青木志貴ちゃん。。。私は彼女を彼とは認めたく無い。美しすぎるのですよね。例えばGACKTくんなども美形だが。彼は純粋に男そのものだ。しかしこの子は中性的です。声だって可愛いし。顔だって可愛い。しかも今年で31歳になると言うのにこの美貌だ。私は最近はヴァイオレット・エヴァーガーデンの主人公の女の子が2次元では好きだった。しかし。この子は実物の生きて居る女の子だ。心が男なのですよね。彼女はフランス人と日本人のクォーターなのですよ。だから肌が物凄く白い。勝手居た。映画監督のルキノ・ビスコンティーの映画で「ベニスに死す」と言う映画があった。ビスコンティーはホモだったから17歳ぐらいの美少年を見て、その子の事を気に掛けて、夏の海岸で体が衰えた老人が髪を真っ黒に染めて、その子を見て居ながら息を引き取ると言う映画だったが。私はホモでは無いし男色でも無いけど。今、その男の気持ちがよく解る。「美」に男も女も関係ないのですよね。美しい女性も美しい男性も、皆さんは、やっ噛みでこの女の子は綺麗だと写真を見せられても言わない、女性は僻んで絶対に綺麗だとは言わないものだ。女心の浅ましさ醜さですね。よく美人と可愛くない女の子の写真を両方見せると大抵の場合が可愛く無い子を可愛いと褒めて、美人の子の事は何も居わないものだ。男の場合はイケメンだと女の子からは言われるが、矢張り同じ男は認めない。いや認めたくないのだ。私は違う「美人」を見れば男女限らず。美しいと評価する、私は感情論で見て居るのでは無い。藝術的に見て居るのですよね。
どうしても人と比べちゃうよね。
入荷待ちしていたPRADAのアレを手に入れた!
2021年春のズボラ毎日メイク。
「美とは一体何なのだろう?」と言うテーマが私の脳裏をかすめて居ます。「美」を求める人間の欲求が、生まれつき備わって居るものなのか、どうかはとても興味のある処です。「美は人を沈黙させる」とある作家は言って居ます。つまり、「美」を形容する言葉など見つけられないのであって、人はただ、その美しさに感動させられ沈黙するだけなのだと彼は言います。確かにそれが自然の摂理による「存在美」であるならば私も理解出来ます。しかし、藝術的に見て居てと言う人間の身体的、哲学的作業を通して創作表現された「藝術作品」における「美」と言うものについて言えば、少し見方を変えて考えて見る必要があるのではないかと私は思います。
ある藝術家により創作された「美」と言うものが、もし大多数の人の感性(精神)に響くもので無いとするならば、単にその作品とそこに「美」を感ずる個人が、まさに運命的に出会ったと言う事であり、それはそれで幸運な事なのでしょう。しかし、「美」が「藝術と言う領域」に存在しうる重要な点を考えて見るならば、表現されたその作品の内に、民族や宗教を越えた人類の誰もが持って居る人間としての感性(精神)と言うものに対し、その藝術家の追求した普遍的な「真実」と言う哲学が、人々が共鳴しうる形や方法で、意識的に表現されて居ると言う点なのでは無いかと私は思います。
つまり、藝術作品における「美」とは、藝術家本人が追求して居る普遍的な哲学や人間観を、私たちの感覚や感情を媒介にして、私たちの感性(精神)の奥深くに訴えかけ、結果として私たちが自分では気づかない侭で居た感性の内に眠って居る普遍的な「真実」なるものと出会う手助けを、その役割として果たして居るのではないでしょうか。皆さんがある作品に出会い、それを「美しい」と感じたとするなら、その美しさは自分の感性の何に共鳴して居るのだろうかと考えて見る事は、とても重要な事だと私は思います。
処で、今を生きて居るアナタに取って「美」とは何なのでしょうか。誰でも、日常的に自己表現をして生きている中で、美しくありたいとか、カッコイイ自分で居たいと思うのは当然な欲求なのかも知れません。しかし、その表現が余りにも表面的な事に偏りすぎては居ませんか。私は、その人の哲学やその実践、またその人の生き方などもトータルに判断して、美しいと言うのでなければ、「美」が差別的な意識の領域でしか住めなくなって仕舞うと思います。その意味でも私たちはもっと芸術と身近に意識的に接する必要があると思います。「美」が私たち一人一人の感性(精神)の内に確実に居る事を忘れない様にして、自分が生きて居る事の意味を深めたいと思います。この機会に、アナタの内に確実に棲んで居る「美」とは何かを考えて見る事は、未知なる自分を発見する良いチャンスかも知れませんね。
