今回を持ちまして、blog記事の方は、1週間から10日間はお休み致します。体調不良に寄ってですが。更新出来なくなりました。今日も訪問看護師さんが来てくれましたが。私が調子が悪いので焦って居ました....。昨日の夜は吐いて仕舞いました。処置なしです。そして余りの眠さに座っても要られません。無理して起きて居ると偏頭痛がして、頭が痺れて来ます。昨日、薬剤所に行って、薬が多過ぎるのではないか?と言った処。「今の処、そうそう強い薬は出て居ませんけどね、、何故だろう?」と言っては居ましたが・・・。イヤイヤ、今まで飲んで来た薬の効用の積み重ねもあるのだと思って居ますよ。昨日は主治医と3分間だけ話をした。私が話さ無いのではなくて。主治医は3分から5分しか何時も話しません。昨日は、1日、20時間は寝て仕舞うと言ったら、抗精神薬を外すのではなくて。睡眠薬の種類を変えてそれを頓服で出した。始め、主治医は睡眠薬を全部外すと言って居たが。私が反対したからだ。睡眠薬は正常な効き方をしてくれて居るからだ。
私が願って止まない事は、抗精神薬の量を減らして貰う事だ。しかし主治医は減らさない。確かに、昨年の夏頃に、抗精神薬の量を半分に減らした事があったが。そうしたら、幻覚幻聴が出て来て仕舞った。だから主治医としては、薬を減らすのは、慎重に成らざるを得ないのだろう。でもね、何とか成らないモノなのだろうかと思いますよ。此の私の病は、意識が飛んで無くなる事があります。あれ、家に居たのに。何で、今、外歩いて居るんだ???とか、、外に行こうと思った経緯があったはずなのに。意識が飛んで其処の処の記憶が無いんですよ。それから身の回りの事に無頓着になる。私は風呂にも入れませんから。私の障害が解らない人が聞いたら、「何て汚ねぇ奴だ・・・。」とお思いになる事でしょうね。その事は病気の一環であったり、薬の副作用であったりするんですよね。だからそう言う事でも、統合失調症患者は嫌われて差別を受けます。それから今、私が一番気がかりな事は2つあります。まず生活保護の申請が通るかどうか?そして住居の問題です。今住んで居るアパートは建て壊しが3年後になると決まって居ます。だから、あと3年しか住めません。3年経ったら他のアパートを探して入居すれば良いじゃないと思うと思いますが。
私の歳を考えて下さい。私は今年の4月で63歳になりました。3年後は66歳ですよ。アパートを借りる時には年齢制限があります。私が今回のアパートを見つけた時にも。不動産屋で可成りな数の物件が断って来ましたよ。要約、今の此のアパートを見つけて入って来たのですよね。。。私が丁度60歳の頃です。私は今から14年前に意識が飛んで家中を叩き壊した様です。しかし、その事は認知症だった母を通わせて居た内科医から忠告を受けて居ました。こう言われました「〇〇君、、あなたも精神疾患がある身なのだから。此の儘、お母さんと暮らして面倒を見て居るとあなたは大変な事になるよ!!早く兄弟に連絡取って、お母さんを施設に入れて貰いなさい!!」だから私は姉と弟に連絡を取りました。すると姉は「私は他家に嫁いだ身よ、言って来るなバカヤロー!!」弟に電話を掛けても「何でもかんでも僕に行って来るな自分でどうにかしろ!!」そう言って話も満足に聞いてはくれませんでした。結果、私は発病し。姉と弟は、私を精神病院に1年間閉じ込めました。
今でも忘れません。退院して実家に帰って来た。その日、その直後に「家を出ていけ!!」と言われました。私はよく今まで人を殺めて来なかったと思いますよ。どいつも、こいつも恨みつらみしかありませんから。世の中はそうしたモノです。誰も救ってはくれません。私は身をもって知って居ます。もし生活保護が通らなかったら。3年後に居住地が定まらなかったら、死ぬしかありません。そう考えると、今は寝て居るしかない身の上だから仕方が無いと、あきらめるしかない状態です。。。皆さんもくれぐれにも、結婚する時には相手の家系に精神障害者やら障害者が居ないかどうかよく確かめましょう。何故なら、遺伝するからです。自分の子供に旦那の家系の血筋は色濃く反映されますよ。私がこんな病に罹ったのは、全部父親の家系からです!!私は親父を憎み、親父の家系を呪って居ます。ゆきかず!!けんじ!!お前らは早く死にさらせ!!。今は此の二人が死ぬ事を願って居ます。何か恨み節になって来たのでこの辺にします・・・・・・・・。
