哲学日記

「愛vs慈悲」の分析 スマナサーラ長老法話

メモと感想

慈悲の世界に判断・好みはあるはずがない。

自分の判断・好みで動くと、社会の攻撃を受けて壊れる。
他人の判断で動くロボットになると、自分の判断プログラムとぶつかって壊れる。

愛は、破壊物語をまとめるためのツール。
「愛は最後に必ず勝つ」で物語は止まる。そこから先はない。
黙示録は物語の典型。

愛と慈しみは似てない。
愛は憎しみの反対というだけで、もう一つの判断にすぎない。
悪魔を選ぶか神を選ぶかの判断。
悪魔を選ぶとは、自分の判断・好みに従うこと。
神を選ぶとは、慈しみを選んだのじゃなくて、他人の判断を選んだことになる。




自我という気持ちが消えたら、そこにあるのは慈しみなんです。



この世界は自我のホームグラウンド。

自我削除プログラムは書いても作動しない。

自分の失敗を学ぶと何か見えてくる。

敵がくれた情報で戦争に行ったら負けるに決まっている。

「ありのままに見る」「判断しない世界」言葉だけで正しくてもダメ。

みんな悪人の塊、自我の塊、互いに殺し合いやりたくてたまらないこの世界。

ブッダの実践方法
「わたしが幸せでありますように」等で自我をだます。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」で錯覚に過ぎない自我はやがて消え、慈しみが現れる。


生命に自我があるから、すぐ生きるプログラムが恐ろしいものに変わり、苦しみが起こり苦しみで終えるプログラムになる。
だから慈悲を入れることが欠かせない。ほかの答えはない。

 

スマナサーラ長老の法話20180216「慈悲について」 - YouTube

www.youtube.com

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs)
 
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