私たちが日常の中でごく当たり前の事と思い込んで居る「見る」と言う行為について一緒に考えて見ましょう。生活の中で私たちはいろいろな「見る」と言う行為や経験をします。「花を見る」「絵画を観る」「映画を観る」「○○を視る」etc。言葉に発音してみればすべて「ミル」と言う事になります。「ミル」と言う言葉を漢字に当て嵌めて見ると「見る」「観る」「視る」です。又、その「ミル」と言う言葉の意味や体験の仕方、その視覚的な構造や意識のあり方について考えて見ると、「ミル」にもいろんな意味のある事が解って来ます。
例えば、展覧会に出かけ、一枚のリンゴの描いてある絵画を「ミル」としましょう。「あ~リンゴが描いてある」と、記憶と言う知識で持ってそれを再認識した途端、私たちは「ミル」事を止めて仕舞って居るのでは無いでしょうか。そして、好き嫌いで判断し、数秒間でその絵画の前を通り過ぎるのです。その作者が色彩や線や材質などを駆使して、「リンゴ」と言うモチーフ(主題)を使い、藝術家としてのどんな価値観や哲学、そして感性に訴えるものを私たちに表現し提案して居るのかと言う事を感じとり、読み取ろうとしない侭に。果たしてそれで本当に「絵画をミタ」と言う事になるのでしょうか?
少し私たちの眼の構造について考えて見ましょう。眼にモノが映って居る状態は構造的には水晶体と言うレンズに光りが映って居る状態だと言う事が解ります。それは意識とは関係なしに「見えて居る」と言う状態なのです。しかし、果たしてそれが「ミルと言う行為」なのかどうかは考え直して見る価値があると思います。何故なら「ミルと言う行為」には、「見えてる」そのモノの存在の意味を読み取ろうとする意識が不可欠だと思うからです。ましてや藝術作品を「ミル」と言う事は、作品を通してその作者自身が表現して居る普遍的な哲学や価値観の提案や、また私たちの感性(精神)に訴え掛け様として居るものが一体何なのかを、「見る」「視る」「観る」と言う総合的な「ミル」によって読み取ろうとする事なのではないかと私は思います。
自分の事を「イイオトコ」「イイオンナ」「綺麗な人」だと観て貰いたい、そんな漠然とした願いは誰しも持って居るものです。しかし、今一度、その願いの中身を冷静に考え直して、居る事はとても重要な事では無いでしょうか。「一体全体イイって事は何なのだろう?」と。私はその様に哲学する事が「イイオトコ」「イイオンナ」へと発展して行く一番の近道だと思います。そして藝術作品に向き合うと同様に、「感情」「感覚」「感性」を磨きつつ「自分自身を総合的にミル」と言う意識を持ち続ける事が大切だと思います。そんな事を青木志貴ちゃんを見て居て思いました。彼女(彼)にはその事がよく解って居る。 さて、アナタに取って自分の中にある色々な「ミル」とは何でしょうか。この機会に、「ミル」をもう一度漢字に当てはめ直して考えて見る事も、新しい自分に出会う、とてもよい切っ掛けになるかも知れませんね。美しいものやら人を見たら素直に美しいと言える様でなければ行けませんよね。美しい人とは神が創造したものなのですから......。
芸術は発見ではないでしょうか。発見とは自分と世界の関係についての新たな情報を得る事です。世界に関する情報を得る為には、「運動器官によって世界に働きかけ、感覚器官を通じて情報を受け取る」と言う世界との関係を持続する事が必要です。その「働きかけ」の積み重ねが生み出すものが芸術作品だと思われます。つまり、自分と世界との関係についての情報を探すのが芸術と言う行為であり、その結果として生まれるものが作品である訳です。