美しい曲です。お聴き下さい.....。
New Trolls -
=エッセイ「原風景」= 過去記事より抜粋、、
私が住んで居る街は心地がいい。私を混ぜて行くと街の色に染まる。それがとても心地がいい。そして私はこの街の一部となる。まるで街に抱かれて居る様な感じだ。前住んで居た実家があった街は違った。どこか私にはよそよそしかった。住んで居る人が行けなかったのだろう。多少トラブルもあったのだ。でもこの街は違う、心地がいいのだ。今日は「すぎ」と言う喫茶店に入ってサンドイッチにアイスコーヒーを昼に食べた。そしてメンズを見てくれる美容院を探した。その結果2店舗が見つかった。そのどちらかで、次回は髪を染めて、パーマを掛けようかと思って居る。街に対する原風景。それは私に取って、好きな街ごとに変わる。例えば新宿。見慣れた高層ビル。そして隈雑にも見える店々。そしてそこに集う人々。こないだ新宿で映画を観た帰りに、とんかつ屋に入って食事をした。すると私はある郷愁に抱かれた。そこで食事をして居る男たちは皆、長髪だったのだ。着て居るものもモード系だった。私は長髪が好きだ。自分も長髪にして居るし。長髪には愛着がある。子供の頃の原風景だ。私は何遍も言うが子供の頃に、全共闘の学生たちを間近に見て居た。私は当時の大学生の服装やら、髪型に大いに影響を受けた。子供心に大人になったら絶対に長髪にすると思ったのだ。
その学生たちが足繁く通ったのがこの新宿だ。そして私もよく通った。ある時には怪獣映画を観に親父に連れられて。また、ある時には、アート系の映画を映画小屋に観に。中古レーザーディスク。輸入ビデオを買う為に。しかし、そんな新宿のイメージは最近は薄れて仕舞って居た。なぜなら外国人、特に中国人が沢山闊歩して居る街に、変わって仕舞ったからだ。国際都市新宿の誕生だ。私は何も中国人を差別して居るのでは無い。私が子供の頃に私の周りには中国人と韓国人が居た。韓国人は友達のオウ君だった。また父親の仕事関係で中国人の張さんもよく家に遊びに来た。しかし私の新宿への原風景は、雑多な芸術文化を発信続けた、アート文化の街なのですよ。唐十郎の情況劇場。寺山修司のアングラ演劇。今の新宿にそのイメージは無い。しかし原風景のスタイルとは厄介なものだ。
それは時には牢獄と化す。自分を移し、自分を模倣する鏡の牢獄となる。要するに原風景からはなかなか逃れられないのだ。その原風景の人たちがあのとんかつ家には居た。多分芸術家やらアーティスト達だったのだろう。私がその店に入ると給仕の女性は、私もまたその仲間の一人として受け入れた。それは私が着て居たヨウジ・ヤマモトの服のせいもあるのだろう。服が人を表すのだ。私の哲学は至ってシンプルなものです。実存主義者を気取っては居るが。それはある意味スノップなのだ。しかし私はヒップはもう追わないだろうと思う。老人的な保守派には成りたくはないが。もう歳だ。都市に翻弄されるよりは都市に抱かれて暮らしたいのだ。他の街の原風景も話そう。立川。この街は、私に取っては新宿と同じで。私が40歳から50歳に渡る10年間。ご存知の様に障害を持つ病気のせいで、病院通いをしに来て居た街だ。私はこの町でオリオン書房と言う本屋と、「マルパソ・カンパニー」と言う。レーザーディスク・ショップが気に入って居た。東京では多少、田舎臭さが残る街だが、私に取っては、心地良い感覚がした町だった。それから、調布。私が長期入院をした病院がある街だ。入院中の長い苦い経験の記憶がある処だ。どんな処に行こうと。どんな風に生き、何を話そうと。何を食べ。何を着ようと、何を趣味にしようと。私は私だ。
