哲学日記

「自分の呼吸に気づく」こんな簡単なはずのことがなぜできないのか

 
 呼吸瞑想は難しくない。
ただ自分のしている呼吸に気づけばいいだけ。
長く息を吸ったら『長く息を吸った』と知り、長く息を吐いたら『長く息を吐いた』と知る。短く吸ったら『短く吸った』と知り、短く吐いたら『短く吐いた』と知る。これだけだ。
 
 ところが人間は、この簡単な法が、簡単すぎてできない。何度やってもたちまち挫折する。
難しいと「難しすぎてできない」と言うくせに、簡単だと「簡単すぎてつまらん。アホらしくてできない」と言い訳する。
 
なにも極楽浄土だけが易往而無人(行き易くして人無し)ではない。
こんなちょっとした瞑想でさえ、すでにそうなのだ。


(恵心僧都 一乗要決より引用)
仏法にえりといえど仏意ぶっちりょうせず。ついに手を空しくせば、後悔何ぞおよばん。
(引用終)







 仏法を聞きたいとおもえば聞ける時代に生まれたことが、すでにとてつもない幸運なのだ。



宝の山に入って、なにも取れずに帰ってくるようなバカはするな。



さて「自分の呼吸に気づく」という、こんな簡単なはずのことができない原因は何か。
 
 
 ろくにできないのは、サティを本当に成功させる必須の前提、苦聖諦の理解が抜け落ちているからだ。
「今ここ」に気づき続ける実践・サティの持続に絶対必要な特別な活力は、苦聖諦を学ぶことでしか得ることができない。
 
釈尊は人類最高の瞑想の達人だが、弟子に対しては、まず一切皆苦の真実に気づかせることを第一としていた。

自らの体験から得たその指導法は、45年間説法を続けて、生涯変わっていない。
修行者は、最初、漠然と瞑想するより、四苦八苦という具体的な事実にはっきり気づくことが、最も必要だという明確なメッセージだ。
 
 
 有名な「毒矢の喩え」の哲学青年マールキヤプッタは、自分にささった矢を抜くなと主張している者ではない。

マールキヤプッタは、そもそも自分に矢が突きささっているとは思っていなかったのだ。苦聖諦の気づきがなかった人だったのだ。
「毒矢の喩え」は、絶妙の対機説法に導かれて、ついにマールキヤプッタが自分にささっている矢に気づく、苦聖諦に気づく話なのだ。
「人は死んでも、自分は死なない」という昏深の迷妄から目覚めることができた者の話なのだ。
 
日常人は死んでもなんとなくまだあとがある気分でいるから、それでサティを実践しても三日坊主にもなれずに終わる。


 
じっさい、あなたの心が苦を知らなければ、幾ら言葉や文字で真剣に学んでも、数分間のサティすらまともに維持できないだろう。
 
 
 
 
 大乗仏教は当初から苦聖諦カットの仏教を志向していたとおもう。途中少々の揺り戻しは起きたが、今でも苦聖諦は脇に退けられ積極的に説かれることはない。
 
理由は単純で、ウケないからだ。
 
稀な例外を除いて在家信者は、一切皆苦を理解したがらない。
ごまかしなく説けば、怒って聞かないだろう。

在家信者は常に「不滅の我」の狂信者であり、
苦聖諦は無常の実感だが、「不滅の我」は無常の否定だからだ。
(すべての存在は変化するが、「我」は存在しない妄想だから変化しない。
だから「我」が変化しないことは、「我」が存在しない妄想に過ぎない、一番ハッキリした証拠だ
 

彼らは
たんに言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人だ。
 
一切皆苦(苦聖諦)に対する世間の本能的嫌悪感と恐れと無理解が、この問題の根底にある。
 
そのため、大乗仏教は、やがて苦等の四諦の法を、きれいさっぱり忘れてしまうだろう。それは、一般信徒主導の集団である限り、避けられない結果だ。
 
苦聖諦を否定し人間釈尊を絶対神にまつりあげ、稀有の仏法を、キリスト教の出来損ないのような、愚劣きわまる凡庸な信仰に変えようとする。
 
苦聖諦の体得がなければサティは不可能となり、サティの実践なき大乗仏教は壮麗なる文学と化す。
 
 
 大多数の人々は「我がある。だから死はありえない」と、初めから破綻した考えに凝り固まっている。死の否定できないことは自明だからだ。
 
我そのものを疑うという逆転の発想ができないために追い詰められた結果、背に腹はかえられぬ切実が事実も道理も押しのけてどんな無法でも通してしまう。
すなわち(自分だけは死んでも生きている)と妄信する。
不滅の魂や大我や唯一神やらはそのための道具に過ぎない。
 
