病院に行った。そして採血をした、採血室に行くと看護師さんが居て、すぐに採血の運びと成ったのだが。私は太って居る為に血管が浮き出て来ない。看護師、泣かせの腕なのです(笑)看護師は苦労していたが、要約場所が解ったと、採血をしました。医者からは散歩をしなさいと言われたが、足が痛いと言ったら。それは太り過ぎで関節に負担が掛かって居る為だと言われた。3年前の今頃は59kgくらいしか体重がなかったのです。今は85kg です。しかしね、これは薬の後遺症なんですよね。抗精神薬は太るのです。よく精神疾患患者は、醜くぶくぶくと太って居て。頭がおかしい奴は食生活がだらしがないのだろうと思われて居ます。しかし投薬に寄って太って居るのです。身体障害者の方もそうですね、大抵みんな太って居ます。しかしそれも薬の投薬でです。健常人は体が悪く無いから、解らないのだろうけど。薬を処方されて居る人たちは、それは苦しい状態なんですよ。特に精神薬は副作用が酷いです。でもそれを我慢して飲まないと、病状は治らないので仕方がないのですよ。私は大学2年で発病しました。過度のストレスに晒されたからです。毎日、ある宗教団体の男にストーカーをされました。まあ、私も反撃をして、そいつに謝らせて辞めさせましたが。夜寝ていたら、女の人のすすり泣きが頭の中から聞こえて来たのです。私は慌てて、両親の寝室に飛び込んで頭の中から声が聞こえると言ったのですが。両親は驚いて、次の日、父親が吉祥寺の神経内科の個人病院に連れて行ったのです。私を見た医者は、当時はまだ統合失調症とは言って居なくて、精神分裂病だったので。若い私に精神分裂病と言うのは躊躇われた様で、自律神経失調症と言いました。
そして精神分裂病の薬のものすごく強い薬を投与しました。私はその薬を飲むと気絶してしまい。どう仕様も無かったのです。しかし両親は、そんな私を父親が経営する会社で働かせました。私の仕事は重い荷物をライトバンやらトラックに積んで配達する仕事です。勿論、免許は持って居ません。だから助手です。私は荷物を車に積んで居る時に目眩がして目頭に手をやりました。すると一緒に働いて居た。橋本という男と従兄弟のゆきかずが「オラ!額に手を当てるな当てるな〜!!(笑)」と怒鳴るのです。私はよくそのまま荷台に倒れて仕舞いました。するとニヤニヤ笑って言うのです「オラ!何寝てんだバカヤロー」と。私はそんな状態で薬を飲むと卒倒するのに、私の親は私を働かせました。そんな状態で私は夏の炎天下7月と8月に一斗缶。一缶34キロの缶を300缶トラックに積み込みました。初めは酷い目眩と吐き気で吐いて仕舞いましたが。ゆきかずはニヤ付いて見ているだけ。そして私が気持ちが悪くて積んでいるので自分のペースで積んでいるのに。やって来て物凄く早い勢いで一斗缶を渡すのです。一見周りからしたら手伝っているように見えます。此れが奴の手なんですよ。私のペースが保てなくなりますから。まあ、巧妙な嫌がらせですね。
そして私は2ヶ月間。一斗缶をほぼ毎日300缶積んでいたら、体重が34キロも痩せました。その当時は薬のせいで太っていて矢張り85キロぐらいはありましたから。結果、51キロになりました。日頃、ゆきかずは私に言っていました。「計算で行くとさ、〇〇ちゃんは54キロぐらいでいいよなぁ?なんでそんなに太っているの。ケッ!!(笑)」堪り兼ねた私は、先生に薬は飲めないと言いました。するとその医院の先生は、「薬を飲まないと、ダメだよ、、」と初めは言って居ましたが。そのうちに大学病院ならば、私に合う薬があるかも知れないと言い、母校の東京医大に行く様にと推薦状を書いてくれました。私は大学病院の精神科に掛かりました。私を担当したのは小穴教授でした。この人はアメリカにちょくちょく行く教授で私の額にライトを当てて、精神分裂病なら、赤いうっすらとしたものが見えるはずだと言いました。結果そんな物は見えずに、教授は私を自律神経失調症とまた診断しました。そして診察をして居ましたが。アメリカに行く事に成り、私を置いて居なく成りました。私は事情が飲み込めずに、その後も東京医大に通いましたが、色々な医者にたらい回しにされました。そんな中、ある若い女の先生から「〇〇君、主治医を早く決めなさい」と言われて、私はその後見て貰った男の先生に掛かる様に成りました。その先生は温和な人で、私に「東京医大は悪評があるから、開業する先生がいるから、その人のクリニックに通ったらどうですか?」と言いました。私は仕方がなく開業する先生の居る立川のクリニックに行く様に成りました。
Wishbone Ash...Throw Down The Sword "Live"
私は書店で「精神分裂病」と言う本を購入し。立川の喫茶店に入りその本を読んでから。母に読む様に渡しましたが、母は「わたしはお前を精神病などとは思って居ないから、そんな本は読まない、読みたくもないよ!」と言って本を読みませんでした。会社では従兄弟のゆきかずが一緒に車に乗れと言い、先に私を乗せると私が薬の後遺症で舌がもつれて居るのを嘲笑って言いました、「アウアウか、〇〇ちゃん、頭八分目なんだろう、ええ、低脳野郎が!!」と罵声を浴びせます。私は何を言われても黙って居ました。そんな事を言って居るゆきかずは、或る日、フランスにメーカーの招待で研修に言った後に、手帳を机に忘れました。社員の皆んなが、その手帳を読んで、何故か私の処に置いたのです。私は手帳を広げて見て呆れました。「I can’t speak English」と書いてあり、カタカナでアイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」とルビが振ってあり、そして意味、「私は英語が話せません」と書いてあったのです。