独自性(アイディンティティ)。身震いするほど大切な言葉だ。安らぎや満足に響きが隠れて居る”独自性”。自分の場。自分の価値を問い。自分が 誰か"独自性!を問う。自分たちのイメージを作りそれに自分たちを似せる。それが"独自性”だ....。作ったイメージと自分たちの一致が?自分たちとは誰なのだ。私たちは都会に住み都市が生きて、時と共に、自分は変わり。原風景は明らかに遠くなって来て居る。原風景は時代遅れか?。では何がヒップなのか。それは、"独自性"に裏付けられた、現在なのだと言えるのだと私は思う。全ての生物に寿命があるように、都市にも移りゆく変化と言うものがあるのです。人はさよならの数だけ愛を知る。私は、21歳で病気になって、それまで精根を傾けて追及して居た音楽を諦めなければ成らなくなった。しかし街には抱かれた。私はこの世界では永遠の異邦人なのだ。そうだ、私はヨーロッパにおけるロマと同じ存在なのだ。差別される側だ。しかし今住んで居る街は心地がいいのです。そしてこの終の住処のボロ・アパートも......。私は街から愛を貰って来たのです。話して居て、新宿のあの、とんかつ屋にまた行きたくなった。中古レコードを購入した帰りに。自分と同じ匂いがする男達に囲まれて、また久々に、とんかつが食べたくなった。明日辺り行こうかな・・・。
年齢に悩める人、迷ってる人はちょっときて。
行きつけの贔屓にして居る喫茶店で、奇妙な事があったのです。何故かと言うと。私は此間この喫茶店に行った処。ウエイトレスの女の子が、突然、「おう!!」と言って来たのですが。なんだ?と思って居て。今日、ウエイトレスの女の子が優しそうな子だったので。此間の子は何だったのか?と思いながら。食事をしたのですが。その時に山本耀司の本を読みながら、そしてズボンのベルトに掛けてあるフォルスターを開いて、中からハーモニカを出して手に翳して見て居たら。こう言うのですよ。「あれの中身はハーモニカだったのか・・・。」と.....。どうも以前にも新宿の紀伊國屋でもあったのですが。その時は店員の若い男が、私が本を袋に入れて貰って、カウンターに背を向けたら。「あの人。腰にサバイバルナイフなんかつけて居るよ。物騒だな!!」と言うのですよね。今回もそうです。私ははっきり言って目立つ格好をして居る。全身黒ずくめに長髪そしてパーマを掛けて居る。だから怪しまれたのだろうと思う。此間はその店で食事をして居たら。カメラのフラッシュが焚かれた音と光が射して。なんだろと思ったのです。恐らく、ミュージシャンでは無くて、ヤクザものかと思われて居たのかも知れない。まあ、ねぇ、、、色々有りますよ生きて居るとね。皆さんは本当にミュージシャンの格好を知らなさすぎる。腰のベルトに掛けて居るフォルスターにはホーナーと社名が入って居るのですよね。ホーナーと見れば普通はハーモニカ・メーカと思いませんか?分からないのかなぁ。。。。そんなに無知でどうするのかなぁ。呆れますけどねぇ。何故腰からぶら下げて居るのかと言うと。昔、黒人のブルースマンが東京に居まして新宿で出会ってから、親しくなったのだけども、その人から、私がブルースハープを吹いて居ると言ったら。「今、持って居ないの_」と聞かれて私が「今は持って居ないよ」と言ったら。「なんで!!ジュニア・ウエルズが言ってたじゃん。何時も持ち歩いて居ろとさ」そして私に続けてこう言ったんです。「ハーモニカ1本どのくらいの重さだよ?これからは持って居なよ」そう言われたんですよ。それ以来。腰にハーモニカ専用のフォルスターを下げて中にハーモニカ入れて持ち歩いて居るんですよ。
kiyasumeのヘタなハーモニカ演奏です、
