と胡椒をまぶした肉である子の肉を作って、それを食べるほかには、曠野の残りを渡ることはできないだろう。三人ともみな死んではならない。」
8.さて、かれら夫婦二人は、この可愛い一人息子を殺して、乾し肉と胡椒をまぶした肉である子の肉を作って、これを食べて、曠野の残りを越え渡るだろう。かれらは、子の肉をすっかり食べて、そして、胸を打ってたたいて(嘆く)だろう。「一人息子はどこだ、一人息子はどこだ」と。
9.比丘たちよ、このことをどう思うだろうか。かれらはたんに戯れのために食べ物を食べるのであろうか。それとも、嗜好のために食べ物を食べるのであろうか、それとも、愛着のために食べ物を食べるのであろうか、それとも、容色のために食べ物を食べるのだろうか。
そうではありません。尊師よ。
10.比丘たちよ、かれらは、ただひたすら曠野を越え渡るために、食べ物を食べるのであろう。
そうであります。尊師よ。
11.比丘たちよ、わたしは、まさしく、このように丸めた食べ物は見るべきである、というのである。
比丘たちよ、丸めた食べ物が、あまねく知られるとき、五種の欲※を特徴とする貪欲があまねく知られるのである。五種の欲を特徴とする貪欲があまねく知られるとき、結縛に結びつけられて聖なる弟子がこの世に再びもどってくるような、そのような結縛は、もはやない。
※ 五種の欲とは、色・声・香・味・触に対する欲のことである。
(以上、引用終)
この後【接触という食べ物】【意思という食べ物】【識別作用という食べ物】のたとえが説かれます。
A・スマナサーラ長老 人の認識はあべこべです ~目指すべきは意識革命~より引用させていただきます。
悟りという認識革命を起こしていない限り、我々の認識はあべこべです。仏教用語で顛倒(vipallâsa)といいます。
すべてのものは無常です。しかし我々は、すべてが変化しないもの(常)だと勘違いして、ものに執着したり、あらゆる計画を立てたり、期待、願望、切望したりします。期待がはずれたら悩み苦しみが生まれるのに、一向にめげない。それで苦しみが続くのです。体は不浄なものなのに、とてもきれいなものだと思って、限りなく苦労する。自分というものには実体がなく、あらゆる部品で一時的に組み立てられたものなのに、それも常に変わっていくのに、「自分という実体がある」と思い込んでいる。皆、死んでしまうのに、絶対認めない。死なないという前提で生きることは、やりきれないほど苦しいことなのに、ありのままの事実を認めない。
このように認識があべこべだから、価値観もあべこべです。
(引用終)
佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その23」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ) - YouTube
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