この英語は中学一年で習う英語です。しかもこの英語は間違っています。英語を使う人にとって、言語は「話す / 話さない」ものであって、「話せる / 話せない」と解釈する対象ではないのです。英語圏では”I don't speak English” ”I don't speak very well.”が自然な表現となります。ここで ”can” を使ってしまうと、言葉が発せないとか、文字が読めないと言う、何かしらの障害があるような意味に成ってしまいます、大変奇妙に見えるのです。私の周りに居た、若い社員たちはそんな事は知っています。だから私に手帳を渡したのです。私は苦笑して、その手帳を常務である従兄弟のゆきかずの机に置いときました。そして私を車に乗せるとゆきかずは、「車の免許持っていなければ何故取らないんだ!!金が無いなら会社に借りて取れ!!」と言うのです。私は精神疾患を持っています。だから免許は持てません。抗精神薬を飲んで居るのだから当たり前です。ゆきかずはそんな事は知りません。そして「お前は頭がないバカだから車の免許も取れないんだろう(笑)」と嘲笑うのです。私はゆきかずには何も話したくはありませんでした。
Gary B.B. Coleman - The Sky is Crying
そのうちに私は営業から外れて、倉庫番に成りました。するとゆきかずが来て言うのです。「〇〇ちゃん、財布見せてよ。贅沢しているから、財布の中に30万入ってるんだろう?(笑)リビング・ニュースなんか誰の許可を得て取ってるの、困るよ会社でこんな新聞読んで居たら(笑)まさか、会社に払わせているんじゃないだろうな!!自分で払って貰わないと困るよ(笑)」そして私が無視をしていると、母に「〇〇ちゃんは怒ればいいのに怒らないんだ」と言うのです。母は呆れていましたよ。私はその数々の嫌がらせの所為で精神状態が不安定に成り、1回目の入院をしました。そして3ヶ月間入院をして、職場に戻りました。しかしゆきかずの嫌がらせは続きます「ケッ!気狂いが!!」私はそう言われても黙って居ました。先ほど話に出たリビング・ニュースとは地域の情報紙で無料です。ゆきかずはそんな事すら知らないんです。この当時、会社は親父が取って来た食料品メーカーのリスカのチョコレート・ボー、「うまい棒」が大ヒットして億という儲けが出ました。私は倉庫番を続けて居ました。或る日、ゆきかずが言いました「〇〇ちゃん、ちょっと車に乗って居てくれない?」そして私を車に乗せると後から乗って来て。言いました。「しっかりして働いて貰わないと困るよ〇〇ちゃん!!。」私はいい加減に切れてゆきかずを怒鳴りつけて言いました。「あんたねぇ、皆んなから、なんて言われて居ると思っているの!!自分が利口だとでも思っているのか!!」そう叫びました。するとゆきかずは両耳を塞いで「言わないでくれ!!言わないでくれ!!」と泣みだ目になり泣き始めました。そして泣きながら言うのです。「仕事をちゃんとやって貰わないと困るよ!!」と・・・私は頭が6分目しかないのはお前だろうと呆れて居ました。
「今日から他人」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "脱・どん底" 1974年
そのうちに会社に武井くんと言うアルバイトが入って来ました。その若者は知的障害を持って居ました、ゆきかずは武井くんにわざと冷蔵庫の上にあるものを取れといい。彼は言われた通りに取ろうとして足を踏み外し、下まで落下すると、それを見て居た、ゆきかず、けんじ、かしろうの3人は手を叩いて「ざまみろ!ざまみろ!ざまみろ!」と喜んで罵声を浴びせたのです。そして私の処に来て言いました。「武井はこう言ってたよ〜〜〇〇ちゃん、〇〇ちゃんはどう言うんだい。え〜〜。低脳やろう!!」私は親父に言いました。「ゆきかずに何か言ったの?」すると親父は「あのバカな、此間、リスカの千葉の醍醐の工場に連れて行ったんだ、そして、社長と話させたらな、醍醐の社長が怒ってな、こんなバカは二度と連れて来るな!!と本人の目の前で言われたんだ」と言い「おめえに嫌がらせをするんだろう。おりゃ、知ってるぞ」と言うのだ。私は「親父でもねぇ、この会社の跡取りは親父の兄貴の子供である。ゆきかずなんだから、そう邪険にしない方がいいよ」と言いました。ゆきかずの唯一の誇りは自分が出た大学の明治学院大学だった。私は断言する裏口入学だと思う。もしくは1970年当時、新設の大学だったから、テストの点が取れなくとも、寄付を沢山すれば補欠で入れてくれたのだろう。私も大学入試の時に担任から言われた、東京電機大学なら推薦を取れるぞと言われたのだが、私は理系は苦手だったので、訳あって東京農大と慶應大学を受けたが落ちて、滑り止めの拓殖大学に入ったのだった。私は大学を敬って偉ぶってたいそうな処とは言いたくない。その意味では素直に自分の出た大学を「私の出た明治学院大学はたいした処だぞ」と自慢出来るゆきかずを、まあ、「羨ましいねぇ〜」(笑)とは思う。