芸術は人間と外界の情報交換であり、情報媒体が作品であるとも言えます。情報媒体としての芸術作品の価値は、その作品から引き出す事の出来る情報量で決まるでしょう。作品が単に量的に膨大なものであれば、そこに込められる情報量は多くてあたりまえです。また量的な情報量は一目でわかります。そこで、「一目でわかる情報量の割に、多くの情報が引き出せるもの」が情報媒体としての価値が高い、と考える事が出来ます。つまり芸術の価値を美とすると、
美 = 暗黙的情報量 / 明示的情報量
と表せる事になります。暗黙の情報とは「明確に表現されては居ないが深く吟味すれば解る様な」情報の事で、意識される情報とは「明確に現われて居る」情報の事です。つまり、「ひとつひとつの形、音、動き、などの要素にどれだけ多くのの意味が込められて居るか」が問題な訳です。
この式から、美しいものを言葉で表現しにくい理由が解ります。美しいものは暗黙の情報量の比率が高く、暗黙とは言葉で表現出来ない事だからです。また、美を感じ取るのは直観あるいは無意識であると言う事解ります。さらに、美しいものは飽きないと言う事も説明できます。飽きると言うのは「もう発見がない」と言う事ですが、美しいものは暗黙の情報が多いので発見が尽きないのです。
この定義は美術や音楽などの芸術ばかりでなく、スポーツや学問から日常生活に至る我々の全ての活動に当て嵌める事が出来ます。何故なら、我々の活動とは要するに脳の情報処理だからです。我々が世界に対して情報を探求するつもりで働きかければ、どんなものごとでも芸術と同じ様な行為になると考えられます。
美と言うものが暗黙的情報によってもたらされるのだとすると、美しさを意識的にとらえるのは、面白い事ではあっても、美を直接認識するのとは違うと言う事になります。意識化して仕舞ったものは美そのものでは無いからです。しかし、美を直接認識する事は精神的な危険を犯す事でもあります。何故なら、暗黙的=無意識的情報は身体性に基くものであり、意識的には制御しきれなものだからです。
無意識的情報には、意識(社会)が否定的に捉える情報、つまり悪も含まれます。したがって、美を求めて無意識的情報を探る事は悪に触れる事でもあります。また、美を追求する事は、身体を通じて無意識的情報を掘り起こすと言う事なので、個人的な行為であり社会性とは相反する様にも見えます。
美は無意識的情報によって持たらされると言っても、無意識的情報そのものではなく、「少ない意識的情報によって表現された多くの無意識的情報」が美であろうと思われます。その様にして表現される事によって、我々は意識的情報の部分を受け入れる事が出来、同時に無意識的情報による感動が持たらされるのだと考えられます。
美の追求は、意識的な情報のみによって安定した社会にとっては一種の不安定要因です。しかし、それは意識が無意識的情報を扱う方法を探す試みでもあり、実は静的に安定した社会を動的安定に移行させる為に必要なのだと思われます。
人間の持つ創造性は直接的に何かの役に立つ場合とそうでない場合があります。役に立つと言うのは何らかの秩序の維持に貢献する事なので、役に立つ創造とは予め存在する秩序を前提とした活動です。しかし、秩序を維持する事よりも新たな秩序を生み出す事の方がより創造的です。芸術やスポーツから経済的な活動まで、どんな分野に於いても、ある形式の中での表現や課題の解決よりも、新たな形式や課題を発見する事の方が創造的であると考えられます。
新たな秩序の発見と言うのは既存の秩序に捉われ無い活動なので、既存の秩序から見れば無秩序な活動でもあります。既存の秩序に基かない活動を自発的行動と呼ぶとすれば、自発的行動は既存の秩序から見ると制御する事の出来ない活動であり無秩序に見える事になります。その無秩序の中から新たな秩序を発見するのが創造の過程です。つまり、自発的行動に於ける無秩序とは「まだ知られて居ない秩序」を含むのだと考えられます。
創造性には自発的行動に伴う無秩序が必要です。個人としての満足の為にはそれで十分ですが、ある人の創造性が社会的に価値のあるものとなる為には無秩序の中から新たな秩序を発見しなくてはなりません。しかし、最初から秩序を求めて居たのでは自発性が失われて仕舞い創造に必要な無秩序が得られません。そこには逆説がありますが、「無秩序を含む自発的行動」と「表現のための秩序の追求」を分けて行う事が創造性につながると考えられます。
