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検索ワード「ロシア」

2022-10-12 21:19:36 | 検索するだけの人
検索ワード: 魯西亜 露西亜 ロシア ロシヤ 露国 日露 ソビエト ソ連 ソビエット ソビエツト
ヒットした短歌: 80件



※検索だけする人が制作年順に配列。ただし長歌を除外した。太字は主な日露関係の転換期。別途、ろしあ ろしや でも検索し、ヒット25件中、ロシアに該当する9件を追加


1895年 下関条約、三国干渉

ろしや鷲の巢多き山こえていつくに君は行かんとすらん
正岡子規 『竹乃里歌』, 1898, [1904]


1900年 義和団事件

ゐのこ人からのますらをはげましてオロシヤ國人國の外に追へ
正岡子規 『竹乃里歌』, 1900, [1904]

(注)中国に渡る友人に贈った短歌。義和団事件のどさくさにロシアが満州を占領して南下した時期に重なる。初句は清国の庶民を指しているものと思われる。現代では到底許されない蔑視的な表現だが、時としてはごくありふれた見方で、正岡が特別ということではない。「のらくろ」豚の国大戦争編

ろしや風またも寒けしちいさふくり早くつつまね此たふさぎに
伊藤左千夫 『[左千夫全集]』, 1903, [1903]

おろしやを恐のちぢみに冷縮み膽もふぐりもつぶれたるらし。
伊藤左千夫 『[左千夫全集]』, 1903, [1903]

御民われ憂ひに堪ずろしや風に醜がふぐりの冷えむ思へば
伊藤左千夫 『[左千夫全集]』, 1903, [1903]


1904年 日露国交断絶

おほおぞのロシヤ夷は徒に地圖うち見てぞ吾を知りけめ
伊藤左千夫 『[左千夫全集]』, 1904, [1904]

軍艦は吾が物にあらず命こそ吾ものなれとロシヤたけりを
伊藤左千夫 『[左千夫全集]』, 1904, [1904]

ロシヤ人を神はたすけず眞日中にわなの雷ふめらく思へば
伊藤左千夫 『[左千夫全集]』, 1904, [1904]

しこえみしロシヤえみしが軍くえ血まどふ時を繪にうつしこね
伊藤左千夫 『[左千夫全集]』, 1904, [1904]

塁上に誰ぞや此宵を朗々と月に吟ずる「征露国の詩」
前田夕暮 『歌稿 あららぎ』, 1904, [1904]


1905年 旅順攻略戦、血の日曜日、日本海海戦、ポーツマス条約、大逆事件

ボルチクのオロシアの舟の艤ひ人頼めなる船のなみあし
釈迢空 『短歌拾遺』, 1905, [1905]

(注)ボルチクはバルチック艦隊のこと?人頼なる船とは、艦隊を極東に派遣する困難さを言っているのだろうか。なみあしというので、戦闘態勢ではなさそう。或いは鈍足の船だと言っているのか。

若しも我露西亜に入りて反乱に死なむといふも誰か咎めむ
石川啄木 『明治四十一年歌稿ノート暇ナ時』, 1908, [1908]

ボロオヂンといふ露西亜名が、/何故ともなく、/幾度も思ひ出さるる日なり。
石川啄木 『悲しき玩具』, 1909-1911, 1912

(注)ボロオヂンは石川が感化された革命家

五歳になる子に、何故ともなく、/ソニヤといふ露西亜名をつけて、/呼びてはよろこぶ。
石川啄木 『悲しき玩具』, 1909-1911, 1912

五歳になる子に、何故ともなく、/ソニャといふ露西亜名をつけて、/呼びてはよろこぶ。
石川啄木 『層雲 明治四十四年七月号(第一巻第三号)』, 1911, [1911]

叱られてとりちらしたる截ちさしの露西亜更紗のなかに泣く君
前田夕暮 『歌稿』, 1911, [1911]

叱られてとりちらしたる截ちさしの露西亞更紗のなかに泣く君
前田夕暮 『陰影』, 1911, 1912


1912年 明治終焉

露西亞更紗かけし机にうつ伏して物思ふ夜の汝が帶のいろ
前田夕暮 『陰影』, 1912, 1912

露西亜更紗かけし机にうつ伏して物思ふ夜の妻が帯のいろ
前田夕暮 『歌稿』, 1912, [1912]