木村+ホトケ+塩次伸二 嫌んなった
そうこうして居るうちに私はまたもや調子が悪くなった。親父の行動がおかしい事を仕始めたのです。親父は年で外回りが出来なくなって、会社にいる様に成ったのだが、親父の兄貴であるかしろうと、その子供たちのゆきかず、けんじが会社乗っ取りを考えはじめたのだ。彼らは底意地が悪く,ワル知恵だけは長けていた。専務である親父が働けなくなると、ゆきかずは親父をとことん追いつめたらしい。社長のかしろうは月に数億の儲けが入って居た時期に、金をしこたま溜め込んでいた。私の家は弟が医者に成った。金は物凄く掛かって居る。私立だったから寄付金を毎年2回は募る、1回、数百万だ。一介のサラリーマンの家から医者は出ないものだ。成れ無いのだ。学費やら色々払えはしない。そう言う分には親父は息子を医者にしたのは大したものだと言えよう。負け惜しみで言うのでは無いが、私も藝大ぐらいは行ける頭が欲しかった。まあ、欲は言うまい。美大ぐらいは行きたかった。武蔵美に行くのが夢だったが・・・・母は猛反対した。結局。私は拓大の商学部に行った。しかし私は、漫画を描いたりイラストを描いたりして居たが、ある時に虚しく成って全て辞めた。親は私には親父の後を継いで貰いたかったのだ。あんな商売。私は嫌いだ。大体が時代にもう合っては居ない。大体が製菓材料の卸問屋と言うものは、食料品の企業の特約店だ。親父の会社は、旭成化、不二製油の特約店だった。電気店が家電メーカーのパナソニック、ソニーの特約店であるのと変わりは無い。
そして町の電気屋が次々と消えて無くなり。家電量販店のビックカメラやらヨドバシカメラやらに移行したのと同じ様に、一介の製菓材料卸問屋もまた消えて無くなる運命にある。親父は私がダメだから事もあろうに。大学受験の医大の勉強をしていた弟を口説いた。毎日弟が受験勉強をしている。夜中の1時になると弟の処に行って。「おい、お前は高卒でいい。俺の仕事を次いで俺と一緒に会社を盛り上げておくれ!!」と言うと弟は私に溢して言っていた。「毎日毎日、午前1時になるとやって来て「勉強などしなくていい」と言うんだよ!!嫌になるよ。」私もあんな会社は一刻も早く辞めたかった。ある日親父が言っていた。「なんだが経理で300万円の不明金がある。」そして社長である自分の兄貴に言うと彼は一言「そうだねぇ」と言った。そして自宅を新築した。私の母は私のやる事に全てイチャモンを付けた。子供の頃から映画とかのポスターやらチラシを集めていると全てゴミ箱に捨てられた。音楽関係の仲間から電話が掛かって来ると全て断った。絵を描いていると怒って「お前は嫌なものを描くねぇ、描くのを辞めておくれ」と言った。私は何だったのか?私のやる事は全て否定し、そして精神病になると働けと言ってあんな連中の居る会社に叩き込んだ。
一度、私は母に聞いた事がある。「子供の頃から嫌な環境で育てられ!!自分の進みたい道には行かせずに、いったい俺は何だったんだ!!」と怒ったら、母は涙を浮かべて「ごめんよ、ごめんよ」と泣き出した。そしてある時に1980年代の終わり頃に突然地上げ屋が来て、こう言われた「〇〇さん、あんたら此の土地にはもう住めないよ!!」そして条件として新しい土地に移る事として2千万を親父に渡した。そしてバカ親父はこう言った。「俺は、全額独り占めにしたくは無いから。兄貴のかしろうにもちゃんと半分の一千万を渡すんだ。」そう言って社長に渡して。今度の家は姉が見つけて来た土地に三井ホームで家を新築した。その時に親父の兄貴が来て、こう言った「前見たいに1階を会社にしよう!!」親父は怒って言った。「兄貴!!何言ってるんだ。兄貴には1千万円を渡したろう」そう言っても「矢張り前みたいに1階を会社にしてくれ」と言うのだ。親父は流石に怒って言った「いい加減にしてくれ!!」そして会社は事務所と倉庫を貸しビルのテナントから借りた。親父の兄貴はとことん意気地が無かった。此の会社の件では、ゆきかずでさえも「専務、会社はどこか土地を買って新しく建てましょう、、」と言っていたのだが。親父の兄貴はそんなゆきかずを横目で睨んで怒りつけていた。それから20年が経った。私は病気が悪化し入退院を繰り返していた。それなのに事もあろうか親父は自分の息子である私に、刃を向け始めた。
その時期についての事はこのblogで散々書いて来たから、此処ではもう言うまい。私は会社を辞めた。そして病院も変えて本格的な精神病院に通って治療に専念をしたつもりだった、つもりだったのだ。処がまた再発した。12年前に自分やら、居間やらの部屋をめちゃくちゃにしたらしい。私は記憶がごっそり無く成って居る。そんな私を姉弟は見捨てた。姉は医者の処に嫁いだ。弟は医者だった。しかし見捨てたのだ。兄弟に精神病疾患患者は要らないと。そして親父は死んでいった。親父が死んでも親父の兄貴の社長はうちに親父の退職金を払わなかった。そして会長と成り、ゆきかずが社長となった。怒った母と弟はボイスレコーダーを持って会社に乗り込んだ。そして「経営者並みの退職金をちゃんと払え!!」と言ったが、社長とゆきかずが拒否をした為に、母と弟は弁護士を雇った。そして月40万を分割で毎月払わせようとして弁護士を差し向けたら。会長のかしろうと社長のゆきかずは、「退職金なら払い済みだ」と言うのだ。弁護士が「どう言う事だ?」と聞くと「私に払っていた給料が親父の退職金だ....。」と言うのですよ。