何かの秩序を意識して行動するのが意識的行動ですが、自発的行動は既存の秩序に基かないのだから意識的行動では無い事になります。自発的行動は無意識的行動であり、そこに含まれる「まだ知られて居ない秩序」は小脳のシミュレーションによって得られる無意識的情報の事だと思われます。無秩序に見える無意識的情報の中から新たな秩序を生み出す事は一種の技能を要するので、意識にとっては魔術的にも見えます。したがって、芸術やスポーツなどの分野で特に創造的な表現に成功した人は神格化されたりもします。それは現代における宗教性の現れとも言えるでしょう。
参考文献「モンマルトル芸術論」
最近購入した書籍の平積みです。。。
kiyasumeの今日の昼食です......。ミニそぼろ弁当と小さな赤飯のおにぎりです。
処で念願のマカロニ・ウエスタンの傑作。2作品が1作品860円で売って居たので購入しました。特別な割引セールだった見たいですね・・・・・・。2枚購入しても1,720円でした。安かったですよ。こう言ったマイナーな。マカロニ・ウエスタンのDVDは、最近になって売り始めたんですよね。今から30年前。20年前には殆んど、商品化されて居なかった。ビデオ時代とかレーザーディスク時代とかでも。全部で10作品位しか。商品化されて居なかったのですよね。此処、10年位で。まずエスピーオーと言うメーカーがマカロニ・ウエスタンの3枚組のBOXを、全部で10個売り出してから。ソニー・ピクチャーズ・エンターティメントと言うメーカーが数BOX 売って居て。最近では低価格の単品で売り始めました。
マカロニ・オタクに取っては嬉しい限りですよ。勿論、私はすべての作品を所有して居る訳ではありませんが。すでにもう67作品は所有して居ます。私たちの世代は、団塊の世代は大学生の頃。私は小学生の頃から中学に掛けて、流行って居た。イタリア製西部劇の事です。こう書くとイタリアの中世の話かと思う方が居られるかと思いますが。そうでは無くて、イタリア人の監督は1963年頃までは史劇を撮って居ました。あのマカロニの巨匠セルジオ・レオーネですら1961年の「ロードス島の要塞」と言う史劇を撮って居ます。イタリア映画はローマ帝国の映画などを撮って居たのですよね。1960年代半ばまで。そしてセルジオ・レオーネは当時スタントマンとして雇って居たアメリカ人の俳優が居たので。彼らを使って何か作れないかと考えた訳です。
その時に、丁度。黒澤明の「用心棒」と言うアクション時代劇を観て。此れだと閃いたそうで。黒澤に連絡せずに翻訳して舞台をメキシコ付近にして(ロケ地がスペインのアルメニアだったから)西部劇を作り上げたんですよ。主人公にはアメリカ人を使おうと。当時ローハイドと言うテレビ西部劇でその二枚目で人気があったクリント・イーストウッドにニヒルな演技をさせて賞金稼ぎの名無しの風来坊を演じさせて「たった一握りのドルのために」(日本公開名/荒野の用心棒)と言う、イタリア製西部劇(欧米ではスパゲッティ・ウエスタン。日本では、あの映画解説者の淀川長治さんがスパゲティなんて細っこいものではダメだ。これは図太いだからマカロニだと言って。日本だけはマカロニ・ウエスタンと呼ぶ様になりました。)しかし、セルジオ・レオーネは黒澤明に文句を言われて黒澤に東洋での「荒野の用心棒」の配給権を譲渡しました。
当時、香港やら台湾。シンガポールやらインドネシアなどで公開された「荒野の用心棒」は何故か監督名が黒澤明になっており。セルジオ・レオーネの名前は出て居なかったのですよね。1980年代に「荒野の用心棒」がビデオ化されましたが販売元は黒澤プロダクションでした。そして、イタリアではその後、イタリア製西部劇が続々と作られて行きました。なんでも1千本は作られたそうです。そしてセルジオ・レオーネは脚本家のダリオ・アルジェンドと共に脚本を書き。マカロニの秀作「もっと多くのドルのために」(日本公開名/夕陽のガンマン)そして名作の誉高い「いいヤツ。悪いヤツ。醜いヤツ」(日本公開名/続夕陽のガンマン・地獄の決闘)で大ヒットを飛ばしますが。主役のクリント・イーストウッドは制作資金がアメリカから送られて居た事もあり。
