歌川広重は、葛飾北斎と並んで、徳川時代の浮世絵版画を代表する画家である。その名声はヨーロッパにまで及び、いわゆるジャポニズム・ブームを呼んだほどだ。広重の風景版画としては、東海道五十三次のシリーズや、木曽街道六十九次のシリーズが有名である。名所江戸百景と題した大きなシリーズものは、安政三年(1856)から同五年(1858)にかけて刊行した。名所江戸百景とうたっているとおり、江戸の府内、府外合わせて119の風景を描いており、名所といわれるようなところはほとんどすべて網羅されている。写真のなかった当時、風景版画は人々にとっては身近な名所案内であり、また芸術鑑賞ともなった。そんなこともあって、大きな評判を呼び、版画としては異例の発行部数を誇った。
広重の絵の特徴は、独特の構図と、豊かな色彩感覚にある。広重は遠近感の表現がうまく、手前のものを巨大微細に描く一方、遠景を非常に小さく描くことで、その間にある空間を、遠近感をもって人々に認識させた。色彩については、ヒロシゲブルーという言葉があるように、独特の青の表現が特徴である。このブログでは、歌川広重の「名所江戸百景」119点のすべてについて、描かれた場所の解説とか、絵そのものの鑑賞をしたいと思う。
「両こく回向院柳島・馬喰町初音の馬場」
「家康の関ヶ原への旅立ちは 馬揃えした初音の馬場から」
両ごく回向院元柳島
両国を含む本所の町は、明暦の大火以後にできた。まず隅田川に橋がかけられ、その東詰めに、大火で死んだ約十万人の人びとを弔うため、回向院が作られた。その回向院では、無縁仏を回向するために、年に二回勧進相撲が催された。それが今日の大相撲へと発展するわけである。これは回向院から元柳橋方面を眺めたもの。元柳橋は、薬研堀にかかっていて、もともとは単に柳橋と呼ばれていたが、神田川の入り口に柳橋が作られて以降、元柳橋と呼ばれるようになった。手前に見えるのは勧進相撲のやぐら太鼓。この太鼓は場所のある日の早朝と、取り組み終了時との二回叩かれた。そのやぐら太鼓が前景に大きく描かれ、元柳橋をはじめ背景の光景がぐっと小さく描かれているのは、広重一流の誇張法である。
馬喰町初音の馬場
馬喰町は旧奥州街道の出発点。名前の由来は、馬喰町三丁目の西側にあった馬場から来ている。その馬場を初音の馬場と言った。その馬場を拠点にして馬の取引がなされ、博労たちが大勢住んでいたことから馬喰町と名づけられた。その昔、家康が関が原に向って出発した際、ここで馬揃えをしたとも言われる。絵には見えないが、このあたりには郡代屋敷があって、幕府直轄地における訴訟を取り扱っていた。直轄地の農民や町人は、訴訟事があるとここへ訴え出た。そんな彼らの宿泊所として、一帯には公事宿と呼ばれる旅館が集中していた。背後に見えるのは馬喰町二丁目の火の見櫓。半鐘がかけられているのは町日消しのもの。幕府定火消の火の見櫓には大太鼓が、大名屋敷の火の見櫓には板木が付けられていた。
参照
https://j-art.hix05.com/33.2.hiroshige/edo001.nihonbashi.html
https://j-art.hix05.com/33.2.hiroshige/edo003.ekoin.html
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