弁護士は「お前たちがやろうとしている事は犯罪行為だ!!」と怒鳴りつけたら。私に払っていた給料明細書を弁護士に突きつけて、「これが証拠だ!!」と言うのですよ。私が26年間働いた事はどうなったんだ?嫌がらせを26年間もされて?弁護士は「警察沙汰にするからな!!」と言ったら、要約、その給料明細書を引っ込めたと言う。そして彼らは8年掛けて払わされる事となった。しかし、今から16年前に私は認知症の母を見ながら生活をして。ゆきかずから来るお金の入金を確かめていたら。会社の経理士と名乗る男から電話が掛かって来て「40万を30万位に減らしてくれ」と言うのだ。私は怒鳴りつけたが。電話は切れてまた他の会計士から電話が掛かって来て「ああ〜〜。退職金の件だけども30万しか払いませんから〜〜。」と言うのだ。私は警察沙汰にしてやろうかと思ったけども。まあ、会社も経営は今や商店並みだ。「ゆきかずも弁護士を差し向ける金も無いんだろうな」と憐んで、「いいですよ。それで、しかしちゃんと期限までは入金をして下さい」と言うと。そいつは「ああ〜入金はしてやるからヨォ〜〜(笑)」と笑いながら電話は切れた。私は最近に成って、ゆきかずの家の前まで行ってゆきかずが帰る処を物陰から見て居た事がある。ゆきかずも、もう70歳を超える歳だ。此処10数年見ない間に随分とじじいに成ったものだ。私は彼を哀れんで帰って来た。生きても、もう6年は生きまい。死んだら神様はどう言うかな?天罰はいずれ下る。
Led Zeppelin-Good Times Bad Times
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ー「レンタルビデオの想いで」ー
昔、私の実家のすぐ傍に「セレクション」と言うレンタルビデオ屋があった。私は近所なもので、よく其処にビデオを借りに行った。1980年代後半頃だった。店にはアルバイトの少し背が高い女の子が店番をして居た。私はその子に予約は出来ないかと聞いた。当時はレンタル店に寄っては、新作に限って言えば予約できる店もあったからだ。その子は「いいですよ」と軽く引き受けてくれた。名前と電話番号を言い。黒澤明東宝作品、全21作品を予約したのだ。当時、黒澤明の映画は劇場でリバイバル公開を見るか、細々とテレビの深夜放送の日本映画名作選で見るしか見る手段が無かった。ビデオには成って居なかったのだった。私は輸入ビデオで何作かは持っては居たが、21作品が一挙にリリースされるとあって、まだ、他の客が借りる前に新品のものを借りて、ビデオデッキでダビングしようと思ったのだ。私は毎月4本ずつレンタルされる作品を心待ちに待った。
すると電話が掛かって来て、出てみるとレンタル屋のそのアルバイトの子で「今月分の黒澤明作品4本入荷しました」と言う。私はそう聞くと小銭を持って「セレクション」までコートを羽織って借りに行った。息急き切って店に駆け込むとそのアルバイトの女の子は和かに、「お待ちしてました。4本のうち今日は何巻レンタルしますか?」と聞くのだ。私は何時も「全巻レンタルします。」と言って、1600円程払って1泊2日でレンタルした。そしてそんな事をほぼ1年続けた。そのうち私は一人の身体障害者の若者が車椅子に乗って店に入って来て居るのに気がついた。私はこの店の人は車椅子の客は嫌がらないのか?と思って見て居ると。その女の子がカウンターから出て来て、その男の言うことを聞いて、店にあるビデオを持って来て見せて、「今日はこれですね」と言って、テープを袋に入れて、その客に渡しお金を貰うと、その若者の車椅子を押して店の外に出して、その若者が礼を言うとにこりと笑って店に入ってくるのだった。
よくそのビデオ屋を観察していると、その障害者の客は月に2回は来て居る様だった。そして、その店員の女の子と話して居ると如何にも嬉しそうな顔をしていた。私は出来た子だなと思って微笑ましく見ていた。そして私は黒澤明のビデオの他に、当時東映から出ていた”栗塚旭”主演の「新選組血風録」の全13巻が並んだので喜んで借りに行ったのだった。私は喜んだ。この店のオーナーは目利きだと思った。栗塚さんの「新選組血風録」は新撰組のTVドラマとしては名作なのだ。私はもちろんダビングが目的だ。だからいつも日曜日に当日で2巻ずつ借りに行った。私の家はこのビデオ屋から近い。近所だから返却するのも簡単だった。私は血風録をダビングして無作降り着くように観た。栗塚旭はいい。この作品はオリジナル脚本は結束信二によるもので、リリカルな描写が目立つ。なお、当初、司馬遼太郎は東映によるテレビドラマ化に難色を示していた。東映が映画化した『新撰組血風録・近藤勇』の改変に不満を持っていた為だった。それを説得するため、プロデューサーの上月信二は土方歳三に扮した栗塚旭と共に司馬へ挨拶に行くと、それを見た司馬が「土方そっくりや!!」と絶賛し、ドラマ化が決定した。脚本を担当した結束信二の墓碑には、司馬の筆による「結束さんは人生をよき景色としてみていたすばらしい心のもちぬしでした」の言葉が刻まれている。私は何遍もこのTVドラマ・シリーズを観た。ちなみに今はDVDで発売されたものを所有しています。
土方歳三を演じて50年になる栗塚旭
【イッキ見!】新選組血風録 全予告編