歳を取るとはどう言う事なのだろうか?良く歳成りきにしろと言うし・・・。「おじさん化」するとは、どう言う事なのだろうか?「おじさん化して居ない人は、姿勢が良く、肌ツヤが良く、清潔感があり、年を取る事を前向きに捉えて居る。」要するに『自分に自信がある人』の事」。欧米はすぐに自分を信用させたり、すぐに自分の力を感じさせないと淘汰される文化。見た目で劣って居たら、挨拶もさせて貰えない。一方、日本は、『奥ゆかしさ』『控えめ』が美徳とされる。そもそも、『見せ方、見られ方』の意識は、欧米人ほどには持ち合わせて居ない。老いに対する受け止め方が、否定的なのが日本人の特徴。例えばフランス人は年を取る事に肯定的で、幾つになっても自分への自信があり、何時までも現役で居ようと言う気持ちがある。年を重ねる事は、多様性を受け入れて、人間的に成熟し、人生が豊かになる事だと解釈している。日本では、カッコよさは若い人の特権の様に考えられ、『カッコ良く歳を重ねる』と言う意識が少ない傾向にある。いや殆んど無い。年齢やポジションによって、以前と同じ事をしても違う風に捉えられて仕舞う事は多々ある。清潔感も同様。若いうちは多少清潔感に欠けていても「ワイルドさ」を演出出来たかも知れないが、同じことをおじさんがやっても、ただの不潔になるだけなので注意が必要だ。年齢を理由に何かを諦めて仕舞う自分に気がついたら、年齢を忘れる様にして見るといい。ちなみにフランス人は、「年齢は記号だ」くらいにしか考えて居ないそうだ。どんなに年齢を経ても若々しく見せたい、と考えるのは女性だけでは無いですよね。男性だって何時までもカッコよく若々しい姿で居たいと思うでしょう。もし年齢的には中年と言われる年代になっても、やはり若々しく居る為の努力は怠りなく無いものですね。
オッサン化しないための対策の一つには、自分には若作りかなと思える格好でも。そう言った服を着る事。確かに一般常識を持つ人は年齢が行って居るのに若作りをすると、怪訝そうに見るし、酷い人になると「若くも無いのに!何その格好!!」と言う人も居る。私も歳を取った訪問看護師から皮肉を言われた。しかしそれはその人が若作りをした服を着て似合って居る事への僻みとも取れるのです。私の事で言えば。私は1970年代の格好を心がけて居る。モッズ・スタイルやらモード・スタイルなどです。人はこの歳に成ったらこう、在らねばならない。と言う固定観念が強い。でもね、今の時代はどうでしょうか?ニートも居れば、引篭も居る、時代が半端者の存在を許して居る。私は働いてた頃に会社の社員のユニフォームがあった。ジャンバーだった。しかし私は余り着なかった。親父が昔会社で作ったブレザーをくれたのでそれを着て居た。グリーン色のブレザーに会社のロゴが入って居た。それが良くお得意先から来る人やら、一般の客に「良く似合って居ていいですね」と言われた。最近テレビのドキュメンタリーでアパレル業界のことを放映して居たが。最近では作業用も兼ねて居る機能性に優れて居て。見た目はお洒落なブレザー・スーツと言うのが。車の修理工場やら中小企業の社員たちの間で人気があり。評判で売れて居ると言う。作業服は、最近物凄くお洒落になって来て居る。時代は変わるのだ。
昨今では、男の化粧は若者たちの間では当たり前の様にして居る。ただ、私が残念だと思うのは、文化(カルチャー)に対する歳を言った人たちの偏見だ。何時迄、昭和30年から40年代で止まって居る。今、50歳、60歳の人でもそう言う人が居るのだ。確かに個人の好みはあるだろう。しかし、自分は歳だから老人の格好をする。だから人もそうするのが当たり前だ。それはおかしい。自分が知らない世界は蓋をする。覗いて見ようとも思わない。そして、カッコイイ格好をして居る男を見て僻む。そして貶す。私の父が勝手私に言った事がある。「俺だって、ジーパン履いて見たいさ」だから私は60歳の親父に言った。「イイじゃ無い。買って来てやろうか。素敵になるよ」すると「な〜にが」と言ったきり、その話は立ち消えてしまった....。皆さん、お洒落に歳は関係無いのです。若者が来て居るコートとかでカッコイイなと思ったら買って着て見ましょう、例え、あなたが60歳でもそのコートはあなたをカッコよく見せてくれますよ。服とはそう言う魔力を持って居るのです。お洒落に年齢は関係ありません。服も芸術作品なのですよ。芸術は万人に開かれて居ます。