きさくなる蜜蜂飼養者が赤帯の露西亜の地主に似たる初夏
北原白秋 『大正元年11月1日「朱欒」2巻11号』, 1912, [1912]

きさくなる蜜蜂飼養者が赤帯の露西亜の地主に似たる初夏
北原白秋 『桐の花』, 0000, 1913

きさくなる蜜蜂飼養者が赤帯の露西亜の地主に似たる初夏
北原白秋 『花樫(桐の花より)』, 0000, 1928

金口の露西亜煙草のけむりよりなほゆるやかに燃ゆるわが恋
北原白秋 『桐の花』, 0000, 1913

わが泣けば露西亞少女來て肩なでぬアリヨル號の白き船室
与謝野晶子 『夏より秋へ』, 0000, 1914

(注)アリヨル号は敦賀とウラジオストクを結ぶロシア船


1917年 ロマノフ王朝終焉、社会主義国家の出現
1918年 シベリア派兵、第一次世界大戦終了、パリ講和会議

長崎をふりさけむとするベンチには露西亜文字など人名きざめり
斎藤茂吉 『つゆじも』, 1920, 1946

露西亜よりのがれ来れる童子らもはざまの滝に水あみにけり
斎藤茂吉 『つゆじも』, 1920, 1946

露西亜よりヨツヘエ来たれりとすぱすぱと烟草すひたる伎夫といふ男
前田夕暮 『歌稿 天然更新歌稿』, 1923, [1923]

わが行きもいやはてしなる町寂し露西亞毛布を購ひにけり
島木赤彦 『太虗集』, 1923, 1924


1925年 日ソ基本条約、ロシア人日本流入

夏、夏、夏、露西亜さかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨
北原白秋 『大正15年4月1日「改造」8巻4号』, 1926, [1926]

秋林を出て来て思ふ露西亜の血と朝鮮とまじり少女なりにし
北原白秋 『夢殿』, 1927-1939, 1939

秋林を出で来て思ふ露西亜の血と朝鮮とまじり少女なりにし
北原白秋 『昭和14年7月1日「日本評論」14年7月号』, 1939, [1939]

露西亜びとはみ墓楽しと花植ゑて日曜は来る椅子しつらへぬ
北原白秋 『夢殿』, 1927-1939, 1939

露西亜びとは都大路の見とほしに先づ墓地を定め寺うち建てぬ
北原白秋 『夢殿』, 1927-1939, 1939

露西亜びとは都大路の見とほしに先づ墓地を定め寺院を建てぬ
北原白秋 『昭和14年7月1日「日本評論」14年7月号』, 1939, [1939]

埠頭街二たびよぎりソビエット小学校のまへにたたずむ
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

露国兵迂回し来り忽ちにここに炎はあがりけらしも
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

二箇師団の露国の兵の薄りたるあとにも雪は降りつもりけり
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

露西亜語を日ねもす聞きぬ処女等の往反ふちまたわれも往きつつ
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

夜ふけてより露西亜をとめの舞踊をば暗黒背景のうちに目守りき
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

をとめ等の顔佳きに会ふ今日の日よ白系露西亜人ここにつどへる
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

北平のはじめの旅に露西亜人と吾は起臥すひとつ車房に
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

フィリポワの露西亜食店に午食せる二時間のちに去りゆくわれは
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

点在する家見え乾草をかこへるが見え露西亜人ゆく
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

まづ此処に旅の心をしづめしむ露西亜中央寺院支那極楽寺
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

傅家甸の街よりさほど遠からず日本人墓地露西亜人墓地
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

わがそばに眠らむとするをみなごよ露西亜語少し語り聞かしむ
斎藤茂吉 『連山』, 1930, 1950

哈爾濱の露西亞の墓場の石だたみ楡の花おく金錆のごと
与謝野晶子 『満蒙遊草』, 0000, 1930

泥湯をば浴びて菖蒲の花となるあかし無ければ過ぎぬろしや風呂
与謝野晶子 『満蒙遊草』, 0000, 1930

わが友が露西亞の墓場に讀み步りく名も悲しけれ極東なれば
与謝野晶子 『満蒙遊草』, 0000, 1930

二道溝頭道溝も乾きたり寂しき露西亞の驛につづきて
与謝野晶子 『満蒙遊草』, 0000, 1930

ろしや少女スンガリイなる靑をもて目をばくまどりよく踊るかな
与謝野晶子 『満蒙遊草』, 0000, 1930

鴨緑江照りひろびろしあきらかに流氷を追うて材を流すなり
北原白秋 『昭和6年1月1日「大阪朝日新聞」』, 1931, [1931]