そして1年が経とうとした時に、私はこのレンタル店で「真夜中の刑事」を見つけた。その時は狂喜乱舞したものだ。まさかのレンタル、こんなマイナーな映画がレンタルされるとは思わなかった。私は棚に置いて有るのを見つけると、すぐに手に取って、カウンターへと持って行った。このビデオを見た店員の女の子は「イブ・モンタンお好きなんですか?」と聞いて来た。私はこの映画は、フィルムノワールの名作で、監督のアラン・コルノーの処女作にして大傑作だと熱弁を振るった。その子は、感心して聞いて居た。そしてこのビデオを借りて帰ろうとすると、小学校6年ぐらいの男の子が店に入って来た。そして言った。「姉ちゃん、家帰らんとね・・・」私は、「あれ東京の子ではないのか?」と話が聞こえて、振り返ったら、店員の女の子が「姉ちゃんね、あの人と一緒になろうか思うとんのよ」と言った。私は「あの子、結婚するのか.....。」と思いその場を去った。
Police Python 357
それでそのビデオを返しに言って、暫くした頃だった。前に見た身体障害者の若者が綺麗な女の子に車椅子を押されて店に入って来た。私は少し驚いて見て居た。いや、その連れの女の子が可也な美人だったからだ。その障害を持った若者は、山田洋次の「学校」と「息子」をその女の子に棚から取って貰い。嬉しそうに店員の女の子に渡した。店員の子は何時も通り、笑顔で2泊3日と聞いてお金を受け取ると袋にテープを入れて渡して居た。また1年も終わりの冬が来た。私はこの頃、体調を崩して居た。会社を休んで1日療養をして居たのだが、ある日、実家の庭に置いてある壺に、氷が張って居たので、壺の中の金魚が窒息しないかなと思い見ていると。家の門の前をあのセレクションの店員の女の子が。若いイケメンの男性と手をつないで通ろうとして、私に気付いて私に軽く会釈をして通って行った。私は「御幸せに・・・」と呟いた。その後、セレクションにまたビデオテープを借りに行った。もうあの女の子は辞めて居なかった。そして、その日は松本零士のOVAアニメの「エメラルダス」を借りて帰ろうとして表に出て見たら、あの障害を持った若者が一人で車椅子を動かしながら詫びしそうに前を通って行ったのだった。私は此の間の女の子はどうしたのかなと思いながら、その障害者を暫く見て居た。。。
Queen Emeraldas 1998 OVA, japanese voice - english subtitles
「黒の舟唄」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 2ndシングルB面曲 from album "脱・どん底" 1974年
Three O'clok Blues - 近藤房之助 (Harmonica - Kotez)
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【『waltz』店主・角田太郎】手のひらサイズの旧メディアカセットテープが秘めた可能性
NINM Lab - Interview with waltz's founder Mr. Taro Tsunoda 角田太郎 (Part 1)
JAPAN: On rewind
カセットプレーヤーの使い方 - How To Use Cassette Tape Player -
Waltz
えっ!? いま何故カセットテープ? 東京は中目黒にカセットテープ専門店がオープンしたと言う話を聞いて、最初に感じたのはそんな素直な疑問だ。もしかしたら、ただのモノ好きな店主が始めた道楽かもしれない。しかし、その予想は話を聞いて居るうちに吹き飛んだ。店主の流暢なトークを聞くうちに、最後には、カセットテープこそが斜陽化する音楽産業や家電メーカーを蘇らせるカギになるかもしれない。そう思わせるほどの説得力と魅力が秘められて居たのである。
アパレルショップやカフェなどが点在し、おしゃれな街として知られる中目黒。高層ビルが少ない事もあり、渋谷などと比べると、のんびりとした雰囲気を漂わせて居る。そんな中目黒駅を下車し、目黒駅方面に10分ほど歩いた住宅街に世界初のカセットテープ専門店『waltz(ワルツ)』はある。
2015年8月オープンとまだ新しいショップは、かつて金型工場だったと言う。店舗入口には大きなガラスがはめられたスライド式の扉があり、道沿いから店内をすべて見渡せるほどの開放感。中央の棚にはジャンルごとにカセットテープが並べられ、レジ横にはラジカセ、左側の壁にはアナログレコード、右側の壁には『ポパイ』などの古本が置かれて居る。あえて本を並べたのは音楽から派生するカルチャーをカバーしようと言う思いがあり、すっきりとした空間デザインには、女性がひとりでも入れるようにと言うコンセプトが生かされて居る。
磁気テープに音声信号を記録するメディアは1800年代後半に誕生。その後、いわゆるカセットテープが生まれたのは1960年代。そこから一般家庭に普及し、誰もが簡単に音声や音楽を録音・再生出来る様になった。ソニーのウォークマン第1号機の発売は1979年、以降、屋外で気軽にパーソナルに音楽を楽しむスタイルが全世界へと広がっていく。当時は、アナログレコードと同等に、さまざまな作品が「カセットテープ版」として発売されて居た。しかし、90年代にCDやMDが普及すると次第にカセットテープはその役目を終了する事となる。そして現在、カセットテープを懐かしむ世代と、初めて触れる世代の境界線は35歳くらいになって居る。