オシャレとは何か。
人は人の影響を受ける。私が小学生の頃に私の周りに居た、大学生たち。ある人は私にシュノーケルと足ヒレを買わした。川に行って素潜りをさせる為だ。当時私は趣味は音楽を聴く事と絵を描く事だった。その学生は半ば強引に自分の趣味を小学生である私に押し付けて来た。私はその学生は何か変だなと思って居た。私以外にも小学生を連れて来たのだ。よくよく考えれば、その学生は同年代の学生の友人は居ない様だった。確かに九州男児で面倒見はいいが、自分勝手な処が有った人だった。その人からは程なくその手下である、その小学生も居なくなって行った、そして彼は自殺未遂を起こした。そして鹿児島へ帰って行った。だが私はその人に世話に成った事は忘れては居ない。それからこう言う学生も居た。その学生が部屋に居ない時に一度コッソリ入った事がある。何と部屋には大股びらきのヌード写真が沢山散らばる様に置いてあった。そして、ティッシュの山が(笑)何と東大生だった。学業が出来ても性欲は抑えられなかった見たいだ。色々な学生たちの生態を見て来た。北海道から来た学生は明星大学に入って居たが。頭脳は明晰でおそらく国立でも受かって居ただろうと思う。コレは母も言って居た、「北海道のお兄ちゃんに物事を聞くと何でも知って居る」と。彼は自分より出来が悪い従兄弟に東大に入られて仕舞い。やけになって程度が低い大学なのに推薦で東京に来たのだ。早稲田の学生と高千穂の学生は何時も喧嘩をして居た。早稲田の学生が高千穂の学生をいい様にいじめるのだ。なぜなら高千穂の学生は背が146センチしか無く、太って居てチンチクリンだったからだ。私は差別はしたくはないが、、、田舎の学生です。当時はまだ1968年から1970年代だったから。貧しい家の学生は背丈も伸びないし。来て居るものも粗末な服を着て居る人が結構居ました。色んな学生が居て。そして東京の大学を出たと言う事なら地方では、一家総出で、お祝いモノだった。
中には西村と言う不埒者も居た。親父の会社でアルバイトをして居たのだが。何と姉さんが好きだった様だ。よく家の中の廊下で姉さんが通り掛かるのを待って居た。姉さんは察して、避けて居た。そいつはバイトでもいい加減に仕事をして居て。ゆきかずなどから嫌われて居た。母はお嬢さん育ちだったが、学生の心理状態をよく心得て居た。ある学生が失恋をして元気が無いと。可愛い女の子がセミ・ヌードで海岸を歩いて居るポスターとかを何処かからか買って来て。「これ部屋に貼れば?」と渡して喜ばれて居たし。中央大学の学生がワンダーフォーゲル部に居ると、朝が早いのだが、早起きしてその学生に食べさせて。その上。弁当を作って持たせてやって居た。母は料理が得意だったので、よく握り寿司の型を一つカッパ橋で買って来て、それにシャリを詰めて形を整えてからちゃんと寿司を握って、重箱に入れて学生たちに出してやったりもした。驚いた学生が「おばさん。これ、出前で寿司屋から取ってくれたの?」と言って居た。その度に母は「私が作ったのよ♪」と嬉しそうに言って居た。それから学生は大食いだ。何時もご飯が足りなく成る。すると何時も母は家の斜向かいで営業して居た定食屋に行ってご飯を分けて貰って居た。昔だから出来た事です。
私が小学校3年生の真夏の時だ。母は何故かお化粧をし。タンクトップを着てミニスカートを履き私を連れて、新宿に行った。買い物をするのかなとも思ったが、少し浮かない顔で、私の手を繋ぎ、そして、暫く無言で歩いた。私は「母さんどうしたの?」と聞いた。そうしたらこう言った。「此間。近所の魚屋に魚を買いに言ったら、そこの店主から、「ありゃ、奥さんおかしいよ、顔つきがおかしいよ。どうしたの気でも違ったかなぁ〜〜。変なの。ブスになってる?」と言われたのよ」と言う。そして「〇〇。今日はどこ行きたい。行きたい処に行くよ」と言うのだ。私はなんか気落ちがしたが、「映画見ようよ....。」と言った。そして、丁度、掛かって居た「イージーライダー」を見た。映画の最後にアメリカ南部の住人から、ヒッピー・スタイルのデニス・ホッパーとピーター・フォンダが、ラスト、差別で無言でショットガンで撃ち殺される映画だ。しかし母はしっかり最後まで観て居た。そして、映画が終わると、映画館の外に出て、「フルーツパーラーに行こうか?」と私を新宿のビルの地下にあるフルーツパーラーに連れて行き。チョコバナナ・パフェを食べようと言って2つ注文した。私はゴージャスな店の煉瓦造りの雰囲気に少しびっくりして辺りをキョロキョロして居た。
