愛犬ラッキーと早朝から散歩の毎日です。
犬も賢いなあと感ずることが多いですよー。
私から離れても何時も確認していましたが、今は自分本位で自由に走り回り、何かの動きに敏感に反応して動いています。
何故だろうかと考えますと、周りの状況が頭に入り離れていても何も不安を感じないのだろうと思います。きっと安全で安心感があるのでしょうね。
簡単に言えば独り立ちできたのでしょうね!
山と平地の二重生活をしていますので大変な所もありますが、平地に帰る時は愛犬ラッキーも檻に入れて車で帰りますから、
最近では嫌がり逃げてなかなか鎖に繋がれようとしません。
何故かと言いますと、平地に帰れば田舎なのですが、鎖で繋がれて自由に行動させないためなのですよ。
隣家に迷惑がかからないようにしているためです。でも朝晩の散歩は確実に連れて行きますが、自由がないということが嫌なのでしょうね。
逆に山へ来る時は、喜んで車に飛び乗り檻に自分で入るのですよ。ちゃっかりしているでしょう。
いかに山の自由な行動を喜び楽しんでいるのかがわかりますね。
人間も同じなんでしょうね、自由民主主義と共産主義の違いかもしれないなあ‼️
さて、人間も安心安全で健康で穏やかな日々を暮らしたい、幸せな生活をしたいと望んでいますが、
また世界中の人たちが皆んな仲良く平和に暮らしたいと望んでいますが、
でも現実はどうでしょうか?
程遠い感じでしよう。何故なのでしょうか?
お釈迦様はこの世は四苦八苦ですよ、それを超越するための教えをいろいろと説いて下さっています。
イエスキリストとも同じように説いてくださっていますね。
この道を行けば幸せに穏やかに過ごせますよと二大聖人は25百年、2千年前から愛と慈悲を説いてくださっていますが、実行できる人が少ないみたいですね。
残念ながら神仏を否定する人たちがいかにも多い気が致します。(目に見えないものを信じない人たち)
自分の力で生きているのでない、自然の恵みの中で自然(神仏)に『生かされて生きている』このことさえも理解できていない人が多いですね。
また宗教団体にも問題があると思いますね、人の幸せよりも自分たちの組織が生きてゆくためのことを優先している感じがいたします。
お釈迦様、イエスキリストとの原点の教えから逸脱している点が多く見受けられるなあと思うのは私だけでしょうか?
お釈迦様は右にも左にも偏らない中庸の道を説かれています。
お釈迦様の実体験から悟られたことですね。(弦は強く締めれば切れる、弱すぎれば音が悪い、中庸が丁度良い)
野菜栽培も同じで水をやりすぎれば、肥料をやりすぎれば、消毒しすぎれば上手く育たない。
逆に水が少なすぎれば、肥料が少なすぎれば、消毒をしなければ、上手く育たない。
人間も同じで働きすぎで遊ばなければ、逆に遊んでばかりで働かなければ、上手くゆかない。
自分のことだけを考え、他者のことを考えなければ、逆に他者のことばかり考え、自分家族のことを考えなければ、上手くゆかないでしょうね。
中道(中庸)の道が安定して安心できるということになりますよね。
バランスと調和が取れている。
『いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことに感謝しなさい』
・・・イエスキリスト真理の言葉。
『正見、正思、正語』・・・お釈迦様真理の言葉。
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