Amazonで14年間勤めたのち
「カセットテープ店」オープン
「うちの客層は幅広いですよ、10代~70代くらいの方までいらっしゃいます。原体験のある方は懐かしさで来られて『自宅の押入れにあるデッキを引っ張り出したら、音がよくてびっくりしたよ!』って仰りますね。そこからハマる方が多いです」
そう語るのは店主の角田太郎さん。じつはこの方、伝説のレコード・CDショップ『WAVE』のバイヤーを経て、Amazon日本法人の立ち上げ時に入社。その後14年間勤めたというキャリアを誇る。完全成果主義の外資系企業に長期在籍して居た事がまず驚きであり、ビジネスの世界ではエリートと言っていいだろう。そんなビジネスパーソンが何故、いまカセットテープ専門店を始めたのだろうか。
「レコードは昔から集めていて、2000年代初めからカセットテープも収集する様になりました。Amazonでも、当初は好きな音楽や映像のビジネスを担当して居ましたけど、後半は消費財の事業部長になり、いわゆる大手メーカーの方々と仕事をする機会も増えて。そうやって14年間も揉まれているうちに、気づいたら典型的な外資系マネージャーになって居たんです。そんなとき、『俺が目指してきたのはココなのか?』と言う疑問を感じて。WAVE時代は経営状態が悪くてやむなく辞めたので、やり残した事があるという気持ちもありましたし……。もう一回、実店舗で、音楽的な仕事を自らの手で作って見たいと思ったんです」
オープン時の初期在庫は、すべて私物だったと言うのだから収集癖は相当なもの。これまでの給料の多くは趣味に消えていったと言う、かなりのマニアだ。しかし気になるのは“WAVE時代にやり残した事”だ。
「簡単に言うと実店舗での成功ですね。あの頃も充実はして居ましたけど、本当に楽しくなるのはこれからというタイミングで会社が急激に衰退してしまったので。その後も時代がどんどんと実店舗にとって厳しい状況になって。『それはAmazonのせいだろ!』とも言われますけど(笑)。でも、僕はまだまだ実店舗の可能性はあると思って居たんです。『自分がいまお店をやったらこういう風にやるだろうな』って言うのは、Amazonで働きながら、また日々いろいろなお店に行くなかで考えて居ました。それをアウトプットして見たくなった」
世界的なIT企業でマーケティングを叩き込まれ、ロジカルシンキングをしてきた角田さん。そこで染み付いた発想や経験をもとにしながら、自らも世界有数のコレクターであるカセットテープに新しい人生をかけたのは、このカテゴリーがどこにも存在しなかったからだと語る。また、その思いと並行するようにアナログレコードの再評価が巻き起こって居た事も背中を押した。
「デジタルに慣れた耳でカセットを聴くと、その音質の良さにびっくりすると思いますよ。この話はいろいろなところでして居ますが、技術的に音がいいのと耳に聴こえる心地よさはまったく違うレベルの話。カセットテープは耳に聴こえる心地よさを持って居るんです」
「物体」として存在する音楽を
ガジェットも含めて楽しむ
レコードで音楽を楽しんでいる人はすぐに理解できると思うが、デジタルとアナログの音質は別物の魅力を有している。現在のデジタル音源は、細部までクリアに再現する力に長けている。それは4Kや8Kといった映像の世界と同じだ。その一方で、耳に心地よく、空間を包み込むような雰囲気にしてくれるのがアナログの魅力。日常的に『音楽を楽しむ』と言ったときに、アナログの人気が高まって居る事はある意味で自然な事なのかも知れない。
「お店にはよく大学生も来られますけど、彼らにとってカセットテープはデジタルに次ぐ新しいメディアなんです。デジタルとの違いがはっきりと解る彼らからは『こんなにパンチのある音だったんですね』っていう感想が出ますね。カセットテープの音は、CD以上に周波数の上下がカットされて居るので、もの凄くパンチがあるんです。また、このメカニカルな雰囲気も彼らには新鮮。ガチャっとテープを入れて、ガチンとボタンを押して、くるくると回りながら音が出るのは、究極の有形ソフトだと思うんです。いま音楽が完全に無形になって居るので、その反動もあると思いますね」
以前、より手軽にアナログ・レコードのプレスができるオンラインサービスQRATES(https://www.arban-mag.com/feature_detail/6)の人と話した際にも、代表のヨンボさんは「いつの時代でもアーティストは自分の作品をモノとして残したいという欲求があるんです」と語って居た。それはリスナーにとっても同じ。自分が惚れたものに関しては、何かしらの手触りが欲しく成るものだ。
「音楽って単なる『音』じゃなくてアートだと思うんです。無形なものは『音』でしかなくて、アートではないんですよ。ジャケットデザインも、昔は有名な写真家が撮って居た訳ですよね。そう言う手触りの質感が、データになってしまうとまったくない。そこに対してのつまらなさはあると思うんです。一方、定額を払えば何万曲も聴けるストリーミングサービスが生まれて、みんなが音楽を聴くようになったかと言うとまったく逆、どんどんと聴かなくなって居る。そこが音楽業界の大きな問題点でもあって、『ありがたみ』が損なわれると、みんな聴かなく成るんですよ」
音楽のプライオリティが高い人ほど
アナログに回帰している?