するとパフェをウエイターが持って来て、二人で食べながら母が話し出した。「お前は今の映画見てどう思った?」私は言った。「酷いと思った。あの二人は全然悪くは無いもの」すると母が言った。「世の中はね。少しでも人と違う事をすると途端に攻撃されるものなのよ」私は黙って居た。するとこう言った。「お前は音楽好きだね」そして続けて行った。「戦後少し経ってから、銀座で働いた事があったのだけども。会社の帰り道にある雑居ビルの地下から、よくジャズ演奏が聞こえて来てね、、」「え〜〜。すごいじゃん」「昔の生バンドのジャズ演奏は凄く巧かったのよ」「私はよくその雑居ビルの前に立ち尽くして、その地下から聞こえて来るジャズを聴いてた....。ひとりぼっちで......。」「田舎から一人で出て来てねぇ、誰も身寄りが居なかった」私が心配そうに母の顔を覗き込むと、こう笑顔で言った「ロックはよく解らないけど。ビートルズの丸眼鏡掛けてる人。あの人の歌好きだよ」「なんで知ってるの?」「お前がよくお勝手の隣の部屋でラジカセで聴いてるじゃ無い?」「それで知ったの?」「そう。あの曲いい曲よね。イマジンだっけ。」「差別なんか無くなればいいのにね」そして帰りにデパートに寄ってから電車で帰って来た事があった。私は今でもイマジンをよく聴く。ジョンが生きて居たら。今の世の中を見て嘆くだろうと思いながら....。ちなみに私はそれ以来パフェの魅力にハマり。男ながら、たまに新宿のその店で食べる事がある。あの頃は大変だったけど充実して居たね母さん。。。
Easy Rider 1969 End
イマジン - John Lennon - を和訳し日本語で歌いました!【歌詞字幕あり】
ザ・タイガース「出発の他に何がある」&歌詞(概要欄)
kiyasumeの今日の食事。体調が悪いのでバーミアンから出前を取った。
1970年代当時の、大学生は人によってはステレオを持って居た人も居た。しかしそのステレオは、大概古いものだった。1970年代の初めには可成りなモダンなステレオがあったはずだが、彼らがアパートに置いて居たステレオは古いものだった。その、ステレオは大抵テレビとラジオもついて居たものだった。
また1970年代の半ばに成ると、ラジカセでカセットデッキに、小型ブラウン管・テレビが搭載されたモノも発売し出して居た。私は欲しくて年中隣町の大型電気ショップに見に行って居た。しかし買え様も無く。私が買えたのはサンヨー製の普及型ラジカセ1台だけだった。
ビクターの「ラテカセ66」は、とっても格好いいですねぇ…。ぱっと見、アマチュア無線機見たいです。
ブラウン管の性質上、どうしても奥行きを持たせた作りになって仕舞う為、一種独特な風貌になって仕舞った「ラテカセ」ですが、その無骨なフォルムは、かえって安定感と安心感を持たれて、多くの人に好まれた様です。
しかし、ブラウン管テレビから液晶テレビ、アナログ放送からデジタル放送、カセットテープからデジタルオーディオプレーヤー、そしてクラウド・オンデマンド音楽サービスへと移行するにあたり、「ラテカセ」の系譜は完全に断たれて仕舞いました…。と思ったら、いまや携帯電話に是等の機能が全て内蔵されて「スマートフォン」となり、ポケットに入るサイズになって仕舞ったのですから、凄いですねー。
どれだけ色々な機能を一体化して仕舞えば、気が済むと言うのでしょう・・・。此れらの発想が、今のスマホに繋がって居るのだろうと思います。