鴨緑江照りひろびろしあきらかに流氷を追うて材を流すなり
北原白秋 『夢殿』, 1927-1939, 1939

魯西亜人のひとつの家族はこの夏も胡瓜の缶詰つくりて業とす
斎藤茂吉 『石泉』, 1932, 1951

魯西亜人が移住し来てすぐ建てたらしき黄いろの家もいまは古りたり
斎藤茂吉 『石泉』, 1932, 1951

汽車中の話樺太神社旧市街農場ロシア人墓地山火事
斎藤茂吉 『石泉』, 1932, 1951
 
ロシアびとひとかたまりに住みつきて街のかげなる家等はひくし
斎藤茂吉 『石泉』, 1932, 1951

麪包を売るロシア人等も漸くに小さき駅へ移りゆくとぞ
斎藤茂吉 『石泉』, 1932, 1951

露西亜人の造りし家も残り居り日本人は其を参考だにせず
斎藤茂吉 『石泉』, 1932, 1951

白樺の太樹ならびて立つ見れば露西亜人等が植ゑたるならし
斎藤茂吉 『石泉』, 1932, 1951

ロシアにては皇帝の墓を発掘し勲章等を没収しつつあり
斎藤茂吉 『白桃』, 1933, 1942

露西亞少女高加索よりひがしなる國の避暑地の山に商ふ
与謝野晶子 『綠階春雨』, 0000, 1933-1934

悲しくも王師と見ゆ五稜郭おろしやの船にそなへたれども
与謝野晶子 『北海遊草』, 0000, 1933-1934

ソビエツトロシアの国の境にて飛行機ひとつ堕ちゐたるのみ
斎藤茂吉 『曉紅』, 1936, 1940

風呂桶なども据ゑつけありて露西亜びと山ふところに伝道をせり
斎藤茂吉 『曉紅』, 1936, 1940


1939年 ノモハン事件

露西亜びとは墓地を楽しと花植ゑて日曜は来る椅子しつらへぬ
北原白秋 『昭和14年7月1日「日本評論」14年7月号』, 1939, [1939]

日露役すぎて幾年か[※結果の一部のみ表示] : 土屋文明 『少安集』, 1940, 1943

在学の三年間のすゑにして日露の役を内容とせり
斎藤茂吉 『のぼり路』, 1940, 1943


1941年 日ソ中立条約、太平洋戦争開戦

1945年 ソ連対日戦布告、ポツダム宣言

ソビエット露西亜のくにの行動はわが国民よ永久に忘れじ
斎藤茂吉 『短歌拾遺』, 1945, [1945]

ソビエット無理無理われに戦を宣したりその予感ありしや否や
斎藤茂吉 『短歌拾遺』, 1945, [1945]


1946年 ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定

露西亜向日葵あかあかと咲く下通り兎小舎の前通り貰ひ湯には行く
前田夕暮 『耕土』, 0000, 1946

夏、夏、夏、露西亜ざかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨
北原白秋 『海阪』, 0000, 1949

朱に金で落花生の花を描いてあるこれは露西亜塗だ百姓の鉢
北原白秋 『海阪』, 0000, 1949

 
1956年 ソ連側の集団帰国事業終了

村境この橋に送りし[※結果の一部のみ表示] : 土屋文明 『青南集』, 1960, 1967

敗戰の敵意を我に宣しては捕虜を殺せるソ連とは何ぞ
窪田空穂 『木草と共に』, 1963, 1964

子が遺骨その國の土と化しゆくをソ連にいだく怒りは解けず
窪田空穂 『木草と共に』, 1963, 1964


ソ連に抑留された日本人の総数を57万5000人、うち5万5000人程度が死亡(厚生労働省)

除外

雲低くうごくを見つつけふひと日露伴先生とただ吾とのみ : 斎藤茂吉 『寒雲』, 1939, 1940




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