『ありがたみ』がないと言う事は、ガラクタと同じとも言える。彼は音楽を愛して居るがゆえに、ITプラットホームに主導権を握られてしまったレコード会社の現状を危惧している。さらには同じような境遇にある電機メーカーの現状も。カセットテープを一過性のブームで終わらせる事なく、新しいムーブメントにまで高め復活させ、ひいては再生機の復活までをも目論んで居るのだ。それは音楽に携わる人々だけでなく、ハードウェアの技術者にも再び光を当てる事にもなる。
「iPodが出て音楽がデータになったとき、僕も何千枚というCDを全部データにしようとして、ハードディスクを拡張していったんです。でも、あっという間に飽きましたね(笑)。ですから、生活のなかで音楽のプライオリティが高い人であればあるほど、アナログに回帰しているのは間違いないと思うんですよ」
音が良く、アートとしての手触りがあり、手軽に聴けてありがたみのあるカセットテープ。此処までの話からすでに、自宅の片隅で眠っているカセットデッキやウォークマンを引っ張り出したくなった人も多いだろう。実際にwaltzに行けばわかるが、ここは音楽コレクターにとって新たな恐怖の入口にもなって居る。「えっ、このアーティストのカセットなんてあったの?」「このカタチだとこんなジャケットになるんだ!」「うわっ、手の平サイズでかわいい!」など、どんどんと深みにはまってしまう誘惑がある。そんな中、最近は奥田民生や銀杏BOYZなど、音源をカセットテープで発売するアーティストも増えて来て居る。と言う事は、これまでもずっとカセットでの音源は発売されて来たのだろうか。
「いや、途切れています。欧米は90年代後半で終わりました。特に日本はCDに切り替わるのが早かった国なので、カセットの販売もかなり早くに終了しましたね。最後まで作っていたのが東南アジアで、それでも00年代前半まで。ですから、DAFT PUNKのカセットなどは英米では発売されていませんが、マレーシアやインドネシアでは出て居ました。日本の音源でも、宇多田ヒカルの『First Love』はインドネシアでは出て居たんです」
仕入れ先は世界20か国以上
平均単価は2200円に設定
一度は完全に廃れたメディア、それが徐々に復活して来て居るというのが現状なのだ。だが、日本ではまだカセットテープのメーカーは2社現存しており、生テープも作られている。とは言え、アナログレコード以上に希少な存在といえる正規音源のカセットテープ。waltzではどこから仕入れて居るのだろう。
「お店で売って居る物ではないので、いろいろなルートを駆使して入手しています。これもAmazonに居たおかげですが、世界中にネットワークがあって、いまは20か国以上から仕入れています。私のようにおかしなコレクターと言うのは居るもので、そういう方とトレードしたりもして居ますね。きれいにして居ますが、此処にあるのはすべて中古品です」
現在、世界的にカセットテープ市場の相場は跳ね上がっている。この魅力に皆んなが気付き始めているのだ。特に人気なのがヒップホップ。また、ハードコア・パンクのような流通量が少ないものも高価になる傾向がある。
「ジャズを探している方も来られます。ブルーノートとかの名盤はわりと発売されていますけど、数は少ないですね。当時、ジャズをカセットで聴こうなんて人は、よほど変わった人だと思いますし(笑)。お客さんの中には、カセットテープを初めて見る人や、初めて手にする人も多いので、そういう方々にとって最初から高価だと入って来ずらい。ですから、他にも面白い在庫がいっぱいあるのですが、平均単価2200円で提供出来るものを中心に並べて居ます」
このお店は住所など必要最低限の情報が載っているホームページはあるものの、SNSなどのアカウントを持たず、あえて宣伝をして居ない点もユニーク。Amazonで修行したマーケティングのプロがおこなっているのは、ノンマーケティングという逆説的なマーケティング手法の実験なのだ。一方、声をかけてくれたお客さんには店内撮影をOKにし、それが口コミとして広がって居ると言う。デジタルの魅力を十分に解った上で提案する新たなアナログの魅力。愛する音楽が、再び多くの人にとって『ありがたみ』のあるものに戻るきっかけをwaltzが与えてくれる。
店舗情報
店名:Waltz
住所:東京都目黒区中目黒4-15-5
電話番号:03-5734-1017
営業時間:13時〜20時
休業日:月曜日
■Waltz公式サイト
http://waltz-store.co.jp/
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「孤高の漫画家/つげ義春」
概要
つげ義春(1937年生まれ)は日本のマンガ家、随筆家。意識的にシュルレアリスム表現をマンガに初めて取り込んだ作品『ねじ式』の作者として知られる。
つげの作品は、“芸術的なマンガ”としておもに団塊世代の若者に支持され、また現在でも若者に影響を与えている。特にマンガ以外のカルチャーへの影響が大きく、『ねじ式』は1998年に、『リアリズムの宿』は2004年に映画化もされている。
貸本マンガとマンガ雑誌『ガロ』を中心に作品を発表していたが、1970年代以降は寡作となり、1987年の「別離」を最後に作品を発表しておらず、現在は休筆状態。理由は高齢と精神的な不調。
マンガを描くかたわら、温泉めぐりや旅の趣味を生かしたエッセイを多数発表。随筆家としても活躍しており、『貧困旅行記』『つげ義春とぼく』などエッセイ集を数冊刊行して居る。
妻は状況劇場の元女優の藤原マキ。弟はマンガ家のつげ忠男。現在は調布の自宅にて精神的に不調がある息子の世話をしながら家事に忙しい毎日を暮らしている。2014年に『芸術新潮』と『東京人』で久々に公にその姿を現し、ロングインタビューが行われており、自身の作品の意図や現在の生活に関して率直に語って居る。
略歴
対人恐怖からマンガ家へ
