粳(うるち)と糯(もち)の二種がある、いや三種? これまでの文の流れに導かれる結果、このように疑問が湧いてきて自然ですよね?いやいや、押し麦の味の不味さでつまづいた、のみならず更に母まで辛い目に遭わせた私だから想像するのかも知れない。 糯(もち)に付いては言うに及ばず、いやいやココは言うに及ぼう!かつて糯麦という言葉は聞いたことがない。だが今後は分らない。押し麦にしなければ・・裸麦のままなら美味しいのでないか?そんなことを思っている私が在るからです。
どうしてそんなことが云えるのか?じつは縁あって手に入った裸麦の種籾を食べたのですが、この裸麦がナントなんと甘味だけでなくて粘り気まで感じるのです。これは私の願望から生れただけの単なる気のせいなのか⋯? それで粳の文字を観察すると硬い気がするのだが、裸麦を炊いて噛むとコチラはどうだ、現実に硬さを覚える。硬さがあってもソレを上回る美味い味があるから私は気にならない。しかも、裸麦に押し麦の不味さは少しもない。この程度ならバイオ技術で解決する課題と想えないか?
バイオの助けを借りるとなると営業農業の独壇場であり、家庭菜園の素人は手出しできなくなる筈だが、そんなこと気にならない私の都合を申せば、山奥の水が少ない地形であっても栽培可能な裸麦なんだと知っているからです。人類に実益をもたらす糯麦栽培に大きな魅力を感じるし、私の趣味で育てる鉢植え栽培の麦籾が生みだす微利益などは論外だ。うるちは初め秈と書き、秈の俗字として粳が使われだした。秈は稲の一種で、米の粘り気の少ないものと古書にある。麦の正体は実に米だったんだ!
過去、粳米は秈麦のことだった。だから私たちが平日に食べている米は秈(粳)でないことになる。こんなにややこしいことになったのはどうしてなのか?その訳は已むを得ない事情があっただろうことは学者でない私にも分かる。今は令和です。それだけの簡単な理由があったのは間違いありません。映画「荒野のセブン」を私は観たから分かるが、価値ある米は奪われる時代!「これは美味いよ」等と言いふらすお人よしの日本の国だったら疾うに消えてなくなっていた。私にはそう想えるのです。
当時の日本の為政者に知恵・先見の明があったから美味しい麦は奪われずに済んだ。いやいや、まったくの作り話、無責任なホラ話と思っていただいたほうがあなたは恥を掻かなくて済むでしょう。私の夢のなかの物語に過ぎません。ともあれ、気分直しにでも使えるようなら、この後も気軽にお読みになってくださいね。粳稲と書いて「こうとう」と読んだようですから、「うるち」の読みは無かったかも。東南アジアの米の形は日本のと異なりますし、あれは水稲で「秈」と書くのは無理ですよね。
糯米で「餅」を作りますし、餅は正月用のメデタイ「晴れの日」のご馳走ですから話の前後の辻褄はどうやら合うように思われて、「どやぁ」と胸を張りたい誘惑にかられますが、アナタが乗せられてはお気の毒ですのでココは遠慮しておきます。うる➜粳➜イネ、アワ、キビなどの中で、炊いたとき粘りけの少ない種類・・これは新明解国語辞典からの引用ですが、その時々の人々に支持された流行語も載せますから、どちらが良いというのでなくても比較しなければ見えないモノはあるようです。
裸麦の発芽に今トライしておるところですが、水に浸けたものを蒔くべきか、そのまま蒔くべきか、そんなことも素人であれば知らずで、上手く発芽しただけで儲けものと思っております。自然の山のなかで発見した(?)秈(うるち)の稲であれば可能なかぎり自然の状態に近づけておきたいなと、その程度の知識の持ち合せしかない筆者・宇留之祢で、此の記事が、初心者かベテランか、とにかくどなたかの成功譚が世に出る切っ掛けに成れたら愉快だな・・そんな想いで私の記事は始まっております。
運よく発芽したときは糯麦(もちむぎ)の記事を改めてあげたいと思っております。ここまでお付き合いくださった方がたに心からお礼をもうします。有り難うございました。
そうそう、追記しておきます。(前)の記事中に、粳米の美味しさとの比較と書いた「粳米」は「一般米・平日米」とでも呼ぶべき米でしょう。糯米(もちごめ)は晴れの日用のご馳走で、市販されている米には糯米と一般米があって、市販されている米に粳(うるち)があると私には思えません。拝。