もう、イタリア映画では無く、本国に帰って映画を撮ろうと思い。アメリカに帰国しローハイドの監督だった。テッド・ポストを監督に起用して凱旋映画「ハング・イン・ハイ」(日本公開名/奴らを高く吊るせ)で牛泥棒に間違われて縛り首にされた男が、通りがかった保安官に助けられて、汚名を晴らす為に自分を縛り首に掛けた男たちを保安官になって、追跡して一人一人殺して行くと言う。ある意味シェークスピア的なマカロニ風西部劇を作りました。その後。ジョン・スタージェスと組んだ「ジョー・キッド」(日本公開名/シノーラ)ドン・シーゲルと組んだ「シスターサラと2頭のラバ」(日本公開名/真昼の死闘)そして。初の自身の監督作品「ハイ・プレインス・ドリフター」(日本公開名/荒野のストレンジャー)を撮り。
最後の自作の西部劇「アンフォー・ア・ギブン」(日本公開名/許さえざる者)でアカデミー賞を獲りました。一方、マカロニ・ウエスタンの方は色々な多彩な作品が生まれており。もう一人のセルジオであるセルジオ・コルブッチ監督作品の「ジャンゴ/続・荒野の用心棒」「殺しが静かにやって来る」「ガンマン大連合」「豹/ジャガー」アンソニー・アスコット監督の「ルパン三世」の元ネタになった「荒野の無頼漢」。同じくセルジオ・ソリーマ監督のアメリカの名優ユル・ブリンナーを主役に据えた「大西部無頼列伝」。ルチオ・フルチ監督の「真昼の用心棒」フランコ・ロゼッティと「ダビデとゴライアス」の監督フェルディナンド・バルディの共同脚本を、バルデイ自身が監督した。イタリア製西部劇「ガンマン無頼」など多彩な作品があります。
俳優たちも甘い2枚目なジュリアーノ・ジェンマ。渋いアンソニー・ステファン。彼はイタリアのクリント・イーストウッドと呼ばれて居ました。また男臭いフランコ・ネロなどが居ます。一歩、イタリア製西部劇の巨匠。セルジオ・レオーネは念願だった「風と共に去りぬ」のリメイク映画を作ろうとしますが。この映画の世界的評価は高すぎて、手が出ずに代わりにアメリカ・ロケを敢行して「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト(昔、昔、西部で・・・)」「日本公開名/ウエスタン」を撮りました。その後メキシコ革命を描いた「夕陽のギャングたち」そして弟子のトリーノ・バレリ監督作品のイタリア製西部劇「ミスターノーボディ」で決闘シーンをレオーネが撮ってやり。また、フランスの映画俳優。ロベール・オッセンが監督したフランスとイタリア合作の西部劇「傷だらけ用心棒」でも銃撃シーンなどを演出してやったそうです。そして1980年代に「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でユダヤ系のギャングの手記を映画化しました。1930年代の禁酒法の時代から1970年代までの話です。この手記を書いたハリー・グレイなる人物は、自分の人生が映画になると、公開を待ち望んで居たそうですが。最終的には観られませんでした。寿命が尽きたのです。
荒野の用心棒(さすらいの口笛)/ A Fistful of Dollars (Per un Pugno Di Dollari)
「続・荒野の用心棒」予告編
映画「豹/ジャガー」 Il mercenario
"texas addio" 「ガンマン無頼」
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」予告編_new
「映画評論本の紹介。」
私がよく使うDVDの輸入盤専門店「fantasium」です。アドレスを載せて於きますね。。。
https://www.fantasium.com
昨今の邦画を見て失望感と呆れ果てている人達には是非 今こそジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品を見て頂きたい!メルヴィル作品で自分のお薦め映画は『サムライ』って映画なんですけど 何とこの映画!日本の武士道精神で生きる孤高の殺し屋の話なんですよね?