つげ義春は、1937年10月30日(実際は4月生まれ)、東京葛飾区で板前の父・一郎と母ますの間に、3人兄弟の次男として生まれた。弟はのちに同じくマンガ家となるつげ忠男。また1942年に父が死去した後に再婚した母と養父との間に生まれた2人の妹がいる。
戦後の日本の経済的後退は、つげの家庭環境に大きな影響を与えた。経済的な貧困を解決するため、つげは小学校を卒業するとすぐにメッキ工場で働く。
その後、いくつかの職を転々としたあと、マンガ家になることを決意。理由はこの頃から赤面恐怖症がひどくなり、人と会わなくても仕事ができる職業がマンガ家だったからだと言う。
18歳で手塚治虫の影響が見られる単行本作品「白面夜叉」でプロのマンガ家として正式にデビュー。つげ自身は、絵は永島慎二、ストーリー構成は横山光輝を手本しており、この頃の作品では、まだつげ独自の特色はあまり見られない。
貸本市場と劇画
つげは、1950年代に興隆した貸本市場で、マンガ家としてのキャリアを積む。貸本市場とは、おもに貧困労働者の客をターゲットとし、安価な娯楽本を貸し出すマーケットで、手塚治虫をはじめ当時の多くのマンガ家が、貸本市場を中心に作品を発表して居た。
つげの暗いストーリーは、当時、貸本マンガのおもな読者層だった小・中学生からの評判が悪かった。しかし、その暗くてリアリズム志向のマンガはのちに「劇画」と呼ばれる様に成り、1950年代後半から60年代の日本において大きく発展した。
「劇画」という名称は1957年に辰巳ヨシヒロによって考案されたものであるが、辰巳の友人でもあるつげは、劇画作家の先駆けとも言えるだろう。
貸本時代の名作としては「おばけ煙突」がある。1958年に若木書房『迷路1』に掲載した短編で、その内容は、たたりの煙突として恐れられている煙突に、貧困にあえぐ職人が1万円の懸賞金目当てのために上り、強風と大雨の中彼は煙突を掃除するが、足を滑らせて死ぬ不条理な話である。
この作品を絶賛した白土三平の尽力により、後年つげは、白土のすすめもあり「ガロ」に参加する事になる。
貸本の衰退と自殺未遂
マンガ家としてデビューしたものの、つげの生活は相変わらず貧しく、生活費を調達するために血液銀行で売血を始める。
売血とは1950年代から1960年代半ばまで輸血用血液を供給していた民間の会社で、金銭を得るために過度の売血を繰り返して居た人たちが結構居たと言う。(1974年に売血廃止)。
1960年に「コケシ」というアダ名の女性と付き合うようになり同棲するが、貸本マンガ生計を立てる亊は難しく、内職を始める。ポーラ化粧品の訪問販売をしていたコケシと一緒に、化粧品をつめた重いトランクをさげ、うろうろ歩き廻ったりもして居た。
1961年、貸本漫画を描いていた三洋社が倒産すると、コケシとも別離。つげは睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂を起こす。
「ガロ」に登場
つげの困窮を聞きつけた長井勝一と白土三平は、『ガロ』誌上にて「つげ義春さん、連絡ください」と所在を尋ねる。それに応える形でつげはガロに創作の場を得る事に成り、1965年「ガロ」8月号にて「噂の武士」を発表。以後、「ガロ」に作品を発表する様に成る。
「ガロ」に参加し始めた当初のつげの作風は暗いリアリズム様式で、水木しげるや白土三平とよく似ており、基本的に読み切り形式だった。しかし、次第にシュルレアリスム風の独特の要素が作品に見られ始める。
1966年2月号の「沼」は、のちの「ねじ式」へと繋がるターニングポイントで、旅情の中に不思議なエロティシズムを秘めた作品である。蛇、銃、雁首など性を連想させるモチーフがシュルレアリスム風に表現されている。「沼」以降、つげ義春様式が一気に確立する流れになり、69年になって執筆を停止するまでの”奇跡の2年”が始まる。
紅い花
1967年「ガロ」10月号では、「ねじ式」と人気を二分する傑作「紅い花」を発表。
おかっぱ頭の少女キクチサヨコが初潮を迎えて大人になる話をシュルレアリスムに表現している。「紅い花」は、1976年にNHKドラマで、また1993年に石井輝男監督の「ゲンセンカン主人」で映像化もされて居る。
ねじ式
「ねじ式」は、1968年月刊『ガロ』6月増刊号「つげ義春特集」に発表されたもので、自身の夢をもとにして描かれたものであり、マンガ史上初めて作者が意識的にシュルレアリスム表現をマンガに取り入れた記念すべき作品である。
ただし、つげのシュルレアリスム理論は、フロイト理論を下敷きとしたブルトンのシュルレアリスム理論とは多少異なり、つげは精神医学的な「無意識」の表現に対しては批判的である。自身の作品は主観のない「無意味」「ナンセンス」の表現であると主張している。そのため、つげの主張を尊重するなら、その表現はダダイスムとの解釈も可能である。
<関連記事>
つげ義春「ねじ式」
「ねじ式」は、60年代後半に流行していた前衛芸術やアングラ芸術と関わりの深い人たちが強く反応。70年に青林堂から刊行された『つげ義春の世界』という評論集の執筆陣が、石子順造(美術評論家)、唐十郎(劇作家)、佐藤忠男(映画評論家)、鈴木志郎康(詩人)、谷川晃一(画家)といった具合からみても分かるように、つげの作品が話題になっていたのはおもにマンガ業界以外のカルチャーである。漫画の世界では当時は異端児だったのです。。。
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以下はブルース・ロックです。まあ聴いて見て下さいね。。。
Led Zeppelin: Live on TV BYEN/Danmarks Radio [Full Performance]
スティービー・レイ・ボーン ワンナイト イン テキサス
MIKE BLOOMFIELD " BLUES FOR ROY " LIVE 1964
Mike Bloomfield: Drinking Wine Live!!