「俺、俺のもの」と死は、けっして共存できない。
ほとんどの人は「俺、俺のもの」がなにより大事なので、不滅の魂などでっち上げ、無理くりに死を無いことにしている。彼らは、そうするしかないと頑なに思いこんでいるのだ。
 
この自分で建てた妄信の壁に阻まれて、釈尊の教えは処世訓のレベル以上わからず、サティの意味もかたきしわからないのでやる気も皆無。
 
もっともこれはこれで無理のない話だ。「邪に育った心は、自分で自分に仇敵のように振舞う」という釈尊の言葉どおり。
 
 しかしここで、死こそ確実だというあたりまえの事実を真っすぐ認める勇敢な者がいれば、彼は必然的に「俺、俺のもの」こそが怪しいと気づく。
 
そう気づかせてくれた死等の苦は、実は聖だという鮮やかなパラダイムシフトが起きる。
 
苦聖諦は、苦しみ「が」救ってくれるから苦諦と呼ばれている。
人生楽ありゃ苦もあるさでは、そこそこいい人生だとおもってるわけで、そんな人には仏教の入口扉さえ開かないから、サティの価値もまるっきりわからない。
 
 
 無我は、死ぬその人がいないから、死もない。
無我が仏教の核心だ。
 
ただし、
自分を捨てる道は最善だが、半端にやるとたちまち最悪になるので要注意。
責任を回避しながら私欲を満たす、さもしい手段として滅私奉公等の無我風言辞を用いる。
中途半端に自分を捨てる人間は、ガリガリの利己主義者より、はるかに社会に害をなす。
 
 
 
 
 色・受・想・行・識を厭う気持ちに、真実なれるかなれないかが、釈尊の教えに近づくか遠ざかるかの分水嶺だと思う。
 
自然状態の人間は、生まれてから、さあいよいよ死ぬというその瞬間まで、色・受・想・行・識に執着するのが性だから、これは、確かに容易なことではない。

人間のこの愚行を根本的に解決するブッダの獅子吼ししくが残されている


受・想・行・識は無常なり。
無常なるは即ち苦なり。…

是の如く観ずれば色を厭ひ受・想・行・識を厭ふ

厭うが故にねがはず、
楽はざるが故に解脱することを得。
(雑阿含経1より)



色受想行識を厭わなければサティは実践できない。

 
色受想行識を厭うには、動物本能を制圧する特別例外的な強いエネルギーが必要で、それは苦聖諦を学んだ者のみに与えられる。
 
 
 「苦聖諦」は月を指す指。指だけ詳細に研究するが、ほんとうは月である苦聖諦を一度も見ようとしない人が多い。
 
苦聖諦の土台の上で行われる「今ここ」に気づく努力をサティと呼んでいる。
 
サティを実践してもたちまち挫折するのは、苦聖諦の理解が言葉だけで内容が無いからだ。
 
ブッダとは生まれた時代も国も人種も異にして、仏説も苦聖諦も聞いたことがなくても、人生において苦聖諦の内容を体得した人は少なくない。
 
当たり前のことだが、言葉でなく内容を学ぶ必要がある。
 


さきほど、
苦聖諦とは
無常の実感だが、「不滅の我」の信奉者はたんに言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人だ。
と書いた。


言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人
とは、どういう人のことか。
 
 
「一切は無常」と教えると
「異議なし。事実です。知ってますよ」
と答える人は少なくない。
 
 
 
同じ人たちに「人生は無意味。一切は無価値」と教えると
「とんでもない。それは最悪のニヒリズムだ。誰が認めるというのか」
と答える。
 
 
 
こういう人たちを
言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人
という。









 結論は、

 苦聖諦を学んでのみ得ることができる特別例外的な強い活力でサティを実践する。
この一事だ。 






(過去記事再録)
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