この映画が醸し出す雰囲気と主演のアラン・ドロンの存在感がこの映画の核になって居ます。
アニメ作品を実写化して居る映画はもはや面白くないですよ。邦画見るならメルヴィル監督作品のBlu-rayもしくはDVDを買うお勧め致します。 損しないと思いますよ アニメを実写化した邦画に高い金払っていやいや鑑賞するよりはね。
モノクロ映画に拒否反応を示す人がおられると思うのですが映画好きならモノクロだろうがカラーだろうがいい作品 面白い作品は時を経てもいいのでモノクロ映画でも観て頂きたいですね。
ラストに本の内容なんですけど。ネタバレになると思われるので詳しくは述べませんが
冒頭部分はメルヴィル監督の生い立ちとその背景にある世界観は結構詳しく語ってましたね
いい研究本でしたよ......。
はじめてムービーカメラを手にしたのは6歳のときだ。少年時代、一日は朝9時に映画館ではじまり、午前3時にそこで終わった。戦争から帰って映画を撮る前から、ある人物と一体化したいと言う欲望からメルヴィルと名のった。そう、『白鯨』のハーマン・メルヴィルだ。―忘れがたい名作『海の沈黙』『いぬ』『サムライ』『影の軍隊』『仁義』など、生涯に遺した13本の作品と自らの人生について縦横に語った貴重な記録。
フィルム・ノワール(暗黒映画)の巨匠・メルヴィル監督が、自らの作品について語った貴重なインタヴューです。メルヴィル自身の生の姿、考えが生々しく現れ、「この映画(シーン)はそう言う意図があったのか」と、彼の映画が大好きな私にはとても刺激的な発言の連続でした。日本未公開を含めた全映画のあらすじ、キャストを記したフィルモグラフィー、スチール写真、丁寧な注釈が附録されて居るのも嬉しい。刊行直後にメルヴィルが急死した為、遺作の『リスボン特急』についてのインタヴューはありませんが、巻末での矢作俊彦氏と押井守氏の対談で語られて居ます。とにかく、メルヴィルと言う人はとことん映画を愛した人だったと言う事が解る、非常に読み応えのある本です。それから彼はジョン・ヒューストンの事を可也評価しており。彼は13もの手法を1本の映画の中で使って居るが?私は3つぐらいしかまだ使えては居ないと。監督は数箇所でジョン・ヒューストンを大絶賛してます。此の本を読むと『アスファルト・ジャングル』を観たくなります。皆さんもメルヴィル作品と一緒にジョン・ヒューストンの『アスファルト・ジャングル』も観て下さい。なんとマリリン・モンローがまだ19歳位の初々しい可愛い女の子の役で出て居ますよ・・・・・・。
UN FLIC (Dirty Money) - Isabelle Aubert and Michel Colombier
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2016年5月27日発売Blu-ray&DVD『サムライ』予告編(字幕なし)
Le Samourai (1967) - Final Scene
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Jean-Pierre Melville par Thierry Jousse - Blow Up - ARTE
町山智浩の映画塾!「アスファルト・ジャングル」<予習編> 【WOWOW】#141
Death Wish 3 shooting
スーパーマグナム(Death_Wish3) 達者でな
しかし何時も代わり映えのしない部屋ですねぇ、、相変わらず汚いし、散らかって要るしね。
まあ、62歳の貧乏人の男寡の一人暮らしではこんなものかなと・・・・・・・・。
今回は此処までです。今日は青木志貴くん(ちゃん?)のことから急遽藝術論となりました。彼女(彼)?はキュートで非常に美人で可愛いですね。まあ、女の子であれ男であれ「美」に変わりはないんですよ。世の女性たちよ。後に続いて下さい。美しく可愛いくて性格がよく素直な女性が世の中に沢山産まれる事をじじいのkiyasume は心から願って居ますよ。それでは、また更新出来たら逢いましょうね.....。それではまた。。。。